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私物がないため、ベッドを整えれば部屋を移る支度は終わった。
「では行きましょうか、八花片」
「はい」
ダールガンさんに会いに行ったときも今も、部屋を出るのは普通の扉の方からだ。こちらは建物内部に続いており、マルクス君やロベルトさんが使っていた二枚扉は外に通じているらしい。
無人の廊下を歩くと、途中で建物が変わった。渡り廊下と思われる両側には風よけか目隠しか、軒から足元まで幕が張られ、横腹を波打たせた布地が冷たい外気を隔てていた。透過性は低く、向こう側を窺うことはできない。
「ここからが《花》の暮らす館になります」
目に見えて建物の雰囲気が明るくなった。淡い色の壁にはタペストリーがかかり、足元に植木鉢、壁掛けタイプの一輪挿しに小さく可愛い花。小さな気配りで作りだされるやわらかな空気が、いかにも女性の住まいらしい。
周囲には息を殺した気配と微かな物音。人がいることはわかるけれど誰も顔を出さない。それを当然というシラーさんの背中に納得がいった。出てこないように言われているんだろう。
階段を上り案内された部屋は、家の部屋に比べればずっと大きかった。住宅事情は日本とハールベリスでは違うだろうけれど、ここをわたし一人で使っていいのだろうか。
ベッドと鏡台、机と椅子が一つずつ。縦長のクローゼットのような衣装箪笥は下部が引き出しになっていた。シラーさんがクローゼットの扉を開け中を見せてくれた。服が数着、帯に下着やショールらしい大判の布もある。
「当面必要な服と肌着はそろえておきました。ここにある服は教会を去った花のものです。大体の寸法を合わせましたが、合わなければ直します。あなたが直してもかまいませんが、裁縫はできますか?」
鏡台に置かれた裁縫箱に古傷が疼いた。雑巾だって作品のひとつだし、全ての口を縫いつけてアップリケのポケットにしたエプロンも着れば可愛かったもの、問題ない。
「が、がんばりますっ。丈を詰めるくらいならなんとかできると思います」
「針を持ったことがあるのなら安心です。気負わずとも授業にありますから、刺繍など少しずつ学んでいけばいいでしょう」
「……今来ている服は、シラーさんが自分で刺繍されたんですか?」
「ええ。凝ったものは必要ありませんが、無地では寂しいでしょう。自分の着る服も仕立てられないようでは教会の花と呼べません。相手の狼次第ではそれも不要になるでしょうが」
いえ、充分凝った模様です……。シラーさんの服には胸にワンポイント刺繍がされていた。翼を広げた一羽の鳥から尾羽が伸び、その途中で尾羽が芽吹いた葉に、ふくらむ蕾に、そして咲いた花の一輪を嘴が咥えて輪になっている。
……卒業までの習得必須課題がレベルアップした。日本のように工場生産の既成服が買えるとは思っていなかったけれど、自分で服作りからしなくちゃいけないなんて。ハールベリスの服が簡素なデザインでよかった。もしドレスを縫えと言われたら留年するところだ。
服を当ててサイズを確かめていたら、お腹が鳴った……。もはや言葉もなくうなだれていると、「お茶の用意をしましょう」とシラーさんが出て行った。
この国では食事は朝夕の二食で、間にお茶の時間を挟むという。茶器をセットするシラーさんの傍に「手伝います」と寄って行ったら、どうしようか、と考える瞳で見つめられた。
「わたしにさせてください。いろいろなことを覚えたいんです。割ったりこぼしたりしないように気をつけますから」
「……そういう心配をしているのではありませんが、そうですね、後で知るより今見た方がいいでしょう」
見るって、何をだろう?
ポットの蓋に手を置いたまま、シラーさんが確認してきた。
「花が常に香りをふりまいていると問題があることはわかりますね?」
「はい、狼さんたちの気持ちが盛り上がっちゃうんですよね」
教会を卒業した花は一体どんな生活を送っているんだろう。狙われる危険があるから近所へ買い物にも行けないなんて不便だし、一日中家に閉じこもっていたら健康に悪い。
「ええ。そして緋紋の花はひと月に一度、否応なく狼を刺激する月役がおとずれます」
月役、というのは生理のことだと思う。勉強の一環としてシラーさんはあけすけに話してくれるけど、女同士とはいえ生々しい内容に羞恥を覚える。
「月役でも怪我でも、血の匂いは狼を高ぶらせます。教会では狼と接触しないよう専用の部屋に籠って過ごします。そう言った場合以外にも、花が自分で香りを抑える手段は必要です」
花の匂いを抑える方法。
ぱっと思いつくのは何かで囲うことだった。宇宙飛行士のように全身スーツでおおっていれば匂いはしない。でも酸素ボンベはなさそうだから、酸欠で死んでしまう。あとは……。
「何かの匂いでごまかす、とかですか?」
「そうです。狼を遠ざけるため、匂い消しの効果があるお茶や軟膏を利用します。あなたも香りがないことを下手に勘ぐる者が出ないよう、このお茶を飲み続けた方がいいでしょう」
「シラーさん……」
匂いがしないことに理由を持たせてくれるんだ。
嬉しくて微笑んでいると、喜ぶには早かった現実を見せられた。
「花にとってなくてはならないお茶ですが、好んで飲む花は少数です」
ポットの蓋が開かれた。
緑茶色にごろごろと沈むモノが最初はよく見えなくて、おぼろげに抱いていたお茶っ葉のイメージを粉砕する物体を捉えたとたん、わたしは悲鳴をあげて飛びのいた。
「シラーさんっ!! これお茶じゃなくて、いっ、いもっ……」
「虫ではありません」
「でっでも色とか形とか!」
「自分で動けない植物は花の香りで虫に受粉をさせたり、鳥に種を遠くへ運ばせるでしょう? 同じことです。虫に似せた実をつけることで鳥が食べるように仕向けているのです。この実も熟すと黄色くなり味が豊かになりますが、青い実でなければ求める効能が得られません。他に同様の効果をもつものは発見されておらず、《花》の香りを消すものはこれだけです。お茶としてだけではなく、《狼返し》の軟膏として身体に塗ったりもします」
見たくなかった。でも、原材料を知らずに飲んでいるのも嫌だ。軟膏を塗ることになればずっと鳥肌が消えないだろう。そうだ、飲めば一瞬。目を瞑ってゴクゴクっと一気にいこう!
カップに注がれたのはやや濁った緑の体液、じゃないお茶。うん、緑茶です。漉し器をすりぬけた得体のしれない黒いつぶつぶが底に沈んでいる。においはとっても青臭い。
「……冷たいんですね」
「熱や他の材料を加えると成分が弱くなり、量を多くとらなければなりません。このお茶は飲んでから効果が出始めるまでの時間と持続期間があることに留意し、効果が切れないように続けて飲む必要があります。お茶として飲むより直接口にした方が即効性があり、効果も持続します」
「無理です! あれを食べるなんて無理です!」
「……わたくしも勧めません。あれは……決して美味しくありませんから」
食べたことがあるらしく、シラーさんの口元がきつく引き結ばれた。言えない風味なんですね? 言いたくない食感なんですね……?
躊躇いをふり切って一口含むと、噴きだしそうになるほどえぐかった。思わずうっ…ときて掌で覆いおろおろ視線をさまよわせていると、さらにお茶を注がれた。一口分の減少を埋められ、カップを持つ手が震える。
涙目で見上げると、ポットを手にしたシラーさんが穏やかに告げた。
「一杯では効果がありません。これをすべて飲み干さなくては」
時々焼き菓子でなだめられつつお茶を飲み終えるのに小一時間かかった。
……今後、お茶の時間がトラウマになりそうです。
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花の館に出入りできるのは花と、彼女たちを世話をする仔狼だけらしい。食事は食堂へ行ってとるそうだ。わたしは任命式がまだだから部屋で食べていいのだと、夕食を持ってきてくれたマルクス君が教えてくれた。
「リンさま、あさってが任命式なんだね」
「何をしたらいいかわからなくてドキドキしてるの」
「ごめんね、ぼくも見たことがないから、リンさまにおしえてあげられないんだ……」
「そんなことないよ! ごはんだって持ってきてもらって、ありがとう。わたしは食堂の場所を知らないから返しにもいけないし、マルクス君がまた教えてくれる?」
「うんっ! それならまかせて、ぼくが案内する! ……でもあさってまでダメだよ? リンさまの花護が決まるまで、ひとりで出歩かないでね」
笑顔を取りもどしたマルクス君にしっかり釘を刺された。うろうろするつもりはないけれど、部屋の近くなら大丈夫かなと思っていたことを見抜かれたようだ。
おやすみの挨拶をかわして、マルクス君が帰った。シラーさんも今日はもう来ないと言っていたから、朝まで一人だ。
パジャマ代わりに裾長のストンとしたワンピースに着替える。
勉強しようかと教科書を広げてみても、あくびばかりで内容が入ってこない。もったいないので蝋燭を吹き消した。
闇に目が慣れてくると、カーテンを縦に割る細い月明かりに気づいた。きっちり閉まっていなかったらしい。
窓際に立つのは、まだ怖い。
ガラスは嵌っている、矢を射かけられることはない、大丈夫。数回深呼吸をしてベッドを出た。
カーテンの隙間から外を覗くと、下の方に篝火が燃えていた。わたしのいる部屋は三階か四階か、誤って落ちたら死んでしまう高さであることを確認して足がすくむ。……一階に部屋替えしてほしいです……。
ぎゅっと掴んだ拍子にカーテンが動き、大きく開いてしまった。その瞬間篝火の隣にいた人影が頭を上げた。夜なのと距離がありすぎて顔も見えないけれど、警護についている神聖騎士だと思う。
彼のはずはない。教会内部を守るのは内務だってシラーさんが言っていたもの。
頭ではわかっているのにしばらく目を逸らせずにいた。
すっと両手を上げた神聖騎士が、腕の振りでカーテンを閉める仕草をした。
「ごっごめんなさい!」
頭を下げ、急いでカーテンを閉める。心臓が驚きに騒いでいる。わたしは床にしゃがみ込み、詰めていた息を吐いた。
……あの距離で見えるんだ。
通常明るい場所から暗い場所の様子を見ることは難しい。窓に寄っていたとはいえ、建物内を見通せるなんて狼はどれだけ目がいいんだろう。
やっと鼓動がおさまってきたころ、トントンと扉が叩かれ、わたしの心臓は再び煩くなった。扉の下と床の隙間に、灯りがゆらめいていた。
誰だろう? こちらの蝋燭は消したから、寝たふりを通すことができるかもしれない。息を潜めていると、もう一度遠慮がちなノックが響いた。
「……もう寝ているかしら? それならまた明日来るわ」
囁いたのは知らない女の子の声だった。
無闇に扉を開けるのは危険だ。でもこの館には花と仔狼しか入れないはずだから、相手は大人の狼じゃない。シラーさん以外の花が訪ねてきた? 子ヤギの童話なら耳を見せてという場面だろうかと考えると少しおかしい。
「……今、開けます」
わたしは立ち上がり、扉へ向かった。
――目的がわからないなら聞いてみよう。




