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耳に心地よく響く声が告げた。
「――誓約は成りました。これで私は、あなただけの《狼》です」
伏せられた眼許を緋が縁取る。
褐色の肌に鮮やかな赤の対比が美しい。
頭を垂れる人に向かい、わたしは途惑いを隠せずにいた。
わたしが、この人の主……?
今朝までいたって普通の高校生だったのに、この逞しくて綺麗な男性の主人になったなんて、とても信じられない――。
++++++++++
学校が休みの日曜日。
わたしは一人で街にショッピングに来ていた。
お昼すぎからパラパラと降りだした雨はしだいに強さを増している。
お気に入りの向日葵の傘も空の暗さを拭い去ってはくれない。
どんよりと黒い雲が低くたれこめ、強い風が吹きつける。傘の中まで吹き込んだ雨で、ブーツの中までぐっしょり濡れていた。
真っ黒な空はゴロゴロと不気味な唸り声を上げる。歩いているうちに雨はどんどんひどくなり、バケツをひっくり返したような土砂降りになってきた。
ここまで降ると水を捌けきれない路面の上で、雨水が薄い膜を張って、道路全体が水溜りに覆われている。
通り過ぎる車は一様にせわしなくワイパーを動かしていた。
「――わたしがドライバーだったらこんな日は運転したくないなぁ」
ざんざんと傘を打つ激しい雨。視界が悪いどころか、雨にけぶる道の先は見通せない。
道路が大きなカーブに差しかかったときだった。
パァーッと甲高いクラクションが周囲に鳴り響いた。
なんだろう?
傘を上げ、前を見て……息を呑んだ。
耳の痛くなるブレーキ音を立てながら一台の車がこちらをめがけて突っ込んでくる。
避ける暇はなかった。
雨水を跳ね上げながら横滑りする車体は、あっという間に中央車線をこえて目前に迫った。
動けない。
立ち竦んだ身体にバンパーがぶつかった。強い衝撃とゴキリ、と堅い物をへし折る音が耳からではなく身体の中から響いて聞こえた。
全てがいやにゆっくりと見える。時間を薄く引き延ばしたよう。
フロントガラスごしに運転手の男性のひきつった顔が見えた。
身体が浮いた、と思った後には地面に落ちていた。そのまま転がったのか、視界が回りごつごつと頭を打つ感覚がした。それが止まった時も痛みは感じなかった。身体の感覚は薄皮一枚へだてたようにどこか遠い。
「うぐっ、ごほっ……」
胸に圧迫感を感じて大きく喘ぐと、喉の奥に溜まった液体がゴポゴポと音をたてた。操り人形の繰り糸を切られたように、身体が動かせない。
視界が真っ赤に染まり何も見えない。
瞼を閉じる。
指一本動かせない中で、それだけは自由だった。
目を瞑ると同時に、意識が途切れた。
++++++++++
――……な。
どこかで、声が聞こえた。
呼んでいる?
それは正確には声とは少し違うような感じだった。
言葉がもし水滴だったとしたら、水面に落ちた一滴が波紋を広げるように、繰り返し打ち寄せる細波のゆるやかさで繰り返される音。
――……な。はな。
はな?
……花?
誰かの名前?
なにを言っているの?
「……なにを、呼んでいるの?」
まどろむような意識を叱咤し、目を開けた。
目に映る光景に驚き、パチパチと瞬きをする。
視界に広がっていたのは、自分の部屋でもなく、学校でもなく、街の景色でもなく、灰色の場所だった。
何もない。
壁も、建物も、空も、景色がない。何もない。
行ったことはないけど、例えるなら何もない宇宙空間。ぼんやりと曖昧な灰色の周囲は距離感がつかめず、自分がどこに立っているかもわからない。
なんせここには地面がない。一面灰色で地面と区別できないから、上も下もわからなくて、ひどく心許ない気持であたりを見回した。
――誰? 《花》?
再び響いた声は、こちらの返事に最初びっくりしたように途切れ、途惑った調子で返ってきた。
「……違います。わたしの名前は鈴木鈴(すずきりん)です」
声はぴたっと止んだ。
まさか名前を笑ったわけじゃないと思いたい。
漢字で書くと上から読んでも下から読んでも、鈴木鈴。
鈴、という名前は気に入っているけど、もうちょっと娘のことを考えてつけてほしかった。
「結婚すれば変わるからいいじゃない」と親は笑って言うけど、結婚するまで名前をからかわれて過ごすことになるのかと考えたら、とうてい素直に頷けなかった。
――《花》、じゃないの……?
突如目の前が光り、子供らしきものが目の前に現れた。
全体が光っている人の形をした小柄なシルエットで、身長からしたら五、六歳頃だろうか。
子供はこっちの顔をまじまじと覗きこむように光る頭部を近づけてくる。
えっと、なんなんだろう?
直視できる程度の眩しさの電球が顔の前にあるようだ。人のぬくもりというか、熱は感じない。
しばしじーっと見詰め合う形になった。全体が光っていて、子供の顔の造作は見えない。どこで見てるんだろう。それともにおいでも嗅いでるのかな。
わけがわからない。正に夢とはそういうものなのかもしれないけど、今日のこれは変な夢だった。
――やっぱり、《花》だった!
突如歓声を上げ、子供(っぽい電球人間)は踊るように手を叩いた。動きにあわせて今までずっと聞こえていた声が聞こえる。
あの呼び声はこの子のものだったのか。
けれどこの子、勘違いをしている。
「ねえ、きみ、わたしはハナじゃないよ? スズキです、鈴木鈴。あと、人間です」
改めて自己紹介し、子供が理解しやすいように丁寧に言うと、相手はきょとんと首を傾げたようだった。表情はわからないけど、動作からそういうニュアンスが伝わってくる。
――きみは《花》だ。ずっと探してたんだ。ぼくの世界から消えた《花》を。こんな遠い世界にいたなんて驚いた!
子供は勢い込んでまくし立ててくる。
なにか興奮してるようだけれど、一体何の話?
「ちょっと待って、ハナって花のこと? わたしは人間だよ?」
――そうだよ、《花》が女性になるんだから。ちょうどきみとこの世界の縁は切れた。はやく帰ろう。
子供は今にも手を取らんばかりだ。光る顔の輪郭の中で、眼窩と思しき位置にひときわ眩しく輝く桜色の光点が二つ生まれる。
うわ、これが瞳なんだろうか。桜色の光はまばたきをしているようにぱっぱっと瞬き、その度に色味が濃くなっていく。光点は淡い桜色から薄紅に変わり、じっと見つめられると少し薄気味悪い……。
「……いったいなんの話か全然わからないの。花ってなに? 帰るってどこに?」
まじめに相手しなくていいんじゃないかと思うけど、子供にはどことなく無下に扱うことを躊躇させる雰囲気があった。存在感というのが一番しっくりくる。とくに「帰ろう」と手を取られそうになったとき、圧倒されるような力を感じた。
子供は悲しげに言った。気落ちしたように声のトーンが低くなる。
――覚えていないの? きみはぼくの世界の《花》だったんだ。何度萎れて朽ちたって再び咲くのはぼくの世界のはずなのに、きみはいなくなった。消えてしまった。だから探していたんだ。別の世界に行ったのはわかっていたけれど、遠くて今まで見つけられなかった。流れていった先の世界と繋がりを持ち、気配が薄れてしまっていたんだ。でもやっと見つけることができた。本当に間に合ってよかった。はやくぼくと帰ろう。
子供は大真面目な口調で立て板に水、と話す。
わたしは何がなんだわからなくて、内容が頭に入る前に聞いた端から抜けていった。
かろうじて隅っこに引っかかった言葉は、花とか別世界とか、ゲームをやり過ぎたとしか思えないキーワード。わたしだってゲームもすれば漫画や小説もよく読む方だけど、こんな風に一線を越えるほど非現実にハマることはない。ちょっと危ない子なのかな?
えーと、これはどういう夢なんだろう?
「あのね、わたしにもわかるように言ってくれる? 花とかいわれてもさっぱりわからないの」
――わからない? きみは《花》だよ。ずっとそう言っているのに……。
「花って、それはなにかの比喩なの……?」
――ちがう。自分の胸を見て。きみがぼくの世界の《花》だという証拠がある。
胸になにがあるっていうの?
自分の胸を見下ろして挙動不審になった。不思議空間に不気味な子供の登場で今さら気づいたんだけれど、全裸だった。素っ裸。街を歩いたら通報される。
密かに動揺しつつ、相手は光る宇宙人並みに得体の知れない存在だからまあいいかと無理やり自分を納得させて、まじまじと胸を見ると――。
「わっ、なにこれ!?」
鎖骨より下、胸の真ん中にくっきりと赤い痣のようなものが浮き出ていた。
痣は雫形のものを八個、窄まりを中心にして放射状に円にした形だ。いわれてみれば花を図案化したように見えないこともない。
指先で擦ってみた。痛みはなく、周囲の皮膚と同じで、デコボコもツルツルもしていない。仮にどこかにぶつけたとしても、こんな器用に模様を残せたらさすがに覚えているだろうし。
痣に見えるそれは、生まれつきそこにあるのだといわれれば納得しそうに違和感がなかった。それが奇妙だ。こんな痣が自分にあるのを知ったのも、見るのも、生まれて初めてなのに。
――それが、ぼくの世界の《花》の証。
「ねえ、花の証ってなに? 変なことしないで元に戻してよ!」
呆然としていたけど、子供が自信満々で言ったので我に返った。慌てて言うと、子供は何を言われているかわからないという素振りを見せた。
――元に戻すってなにを? 今きみは魂の姿なんだよ。きみは《花》だからその証が魂にも現れているんだ。おかしなところなんてなにもない。あるべきものはあるべきままに。神とはいえ無闇に手を入れて魂を変質させるのは禁じられているからね。
「神……? 何に手を入れるっていうの? 魂ってなんのこと!?」
――今きみは魂だけで存在している。魂の器である肉体を、失ったから。
……肉体を失った? どういうこと?
魂だけの存在なんて、まるで死んでしまったとでも言いたげだ。
わたしの疑問に返ってきた答えは、まるで信じられないものだった。