14
「……だったら、教会の花じゃなかったらいいんですか!? わたしがどこにも属さない花ならっ……」
カルステンさんは、“教会の花”と誓約を交わしたら駄目だと言ったのだ。この指輪を返したらわたしは教会の花じゃない。彼を罪に問う根拠は失われるはず――。
そう考えて指輪を引き抜こうとしたら、指輪ごと左手をロベルトさんの手に覆われた。除けようと引っ張るけど駄目だ、力じゃ敵わない。
「ロベルトさんっ離してください!」
「軽率な真似はおやめ下さい。教会に登録した理由をお忘れですか?」
「それは……でも!」
このままじゃロベルトさんはわたしの所為でっ……!
尋ねられる前に教えてくれていれば、不用意な言動は慎んだ。
誓約を交わしたのが指輪を嵌める前か後かなんて当人たちにしかわからないことだから、言っちゃいけないと知っていたら、誰に訊かれても黙ってたのに!
「――リン様、今指輪をお返しいただいても、ロベルトが規律を破った事実は変わりませんぞ。教会に属す神聖騎士として、犯した罪に応じた罰を受けねばなりません。集団の秩序を保つためには必要なことです」
「そんな……じゃあ誓約は? 花狼の誓約は取り消せないんですか!?」
それが失言だったことは、カルステンさんが怪しむような探る視線でわたしとロベルトさんを交互に見たことから気づいた。
どうしよう、口を開けば新しく墓穴を掘るばかり……いっそ穴に埋まってしまいたい。
「リン様の群れには、誓約が存在しなかったのですかな?」
問いは形だけで、そんなことはあり得ないと暗に告げていた。
言い返すこともできた。日本には花狼の誓約なんて存在しない、と。生まれも育ちも日本人のわたしが花狼という関係を知ったのは、テュリダーセに来てからだ。
注意を喚起するようにロベルトさんが手に力を籠めた。迂闊なことを言わないように、と戒めているんだろう。
言葉を探しあぐねて黙っていると、ロベルトさんがかわりに答えてくれた。
「リン様、花狼の誓約を破棄することはできません。もし誓いを破ることがあれば、花刻が眼球を侵し、狼は永遠に光を失います」
平然としすぎた告白が信じられなくて、無知な驚きを表すのは危険だと考える余裕もなく彼を見ていた。
二度とその緋を剥ぐことはない藍色の瞳は、静謐を湛えた湖面のように、絶望に歪むわたしの顔を映していた。
……ロベルトさんは、もうわたしの花狼をやめることはできないんだ。
花狼の縛りが解けると、彼は視力を失ってしまう。
わたしは何もわかっていなかった。
引き離されないための単なる手段だと、守ってくれる人を得たと喜んでいた能天気な過去の自分が憎らしい。花狼の誓約がこの世界でどんなに重要なものかなんて、ちっとも考えようとしていなかった。
「……レンドルフ様、私はもとより己の行いを偽るつもりはありません。主教連よりの沙汰をお待ちしております」
「八花片の花狼として、処分が甘くなるなどとゆめゆめ思うな。……それではリン様、私は殿下にお伝えせねばならないことがございますので、失礼いたします」
一礼し、カルステンさんは部屋を出て行った。
扉が閉まるのを待って、わたしはロベルトさんに我慢していた問いを放っていた。
「――どうしてわたしの花狼になってくれたんですか!? どうしてわたしを教会に登録した後に誓約を交わしたんですかっ? ううん、せめて教えてくれてたら、あんなこと言わなかったのにっ!」
「……リン様は素直な方ですから、誤魔化すことは難しかったでしょう」
「話をそらさないでください!」
嘘は下手かもしれない。誤魔化すことだって苦手だけど、少なくともあんな風に堂々と認めることはしなかった。
自分のやってしまった失敗がやりきれなくて、責められる立場じゃないと自覚しているのに止められない。悔しさが胸を熱くする。潤む視界に自分の子供っぽさを突きつけられて、食いしばった奥歯が軋む。
泣き出さないのが精一杯の分別だった。
「教会への登録は指輪を嵌めれば済みます。それに引き換え誓約は、花と狼、両者の合意がなければ成立しません。条件は厳しくなりますが、リン様を確実にお守りするために無くてはならないものでした。出逢ったばかりのリン様に私を信じて頂けるかわかりませんでしたから、成立するかは一種の賭けでしたが」
困ったような表情で、それでも誓約が成って良かったと微笑む彼。
わたしを助けるためにしてくれたんだ。
自分は異世界人だと泣きわめく小娘に手を差し伸べてくれた初めての人。
薄っぺらな言葉だけの感謝なんかするのは恥ずかしいほど、ロベルトさんの支払った代償は大きい。
「……誓約を先に試してみるわけにはいかなかったんですか?」
「あの状況で失敗の危険性が高い方を選ぶことはできませんでした。リン様から申し出てさえ下されば、教会への登録は指輪を嵌めていただくだけで済みますから」
「ロベルトさんは、わたしの花狼になってもよかったんですか……?」
「ええ。もちろんですよ」
「ロベルトさんが神聖騎士だから? お仕事だから納得できるんですか?」
わたしは間が抜けてて頭もいい方じゃないけど、ロベルトさんがわたしに花としての香りを感じていないのはわかっていた。彼はカルステンさんに向かって肯定も否定もしなかった。でも、出逢った時にはっきり匂いがないと言ったんだから。
香らぬ花でも守る、神聖騎士とはそれほど強い義務感をもってなるものなのだろうか。
「それは――」
彼の言葉は続くことはなかった。
乱暴に扉が開けられる。石の床に軍靴を鳴らし、クリストフェル殿下と兵士が戻って来た。カルステンさんは帰ってしまったのか姿は見えない。
蒼い瞳がロベルトさんに庇われたわたしを見つけ、面白くなさそうに言った。
「カルステンから報告は受けたよ。どうやら花紋は本物だったみたいだね」
「私はもとよりそのように申し上げておりましたが」
あう、どうして喧嘩売るようなこと言っちゃうんですか、ロベルトさん……。
案の定、クリストフェル殿下のこめかみが青筋立った。色白の外人さんは血管が目立つ。
「花紋が本物だったからといって、罪は消えない。尋問は行うよ。侵入手段を把握できない限り、第二第三の侵入者を許すことにつながる」
「簡単に侵入を許すほど、王宮の警備は手緩いのでしょうか? 近衛は護国騎士の中でも精鋭ぞろいと聞き及んでおりますが」
「精鋭なんて言われると腹がムズムズすらぁな。もちろんそう何度も侵入を許すつもりはねぇが、そこのお嬢ちゃんってな前例がある。どうやって忍び込んだのか、情報の収集は常道だろう? ちょっと話を聞きてぇだけさ」
フィリップさんの言うことは最もだと思う。
日本でも他人の敷地に不法侵入したら、警察に捕まえられ、事情聴取されるだろうし。
「……おっしゃることの意味はよくわかります。ですが今日は、リン様もお疲れです。詳しい事情をお尋ねになるのなら日を改めて下さい」
ロベルトさんも一旦賛同を表しながら、これだけは譲れないというように繰り延べを主張した。
彼に言われてようやく、わたしはクタクタに疲れていることを実感した。
今日だけで一年分の驚きをまとめて味わった気がする。誓約のだるさはまだ身体中に残っていて、手足が鉛になったようだ。精神的な疲れから軽い頭痛もある。
「疲れてんなら、王宮に部屋を用意するぜ。遠慮せず泊って行ってくれ」
「お心遣いはありがたいですが、辞退させていただきます」
「黒犬、逃げられると思うのか?」
「花の自由を奪うことはできません。クリストフェル殿下、あなた様でさえも。――リン様、教会の花は己の望む場所で暮らすことを保障されています。彼らの言葉に従うことはありません。私は一度教会へ戻らなくてはなりませんが、私と一緒にいらして下さいますか?」
「ハッ! 口では何とでも言えるな、神聖騎士。今の訊き方で花の自由意志? 笑わせるっ! 教会に同行させたいというお前の強制じゃないか」
ロベルトさんを嘲弄し、たたみかけるようにクリストフェル殿下は迫ってくる。
「話は聞いていただろう、八花片。花紋が本物と証明されただけで、きみの容疑は何一つ晴れていない。身に疚しいところがないのならここに残るんだ」
神様に放り出された先がたまたま王宮だっただけで、わたしは誰かを害しようとか、何かを盗もうと考えたことはない。背景を調べられても黒幕なんて存在しないし、疚しいことはなにもない。
危害を加えられる可能性がなかったら、残ってもいいのかもしれないけれど……ロベルトさんとは、別れることになる。
「――私と行くことも、王宮へ残ることも、選ぶのはリン様ご自身です」
ロベルトさんの言い方に、突き放された気がしてショックだった。
自分で決めなくてはいけない場面だと頭でわかっているのに、心は彼に縋りたがっている。
一緒に来てほしいと強く請われたかった。
甘えている。
それ以上にずるい打算に気づいたとき、わたしは自分が恥ずかしかった。
彼が望んだから、それを選択の言い訳にしたがっていた。たとえ悪い結果になっても自分が選んだんじゃないと言える。自分の行動の責任までロベルトさんに負わせようとしていた。
神聖騎士の規律を破らせ、視力を賭けて花狼になってもらい、今度はわたしの人生さえ面倒みてもらおうなんて……わたしみたいな卑怯者は、彼について行かない方がいいんじゃないだろうか。
そんなことすら自分で判断できなくて、俯いた。
落とした視界の中に金の指輪。
だれもがわたしの返事を待って、部屋は静まり返っている。
教会の花として、どこに行きたいか選べるのなら、わたしは――。
「…………ロベルトさんと……一緒に行きたい、です」
迷って……でもやっぱり、彼と離れたくない気持ちが勝った。




