13
「リン様とおっしゃる……」
しげしげと観察され、心臓が口から飛び出しそうに暴れている。
この人は見ただけで花紋の真贋を判別できたりするのだろうか。
「――ふむ、花紋に特別変わった点は見受けられませんがの。殿下、少々人払いをお願いできますか」
「いいよ、どこまで出そうか?」
「私以外の全員をお頼みもうします」
ぴくっと眉を吊り上げたクリストフェル殿下は、しかしよほどこのおじいさんを信頼しているらしく、気を取り直したようにフィリップさんに合図した。
兵士たちがぞろぞろと部屋を出ていく。
「お前も外へ出ろ、黒犬」
「お断りします。私は花狼です。リン様のお傍を離れません」
後半はわたしの方を向いて安心させるように言ってくれた。
ロベルトさんまで出て行ってしまったらどうしようと思っていたから心強い。
クリストフェル殿下は苛立ちも露わに彼を一瞥したけど、言葉を重ねることはなかった。花狼になると引き離されないというのは本当だったんだ。
外のざわめきを断ち切って扉が閉まる。
これで部屋に残されたのは、わたしとロベルトさんとおじいさんの三人になった。
「さて。リン様の花狼とな? その方、名前は何と申す」
ロベルトさんは、クリストフェル殿下に対するのと打って変わって、恭しく跪いた。
「お初にお目にかかります、レンドルフ様。私はグラナート神聖騎士団所属、ロベルト・リッター・フォン・アイヒベルガーと申します」
「グラナート……ダールガン殿か。ほんに耳聡いお人だ」
ダールガン、というのは誰かの名前みたいだ。
クリストフェル殿下の態度や、名前を聞いて苦笑したおじいさんの様子を見ても、どうやら良い印象を持たれていない人のようだ。
ロベルトさんは、ダールガンの黒犬と呼ばれて否定していた。だけど、グラナート教会とダールガンという人が関係あるなら、全く接点がないわけでもないのかな? ……これ以上、彼が否定したことまで詮索するのは止めた方がいいかもしれない。わたしは首を振って、疑問を頭の隅に追いやった。
はた、と気づくと興味深そうな顔でおじいさんに見られていた。
うう……挙動不審なところを目撃されてしまった。
「リン様、名乗りが遅れて申し訳ありません。私はザフィーア聖堂教会の《主教》を務めております、カルステン・リヒトフューレン・レンドルフと申します。以後お見知りおき下さい」
「あ、どうもっ、こちらこそよろしくお願いします!」
自己紹介とともに深いお辞儀をされ、わたしも風を切る勢いで頭を下げ返す。
主教という役職はわからないけど、ロベルトさんより上の立場のようだ。自分の親より年上の人に丁重な扱いをされると居心地が悪い。そう伝えたのに、ロベルトさんの時と同じであえなく却下された。
わたしの慌てている様子が可笑しかったらしく、冗談混じりにたしなめられた。
「そのように畏まられる必要はありませんぞ、取って食いは致しませぬ。失礼ながら、いくつかご質問させていただいてもよろしいかな?」
「はぁ、でも……あの、わたしでわかることなら……」
「なに、少しばかりの確認でございます。ここに控えるロベルトを花狼にしておられるというのは真ですかな?」
「はい、本当のことです」
「指輪を拝見させていただいても?」
「ど、どうぞ……」
拒む理由もなく、近くまでやって来たカルステンさんに指輪を見せた。
「水晶が一つ……指輪はロベルトが用意した物ですか」
「そうです」
「――リン様は、この国にはどこから、いつ頃いらっしゃったのですかな?」
この問いには素直に答えていいのかな……。
さりげなく、質問の前提がわたしが外国から来たことになっているのは、服装と顔立ちのせい?
ロベルトさんは顔を伏せたままだ。自分で切り抜けろってことなんだろう。
今日異世界から来ました、って答えるのはいくらわたしが間抜けでもマズイとわかった。
ロベルトさんが言うように助言してくれた言い訳、なんだったっけ? たしか……。
「南の方からきました。小さな国か……む、群れから、です。だからこの国のことはわからなくて……」
「ほう、南方からですか。南とおっしゃると、トリスタンですかな?」
南にどんな国があるのかわからないのに、頷いていいものかどうか……。
黒髪はトリスタン人という図式があるこの国の人たちにとって、わたしはトリスタン人のカテゴリ―に入るはず。だったら合わせた方が無難だと思うけど……。
それに下手に否定して、「では、どこの国の何人か?」と問われても答えられない。
「たぶん、そんなような、気もします。恐らく……」
「なんと曖昧なおっしゃり様でございますなぁ……されど深くはお聞きしますまい。私の役目はリン様の花紋を確認させていただくことでございますから」
自分でもツッコんで下さいといわんばかりの説明だったので、見逃してもらえて胸をなでおろした。
でも、この問題を追及するのは近衛の人だと思い出して気が滅入る。あの嫌味っぽい殿下にネチネチと虐められるぐらいなら、優しそうなカルステンさんに釈明する方が百倍気が楽だ。
「花紋を近くで拝見しても構いませんかな」
え、え? これは断わるところ?
ロベルトさんは相変わらず何の反応も返してくれない。
結構、放任主義なんですか……?
断われば後ろ暗いところがあるととられるだろうし、そもそも花紋が偽物だとしても本物に見せる方法を知らないのだから、わたしには了承するしか選択肢がない。
カルステンさんはぐっと顔を近づけて花紋を覗き込んだ。
結果次第でこれから先の運命が決まるんだ。そう思うと緊張で身体が震える。
呼吸を止め、審判を待った。
「……墨ではなく、塗とも違いますな。色合いも生来のもの。……リン様、無礼を承知でお尋ねしますが、初潮は迎えておられますかな?」
カッと顔が赤くなった。
面と向かって、生理が来たかどうかなんて不躾なことを尋ねられたのは、初めてだ。
えと、うわ……これ、答えなくちゃいけないの……でしょうか?
こんな時ばかり、ロベルトさんは顔を上げて微かに頷いて見せた。
正直に答えなさいってことですか……。
男性の前で認めるのは強い抵抗がある。一応わたしも十六歳の乙女だ。年相応に恥じらいをもっている。赤くなる顔でう~、あ~と意味不明に呻いて時間稼ぎを試みたけど……静寂が身に沁みただけで、二人の無言の圧力に負けてしまった。
「……あの、そのぅ…………きました」
「それはいつ頃でしょうかな」
「に、二年ぐらい前です」
「お答え辛いことをお聞きして、申し訳ありませんのう」
「いいえ……」
カルステンさんは何か考え込んでいる風だった。
「……リン様の花紋は、真実《八花片》で間違いありません。老いたとて私も狼の端くれでございます。しかし、香りを嗅ぎとることができませぬ。蕾が綻んで二年となれば、遅咲きの《花》とて香りが安定しようもの。はてさて、いかなる神の悪戯でありましょうや……」
ああ、花紋は偽物じゃなかったんだ……本当に、よかった。
花紋の鑑定を任されていたらしいカルステンさんから、本物だとお墨付きをもらえた。わたしは緊張が解けて、ふう、と溜息をもらした。
止まっていた思考が動き出し、よくわからなかった先程の質問の意図がやっと呑み込めた。
テュリダーセの女性は、どうやら初潮がくるまで花としての香りを持たないらしい。フィリップさんが蕾ならどうこう言っていたのは、このことだったんだ。
初潮を迎え、花紋の色が深紅に変化し、香りを持つ。その頃になってようやく女性は花として大人になったということらしい。
――でも、花紋が本物だったなら、わたしが香りを持たないのはどうして……?
「ロベルト、おぬしはリン様の香りを嗅ぎとれるのか?」
カルステンさんは、今度はロベルトさんに向かって尋ねた。
わたしはドキリとして彼を窺う。
狼にとって香らない花は魅力がないはず。それならばなぜ、ロベルトさんはわたしの花狼になってくれたんだろう。神聖騎士の義務感なのかな……。
思案するような間が空き、ロベルトさんは目を伏せた。瞼を下ろすと眦の緋は一層際立つ。
素っ気ないほどあっさりと、彼は問いを撥ねつけた。
「お答えする必要があるようには思えません」
「リン様の花紋、おぬしの花刻……わしも伊達に主教は務めておらぬ。おぬしの《主花》は確かにリン様であろう。見えぬ繋がりを感じとれる。主花であり、《命花》でもある主の香りを嗅ぎとれるのか否か、答えよ」
老いてなお張りを失わない声は威厳に満ちていた。
部屋の空気がじわりと重さを増す。
わたしは叱られた子供の気分で小さくなっていた。優しそうに見えたのに……カルステンさんて、実は怖い人かも……。
「私に物事を強制できるのは主のみ。恐れながら、それはレンドルフ様ではございません」
驚いたことに、ロベルトさんは二度目の問いすら突っぱねた。
聞いている方が心配でハラハラしながらカルステンさんを見ると、醸し出していた威圧感が嘘のように朗らかな笑い声をあげて、懐からハンカチを取り出した。
「――面白い。《主花従狼》の習いにおぬしも含まれようとはな」
ロベルトさんの台詞のどこが面白かったんだろう? 異世界人のツボって謎だ。
予想外の展開に目を白黒しているわたしの首に、ふわりとハンカチが巻かれる。
痛ましげな眼差しで、首の傷を隠してくれたんだと気がついた。紳士な仕草はスマートすぎて、お礼を言った時にはもうハンカチは結ばれていた。上質な布地らしく、絹に似た滑らかな肌触りだった。
……どうでもいいことかもしれないけど、教会の人って皆ハンカチを持ち歩いているのかな。ポケットが空だった身として、今後乙女を名乗るのは厚かましいかもしれない……。
「リン様、指輪は教会への登録の証しでございますが、ロベルトより教会について何かご説明させていただいておりますかな?」
「はい、ロベルトさんに教えてもらいました」
あとで登録書を書かないといけないらしいけど、とりあえずは指輪を嵌めればいいと言われたこと、教会は花の保護をしてくれる所だということ……と、ロベルトさんに聞いたままを繰り返していると、急にカルステンさんの眉間に皺が寄った。
なにか気に障ること言いましたか……?
「――リン様、ひとつ確認させていただきたいのですが、ロベルトがリン様の花を請うたのは、指輪を嵌める前か後か、どちらでございましょうか?」
「……花を請うって、どういう意味ですか?」
「失礼申し上げました。リン様は異国の方でいらっしゃいましたな。この国では狼が花狼の誓約を求めることを、《花請い》と言い現わしております」
花狼の誓約を交わしたのは、指輪をもらった後だった。教会に登録しただけじゃ、近衛に対抗できないからと言われたんだ。
わたしは深く考えることもなく正直に言った。
「誓約を交わしたのは、指輪をもらった後でした」
「ロベルト――おぬし、《神聖騎士》としての誓いを忘れたか」
カルステンさんは厳しい表情でロベルトさんを見据えた。
声を荒げての叱責ではない。それなのに身の内を芯から凍らせる苛烈さがあった。
「花と近しくあればこそ、神聖騎士は己を律することが求められるのだ。規律を破り、己が私欲を満たさんとした振る舞い、到底赦されるものではない」
「……承知しております」
「追って査問があると心得ておくがよい」
査問? どういうこと?
なんでロベルトさんが怒られてるの!?
「ま、待って下さい! ロベルトさんが何かしたんですかっ?」
「……リン様、神聖騎士は花の保護を第一儀としております。花につき従い守護する職務上、共に過ごす時間は長く、密になります。その中で花を手にせんという誘惑に駆られなかった《狼》は誰一人おりますまい。なればこそ、神聖騎士となった時、己を律し、決して花を請わぬ誓いをたてるのです」
「神聖騎士は花狼になれないんですかっ!?」
「その者が神聖騎士である間は、教会の花と誓約を交わすことを禁じております」
…………知らなかった。
神聖騎士の彼が、この事態を予期しなかったはずはない。だけどそんなこと、一言も教えてくれなかった!
どうしてなの!? ロベルトさんっ……!
もう十分助けてもらっているから、ロベルトさんにだけは必要以上に迷惑をかけたくなかったのに、わたしは彼の立場をどんどん悪くしている。
目の前が真っ暗になる思いだった。




