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「誓約といっても難しいことはありません。私が花狼の請願をし、それに応えてリン様が《主花》の誓言を返します。その後リン様が自ら流した血を一滴、私に下さい」
「えっ、血がいるんですか!?」
「ほんの一滴でかまいません。針で突いて滲むわずかな血で事足ります」
びっくりするわたしをなだめ、ロベルトさんは襟の徽章を外して渡してくれた。バッジ状の裏側には針があった。これで指かどこかを突いてちょっとだけ血を出せばいいらしい。
「最後に私がリン様の花紋に口づければ誓約は成ります」
「く、口づけっ!?」
花紋は胸にある痣だ。それに口づけって、口づけるのはロベルトさんですか!?
真っ赤になり口をパクパクして声が出せないわたしに、ロベルトさんは苦笑した。
「私のような者に触れさせるのは不快に思われるでしょうが、一瞬ですみますから。誓約が成った後に殴って頂いても結構ですよ」
「そんなっ、不快だなんて思ってません! 殴るだなんて……ただこういうの初めてだから驚いただけで、大丈夫です!」
むしろわたしみたいな小娘でごめんなさいとか、もっと美人のお姉さんだったらよかったのにとかは思っている。どうせ胸に、キ、キスするんなら美人さんのほうがロベルトさんだって嬉しいはずだし。うう……平凡な容姿で申し訳ないです……。
「私も花狼の誓約を交わすのは初めてですよ」
「ロベルトさんも? じゃあ初心者同士ですねっ、二人でがんばりましょう!」
連帯感で口に出したあとに、助けてもらう自分が言えた台詞じゃないと気づいた。
調子に乗るもんじゃないと落ち込んだ時、ピュイーッと甲高い音が外から響いた。
窓を振り返ると一羽の鳥が空を舞っているのが見えた。
あの鳥の鳴き声?
「――殿下に気づかれたようです。彼らはすぐにでもこちらに向かってくるでしょう。誓約を急ぎましょう」
にわかに表情を厳しくしたロベルトさんにわたしも黙って頷いた。
ロベルトさんはこの部屋に無断侵入したと言っていた。推測だけど、彼はひょっとしてわたしを助けに来てくれたんじゃないかと思っている。
神聖騎士としての任務の一環かもしれないけど、現れてすぐわたしを八花片と呼んでいたのは事前に情報を持っていたからだろうし、準備良く差し出された指輪もそう考えると納得がいく。
「私が今から言う言葉をリン様はただ聞いているだけで結構です。これは《狼》の側の請願ですから」
促されて立ち上がった。ずっと座り込んでいたからか、足がしびれている。手を取り助けてくれたロベルトさんは、並んでみると本当に背が高い。まるっきり大人と子供だ。
わたしを立たせたまま、彼は腰を落とした。自分だけ立っているのが落ち着かなくて一緒にしゃがもうとしたら、「リン様はそのままで」と言われてしまった。
……うん。目の前に男性を跪かせているのって、居心地が悪いことだと初めて知りました。
映画の中で見る忠誠を誓う騎士のように手を取られ、顔が赤くなる。わたしはお姫様なんて柄じゃない。この格好で絵になるのは彼だけだ。
それにですね、確かめるように指輪を回すのは、親密な行為だと感じるのは日本人だけでしょうか……。
照れるわたしをよそに、ロベルトさんは顔色一つ変えない。
「――天堕つ花、地馳せる狼、依り結びて人たるを、定めし偉大なる神よ。今一度の祝福を希う」
ロベルトさんはとても良い声の持ち主だった。
朗々と響く声は低くて甘い。目を閉じてずっと聞いていたいような気がする。
「御高覧あれ、我が尊花。花中の花、至高の香、世に一輪の主得し、狼の末裔が請願す。天分かつ陽と月の下、我が忠誠絶えることなく、我が誇り曇ることなく、我が想い尽きることなし。我、花護る、花狼たるを此処に誓う」
軽く手を握られ、ハッとした。
ロベルトさんの声に聞き入ってぼうっとしていた。
たしか狼が請願したら、わたしは花として受けるんだった。
「《花》としての誓言を私が言いますから、後に続いて下さい」
「わかりました」
「ではいきますよ。――御高覧あれ、我が爪牙」
「ご、ごこうらんあれ、わがそう、が……?」
ロベルトさんのよく通る声の後に、自分のたどたどしい言葉が続くのが滑稽だ。難しい言い回しに自分が何をしゃべっているのかわからない。舌を噛まないようにするのが精いっぱいだ。
これでいいのかな、と不安になって見ると、ロベルトさんが瞳を細めた。
……ちょっと褒められて喜ぶ犬の気持ちがわかりそうになってしまった……。
「花の末裔たるこの身護りしは、猛き、剛き、誇らかなる獣」
「――はなのすえたるこのみまもりしは、たけき、つよき、ほこらかなるけもの」
誓言を口にするうち、わたしは不思議な高揚感を感じていた。
身体の中からうねるように上ってくる衝動。ふわふわと足が浮くような、胸がぎゅうっと締めつけられるような。
「天分かつ陽と月の下、我が血、我が身、我が心と花紋、捧げて応えん、汝の忠誠」
「――あまわかつひとつきのもと、わがち、わがにく、わがこころとはな、ささげてこたえん、なれのちゅうせい」
頭がぼうっとして散漫になる思考。それでいて意識はピンと張った糸で結びつけられているように目の前の男性から逸らせない。
瞳の動き、唇の動き、声の抑揚、全てにとらえられる。
「我、汝が主たるを、此処に誓言す」
「――われ、なんじがあるじたるを、ここにせいげんす」
ロベルトさんの言葉を必死で繰り返していただけなのに、全身があたたかい。
五感が目覚めていくような満ち足りた気分で深く呼吸した。
「リン様、血を……」
手の中で温もっていた徽章の針を、目を瞑ってえいっと左手の人差し指に刺す。痛くて反射的に手を引っ込めそうになると、支えるように添えられていた大きな手が阻んだ。
指先にぷくっと赤い珠が浮き出てきた。
一滴でいいと言われたけど、この血で何をするんだろう?
ゆるく手を引かれた。
何気なく動きを目で追い、茫然としてしまった。
血のにじむ指先を引き寄せたロベルトさんは、ぱくりとわたしの人差し指を咥えていた!!
「ロ、ロベルトさんっ……!」
指先が熱い。
意識しないようにと思っても、視線は形のいい唇に消えた指から逸らせない。
まるで味わうように舐め上げる舌の動きが強烈で。見えない口の中で爪の先や指の腹をチロチロと弄ばれる。時々軽く立てられる歯に背中がぞくっとした。
やめてほしいのに、がっちりと掴む手は引き抜くことを許してくれない。
身をよじって距離を取ろうとした腰にロベルトさんの腕が回った。
あっ、と思った時にはバランスを崩した身体は彼に強く抱き寄せられていた。
じっと見上げてくる藍色の瞳。その隣、黒髪の隙間に煌めく黄金。前髪に隠されたもう一つの瞳は金色だった。
間近に臨む瞳の中心に、泣きそうな顔の自分が映っていた。
最後にちゅうっと吸われ、名残惜しげに放された指が濡れ光っている。
頬が熱く火照る。今わたしは茹でダコのように全身真っ赤になっているだろう。
「――失礼します」
「やっ、あっ……!」
パーカーが左右に開かれる。事前に聞かされていたけれど、羞恥心は消えない。とっさに隠そうとした腕は易々と押し退けられた。
わずかの逡巡も見せず、ロベルトさんの顔が胸元に沈んだ。
首筋を黒髪が撫でていき、次の瞬間、身体を衝撃が貫いた。
「いっ、いやああぁあっっ……!!」
――アツイ、アツイ、熱いっっっ!!
胸に焼き鏝を押し当てられたみたいな灼熱感。
汗が噴き出す。
どくんと心臓が跳ね上がり、勢いよく押し出された血液が体中の血管を駆け巡る。こめかみがズキズキと疼きだし、手足は熱さを通りこして冷たく痺れた。
膝が崩れ、弓なりに反った背筋に汗が伝う。
悲鳴を上げ続けて肺中の空気を振り絞ったあと、それでも足りなくてえずくように呻いた。
思考は跡形もなく熱に焼き尽くされて、何も考えることができなくなった。




