雲に潜む龍と背に跨る少年の物語
見上げれば、そこにはいつも巨大な入道雲がそびえ立っていた。
麓の村の大人たちは「あれはただの水蒸気の塊だ」と笑ったが、12歳の少年・カイだけは知っていた。あの分厚い雲の奥深くには、神々しい白銀の鱗を持つ巨大な生命が潜んでいることを。
「ハク、今日は東の風が強いよ。気をつけて」
標高三千メートル。凍てつくような上空の風の中、カイは巨大な龍の背中に跨り、二本の大角の根元にしがみつきながら叫んだ。
『白龍』と名付けたその龍は、まるで返事をするように低く喉を鳴らした。ゴロゴロというその音は、地上では「遠雷」として聞こえているはずだ。
ハクの体は驚くほど長く、その白い鱗は太陽の光を浴びて真珠のように鈍く輝いていた。彼が長い尾をうねらせて空を泳ぐと、周囲の大気が巻き込まれ、新たな雲が生まれる。ハクは天候そのものを司る古の精霊であり、人間の欲望と喧騒を嫌い、何百年もの間、厚い雲の中に身を潜めていた。
二人の出会いは半年前。村で孤児として育ち、居場所のなかったカイが、嵐の日に禁足地である裏山を登りきった時のことだ。足を滑らせて崖から落ちたカイを、落雷と共に雲から顔を出したハクが受け止めたのだ。
なぜ気紛れな古竜が人間の子供を助けたのか、本当のところはわからない。ただ、ハクの深い瑠璃色の瞳と目があった瞬間、カイは言葉ではなく「孤独」という感情で通じ合ったような気がしたのだ。
それ以来、カイは地上を捨て、ハクと共に雲海を泳ぐようになった。
龍の背からの景色は圧倒的だった。眼下に広がる雲海は、朝焼けには燃えるような黄金色に、夜には星々を反射する銀の海に変わる。ハクの鱗の間からは常に温かな気が発せられており、上空の極寒の中でもカイが凍えることはなかった。
しかし、永遠に続くと思われた穏やかな空の旅に、異変が起きた。
ある夏のことだ。地上で異常な日照りが続いた。
雨が一滴も降らず、大地はひび割れ、森の木々は枯れ果てていった。雲の上から見下ろすカイの目にも、かつて自分が暮らした村の川が干上がり、人々が飢えと渇きに苦しんでいるのがわかった。
「ハク……下を見て。大地が死にかけている」
カイの悲痛な声に、ハクはゆっくりと雲の隙間から下界を見下ろした。
古竜の掟は『自然の摂理に干渉しないこと』だ。人間が森を切り拓き、火を使いすぎた結果の干魃であれば、それは彼ら自身が背負うべき罰である。ハクは悲しげに目を伏せ、再び雲の奥深くに隠れようとした。
「待って! ハク!」
カイはハクの角を強く握りしめた。
「人間は愚かかもしれない。でも、罪のない動物たちや、芽吹いたばかりの草木まで見殺しにするの? 僕を助けてくれたハクは、そんなに冷たい神様じゃないはずだ!」
ハクの動きが止まった。瑠璃色の瞳が、背中に乗る小さな少年を見つめる。
カイの目には涙が浮かんでいた。自分を虐げた村への恨みよりも、ただ純粋に、失われていく命を救いたいという願いが溢れていた。
長い沈黙の後。
ハクは、天を揺るがすような巨大な咆哮を上げた。
——グルルルルォォォォォン!!
それは決意の合図だった。ハクの全身の鱗が青白く発光し、周囲の大気を急激に冷却していく。四方八方から千切れた雲が集まり、巨大な渦となってハクの体を包み込んだ。
「しっかり捕まっていろ、カイ!」
直接頭の中に響くハクの念話に、カイは身を伏せて鱗にしがみついた。
ハクは自らを巨大な嵐の中心とし、一直線に地上へと降下を始めた。
分厚い雲を突き破り、雷鳴を轟かせながら空から舞い降りる白い龍の姿。それは地上で絶望の淵にいた人々の目に、奇跡のように映った。
「見ろ! 龍だ……!」
「雲の中から、神様が現れた!」
カラカラに乾いた大気の中をハクが泳ぐたび、その軌跡から大粒の雨がこぼれ落ちた。
雷光が空を切り裂き、恵みの雨が滝のように地上へ降り注ぐ。ひび割れた大地が水を吸い込み、枯れかけた木々が息を吹き返す。村の広場で天を仰ぐ大人たちの中に、龍の背に乗る小さな少年の姿に気づいた者もいた。
「あれは……カイじゃないか?」
「カイが、神様を連れてきてくれたのか……」
雨に打たれながら、人々は歓喜の涙を流し、空に向かって深く祈りを捧げた。
やがて大気を潤し終えると、ハクは役目を終えたように空へ向かって首を上げた。力を使い果たし、その身体は少し透き通っているように見えた。
「ハク、大丈夫?」
『……案ずるな。少し眠れば元に戻る。帰ろう、我らの玉座へ』
ハクはゆっくりと天高く昇っていく。
カイは一度だけ地上を振り返った。村人たちが小さく手を振っているのが見えた。カイは微笑み、そっと手を振り返すと、ハクの背中に顔をうずめた。
雲の中に入ると、そこはまた静寂の世界だった。
地上にどれだけ嵐が吹き荒れようとも、雲の上はいつも穏やかで、澄んだ青空と太陽の光が満ちている。
雲に潜む龍と、背に跨る少年。
二人は今日も、誰の目にも触れることなく、気高く美しい白雲の海を泳ぎ続けている。




