第22話 必要悪の求心力
ルールというものは、平時には神聖な経典のように扱われるが、緊急時にはトイレットペーパーよりも価値が下がる。
極限状態において、人は『正しい手続き』よりも『暖かい毛布』を選ぶ。
それが生物としての生存本能であり、私の狙い通りの展開だ。
◇◆◇
放課後のボイラー室前。
立ち入り禁止の札が下がった重い鉄扉の前に、一人の男子生徒が立っていた。
生徒会長のアルヴィスだ。
成績優秀、品行方正。教師からの信頼も厚い、まさに『表』の秩序を司る男。
その彼が、なぜか人気のないこんな場所で、私のような『陰』の住人を待ち伏せしている。
「......シルヴァーノ妹だな」
彼が声をかけてきた。白い息が漏れる。
彼も寒そうだ。制服の上に指定のコートを着込んでいるが、それでも震えを隠しきれていない。
「何でしょう。私はただの掃除当番ですが」
「とぼけるな。......いや、今はその演技もどうでもいい」
アルヴィスは周囲を警戒するように見回し、声を潜めた。
「単刀直入に言う。このボイラーを直せるか?」
「業者を待てばいいのでは?」
「業者は来ない。雪で街道が封鎖されたそうだ。到着は早くて三日後。......それまで、生徒全員を凍えさせるわけにはいかない」
彼は苦渋の表情を浮かべていた。
優等生の彼にとって、未認可の生徒に校内設備を弄らせることは、規律違反であり屈辱なのだろう。
だが、彼はプライドよりも実利を選んだ。
賢い判断だ。
「条件があります」
私はモップを壁に立てかけ、彼を見上げた。
「私の作業中は誰も近づけないこと。そして、必要な部材の調達には生徒会の予算枠を無審査で通すこと。......できますか?」
「......共犯になれということか」
「人聞きが悪いですね。『緊急避難措置』ですよ」
アルヴィスは数秒間、私を睨みつけた後、深く息を吐いて頷いた。
「わかった。見張りは私がやる。......だが、失敗すれば全責任はお前だ」
「ご心配なく。失敗なんて、私の辞書にはありませんから」
ボイラー室の中は、冷え切った鉄の棺桶のようだった。
巨大な魔導炉が沈黙している。
私は工具箱を開き、炉の心臓部へと潜り込んだ。
原因は単純だ。
純正部品に戻された吸気弁が、排熱の煤で固着しているだけ。
私は持参した特殊な溶解液で煤を洗い流し、以前取り付けていた自作の『整流板』――教師たちがゴミとして撤去したものの予備――を再びセットする。
さらに、点火機構の回路をバイパスし、少ない魔力でも効率よく燃焼するように調整を加える。
作業時間、わずか十五分。
「......起動」
私がスイッチを入れると、ボウン!という低い音と共に、炉内に赤い炎が蘇った。
配管を熱湯が駆け巡る音が響き、冷え切った室内に温風が吹き出し始める。
私は油で汚れた手を拭いながら、ボイラー室を出た。外で待っていたアルヴィスが、扉の隙間から溢れる熱気を感じて目を見開く。
「......本当に、直したのか」
「応急処置です。ですが、純正品よりは長持ちしますよ」
「信じられん。教師たちが三日かけてもお手上げだったものを......」
彼は私を、まるで未知の生物を見るような目で見つめた。そこにあるのは軽蔑ではない。畏怖と、ある種の諦めだ。
「シルヴァーノ。......いや、セレナ」
彼は初めて私の名を呼んだ。
「今後、設備のトラブルがあった場合、君に相談してもいいか?」
「正規のルートを通してください。......まあ、『個人的な依頼』なら聞かなくもないですが」
私はニヤリと笑い、その場を去った。
◇◆◇
翌日。
学園中が暖かさに包まれた。
教師たちは「業者が間に合った」だの「我々の懸命な調整が実った」だのと吹聴していたが、生徒たちは騙されない。
誰が直したのか。
誰に頼めば、この不便な学園生活が快適になるのか。噂は水面下で広がり、確信へと変わっていく。
昼休み。
中庭のベンチで、フィオナがコートを脱いでいるのが見えた。
暖かくなった空気に、彼女の強張っていた肩の力が少し抜けている。彼女は不思議そうに校舎を見上げていた。
(......温かい)
その温もりが、誰の手によるものか。
彼女が知るのはまだ先の話だ。
私は教室の窓際で、生徒会長からこっそり渡された「上質な魔石」を転がした。
生徒会という後ろ盾を手に入れた。
これで、学園内の物流と情報は、私の掌の上だ。
さあ、次はどの血管を握ってやろうか。
生徒会長と取引成立。ボイラーを直し、学園のインフラと情報を掌中に収めました。
次回、第23話「死地への片道切符」
姉を潰すための自殺任務。セレナは大量の「玩具」を隠し持ち、死地へ同行します。




