第15話 追いつけない背中
優秀な人間と凡人の最大の違いは、速度だ。
思考の速度、決断の速度、
そして......破滅へと突き進む速度。
フィオナ・シルヴァーノという傑物は、その全てにおいて私の理解を超えて加速していた。
内定通知の一件以来、私たちの会話は業務連絡すら消滅し、完全な沈黙だけが残った。
家の中には、見えない境界線が引かれている。リビングの右側は彼女の領土、左側は私の領土。互いに不可侵条約を結び、視線すら合わせない冷戦状態。
だが、その均衡が崩れるのは時間の問題だった。
◇◆◇
ある雨の夜。
ふと目を覚ましてリビングに行くと、フィオナがソファで眠り込んでいた。
テーブルには分厚い専門書と、書きかけの論文が散乱している。『対呪詛防御論』『禁忌術式の解体手順』......どれも学生が読むレベルのものではない。
彼女の顔色は、ロウソクのように白かった。眉間には深い皺が刻まれ、眠っている間ですら何かに追われているようだ。
「......馬鹿じゃないの」
私は吐き捨てるように呟く。
完璧超人? 笑わせる。これじゃただの、余裕のない迷子だ。
私は自室から毛布を持ってきて、彼女の体にかけようとした。
「――触るな」
拒絶の声。
フィオナは目を閉じたまま、反射的に身を強張らせていた。
起きていたのか、それとも警戒心が睡眠を凌駕しているのか。彼女はゆっくりと目を開け、私を見た。その瞳は、深淵のように暗く、光を失っていた。
「私の領域に入るなと言ったはずだ」
「毛布くらいかけさせてよ。風邪引かれたら、看病するのは私なんだから」
「必要ない。体調管理も能力のうちだ」
彼女は乱暴に毛布を押し返し、身を起こした。
そして、テーブルの上の書類を素早くまとめる。私に見せないように隠すような手つきだった。
「お前は、自分のことだけを考えていろ。
......私の足手まといになるな」
その言葉が、鋭利な刃物のように胸に刺さった。
足手まとい。
わかっている。彼女の魔術レベルにおいて、魔力を持たない私の存在など、重りでしかないことくらい。
でも、その「重り」を切り捨てられないから、彼女はこんな無茶な進路を選んだんじゃないのか。
「待って」
立ち去ろうとする背中に、私は声をかけた。
ポケットの中には、数日かけて調整した「護符」が入っている。
見た目は不格好な金属板だが、内部には特殊な魔力分散回路を組み込んである。彼女の負担を少しでも減らせるはずの自信作だ。
「これ、持ってって。お守り代わり。
......邪魔にはならないから」
私は震える手でそれを差し出した。
フィオナは足を止め、振り返る。
彼女の視線が、私の掌にある金属板に落ちる。
数秒の沈黙。
そして。
「――おままごとは、一人でやれ」
彼女は受け取らなかった。
触れようともしなかった。
一瞥しただけで、それが「価値のないガラクタ」だと判断し、踵を返したのだ。
バタン、と扉が閉まる音。
それが、私と彼女の世界を隔てる断絶の音だった。
私は立ち尽くしていた。
差し出した手が行き場を失い、宙を彷徨っている。
惨めだった。
自分の技術が通用しなかったことよりも、彼女が私を「対等な人間」としてすら見ていなかった事実が、内臓を雑巾絞りにされるように苦しかった。
「......そう」
私は金属板を握りしめた。角が掌に食い込み、血が滲む。
届かない。
学園の廃材を拾い集めて作ったツギハギの道具じゃ、彼女の背中には追いつけない。『陰キャ』の隠れ家で膝を抱えていても、世界は何も変わらない。
なら、出るしかない。
この生ぬるい箱庭の外へ。
私は部屋に戻り、クローゼットの奥からフード付きのコートを取り出した。以前、ジャンク屋の店主が言っていた言葉を思い出す。
『本当にいい素材が欲しけりゃ、表の市場じゃ手に入らねぇ。"裏"の市に行きな』
危険だ。
学生が行くような場所じゃない。補導されれば退学、悪ければ犯罪に巻き込まれて行方不明になるような界隈だ。
でも、今の私にはリスクなんてどうでもよかった。
姉が命を削って「正義の道」を行くなら、
私は泥にまみれて「邪道の道」を行く。
あの完璧な姉が、私のガラクタなしでは歩けなくなるくらい、最高に歪で強力な足場を作ってやる。
私は窓を開けた。
冷たい夜風が吹き込んでくる。
もう振り返らない。
この一歩で、私は「善良な学生」でいる資格を捨てる。違法も、裏取引も、脅迫も——必要なら全部やる。それで姉の進む道が一本でもズレるなら、安いものだ。
「守られるだけの妹」は、今夜ここで死んだ。
明日から生きるのは、世界を壊してでも守る側の人間だ。
「足手まとい」という言葉で、姉妹の仲は決裂しました。表がダメなら裏から行く。覚悟の決まった彼女は強いです。
次回、第16話「裏インフラ」
あれから三ヶ月。
セレナは学園内で怪しい商売を始めていました。




