第1章 青の写真
家の近くの森の中、ひっそりとした喫茶店がある。
木造の建物に、濃い緑の蔦が絡まり、夏でもひんやりしてる店内は静かで、年配の店主がひとりだけでやっている。
僕はときどき、ここでアイスコーヒーの香りと、読書の時間を楽しむ。
そんなある日、壁にかかった一枚の写真が目に留まった。
青くて、広くて、何もない。
けれど、なぜだか心がふわっと持ち上がるような、そんな写真。
それが「海」だと気づいたのは、店主が「それは、太平洋だよ」と教えてくれたからだった。
僕は海を知らない。
テレビで見るくらいで、本物の波の音も、潮の匂いも、体験したことがない。
山に囲まれて育った僕にとって、それは夢のような世界だった。
「ここから、海まではどれくらいですか?」
そう訊ねると、店主はカウンターの奥から地図を広げ、指でなぞる。
「この道を下って、峠を越えて……だいたい100キロくらいだね」
100キロ。
耳にした瞬間、心がぐらついた。
そんな距離、自転車で移動したことなんてない。
通学路でさえ、5キロ足らずなのに。
けれど、不思議だった。
「やめよう」とは思えなかった。
むしろ、行ってみたい気持ちが、それ以上に膨らんでいった。
「中学最後の夏だし、いいかもしれないな……」
そう呟くと、店主は笑って言った。
「行っておいで。あの青は、見てきた者の心に残るものだからね」
その言葉が、心の奥にすとんと落ちた。
見たいと思った。触れてみたいと思った。
地図を見ながら、道のりを指でなぞってみる。
どこか遠くへ、見知らぬ風景へ、自分の力だけで向かっていく。
考えるだけで、胸が熱くなる。
僕の夏は、ここから始まる。
まだ知らない青の向こうへ、ペダルを踏んでみたくなった。