ep.4
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
冬の深閑とした静寂に包まれた玉座の間で、雪竜は日課でもあるこの北国の報告書に目を通していた。
この北国で"冬の王"と崇められ、信仰の象徴とされている己の役割を彼は常に完璧にこなしてきた。
国民達からの畏敬と崇拝の視線は彼にとっては空気と同義のものであり、その威厳を守ることは竜族に連なる者として絶対であると認識していた。
しかしその内面は、世間の喧騒とはかけ離れた、古くからの孤独に支配されている。
唯一無二の番との出会い。
それは竜族にとって至上の喜びであり、絶大な力を得る天祐神助。
運命によって定められた唯一の伴侶との巡り合わせは、竜族にとって望外の喜びであり、最上の幸福だと教えられてきた。
だから彼はその日を待ち続けていた。
漠然とした期待が、常に心の根底にあり。
いつか自身の前にも、その僥倖が訪れると信じていた。
静かに紙を繰る指先が、ぴくりと震える。
その瞬間、胸の奥で何かが激しく弾けた。
「…っ!」
突如として襲いかかったのは、全身を焼き尽くすような激痛と、凍てつくような喪失感。
心臓を直接掴まれ、無理やり引き裂かれたかのような感覚が、雪竜の意識を揺さぶる。
それは、肉体の痛みとは異なる、魂の根源に触れるような、形容しがたい虚無だった。
番。
その言葉が、稲光のように脳裏を駆け巡る。
竜族の血に刻まれた、絶対的な存在。
それが、今、失われた。失われた?
まだ見ぬ、己の半身。
その存在が、この瞬間に。
永遠に手の届かぬものとなったと。
本能が、細胞の一つ一つが叫んでいるようだった。
麗しい顔から血の気が引き、金の瞳は大きく見開かれたまま、虚空を彷徨う。
理解が追いつかない。
何が起こった?
己は、まだ番と出会っていないはずだ。
それなのに、この喪失感は、一体……。
彼は、ただ茫然と、胸を押さえることしかできなかった。
全身から力が抜け、座っていた椅子から崩れ落ちそうになるのを、辛うじて踏み留まる。
その日以来、雪竜の心は、得体の知れない虚無に苛まれることになった。
食事も喉を通らず、報告書も頭に入らない。
国の者達は彼の異変に気づき、心配する声を上げたが、彼はその原因を誰にも明かせなかった。
明かしようがなかった。
まだ見ぬ番を、出会う前に失ったなどと。
一体誰が理解できるというのか。
雪竜は、深い孤独の中で、その喪失感の正体を探し続けた。
それはまるで、永遠に掴むことの出来ない影を追うような、重く苦しい日々だった。
数日後、彼の心に重くのしかかる虚無感を抱えたまま、雪竜は伯母の訪問を受けていた。
氷竜である彼女は、年長の親戚として、時に彼を案じて顔を見せることがあった。
しかし、今日の彼女の表情は、いつもと違って固く、そしてどこか悲しみを湛えていた。
その静かな佇まいは、まるで嵐の前の静けさのような。
「雪竜」
その声は静かだが、その響きには尋常ならざる重みがあった。
雪竜は、伯母が何か重要なことを告げに来たのだと直感した。
胸の奥に、嫌な予感がじわじわと、浸食するように広がる。
「何かありましたか?伯母上」
雪竜は平静を装い、問いかけた。
眉一つ動かさず、感情の揺れを面に出さぬよう努める。
彼女は深呼吸すると、ゆっくりと口を開く。
その言葉は、雪竜の凍てついた心を、さらに深く凍らせるものだった。
「先日、あなたが投獄された人間の娘についてです」
人間の娘?
脳裏に数日前の謁見の間での出来事が蘇る。
魔導師達が興奮した様子で連れて来た、小さな女。
全く興味を抱かなかったので、名前は思い出せない。
自らを番だと称し、謁見を求めてきた者だったことは覚えている。
しかし、雪竜は番だと感じるほどの高揚感や幸福感など一切感じることができなかった。
むしろ不快感を感じるほどだったため、虚偽の申告と判断し、魔術師達に投獄させたのだ。
その判断に、一切の迷いも戸惑いもはなかった。
けれど、続く伯母の言葉が、雪竜の世界を打ち砕く。
「あの娘、アウレリアは、貴方の番でした」
雪竜の瞳が、大きく見開かれた。
番。あの人間が?
馬鹿な。そんなはずはない。
彼は何も感じなかった。
竜族の本能が、最も重要視されるはずの繋がりを紛うことなどあり得ない。
しかし、伯母の瞳は真剣そのものだ。
揺るぎなき金瞳が、雪竜の否定を赦さない。
「彼女は、祖母を魔術師達に奪われたことに絶望し、そしてあなたが番を認識できないことに激しく怒りを抱いていました」
伯母は、淡々と語り続けた。
魔術師達が番を連行するためにアウレリアの日常に強引に介入したこと。
アウレリアが祖母の死を弔うことさえ許されず、無理やり連れ去られたこと。
雪竜が謁見の間で、彼女を偽りであると断言したこと。
そして、投獄されたアウレリアが雪竜への失望と怒りの果てに。
己の魂に傷をつけて、番の繋がりを断ち切ったこと。
「自ら、魂に傷をつけ…番の繋がりを、断ち切った?」
雪竜の声が、か細く震える。
あの日の激痛と喪失感が、鮮明に蘇る。
彼が感じた喪失感は、気のせいではなかった。
幻ではなかった。
それは、その痛みは。
彼自身の番が、自らの手で。
その繋がりを断ち切ったことによる現実の痛みだったのだ。
突き付けられた残酷な真実が、雪竜の心を押しつぶす。
「彼女は、貴方の元にいることを拒んだ。そして…二度と貴方に会うつもりはないでしょう」
伯母の言葉は、冷たい氷の刃となって雪竜の胸に突き刺さった。
アウレリアは、彼の無自覚な過ちによって、番の繋がりを断ち切るという、竜族にとって想像を絶する行為に及んだのだ。
彼自身の行いのせいで、繋がりは永遠に失われてしまった。
取り返しのつかないことになってしまった。
己の無知と傲慢さが、番に失望を与え、永久の喪失を招くことになったのだ。
「彼女は、ウルクが保護することになりました」
ウルク。時空竜。
彼の領域は時空の狭間に存在し、雪竜が踏み入ることはできない。
告げられた言葉は、事実上の"接近禁止"を意味していて。
どれだけ番に謝りたいと思っても、雪竜にはその術がない。
一目、番を見たいと望んでも、二度と見ることすら叶わない。
竜族にとって、番との繋がりが絶たれることは、時にその生命を奪うことがある程の息苦しさを伴うという。
それを、自らの失態により引き起こしてしまった。
雪竜は、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
全ては己の過ちだった。
番を認識できなかったばかりか、その相手を投獄し。
雪竜が直接指示した訳ではないが、彼の名の下に国の魔導師達が独断で暴走した結果、最愛の祖母との別れさえ許さなかった。
それ故に抱いてしまった絶望と憎悪により、アウレリアは彼から離れることを選び、自らの手で番の繋がりを断ち切った。
それは、竜族にとっての『慈しみ、守り、愛す』という番の存在意義を、根底から覆す行為だった。
「馬鹿な……」
彼の口から、掠れた声が漏れる。
この身に深く刻まれた喪失感の理由を理解した時、雪竜は膝から崩れ落ちた。
彼の心には、深い後悔と、底なしの絶望だけが残された。
もはやアウレリアは、彼の番ですらない。
その現実は、雪竜の存在意義そのものを揺るがせるのだ。
彼はこの北国では"冬の王"と崇められているが、竜族、特に氷竜達には春先に訪れる"名残雪"のように。
やがて芽吹きのために消えゆく存在として認識されていた。
氷竜である伯母の方が、彼の力の根源に近い。
その伯母によって突きつけられた真実は、彼がどれほど傲慢で、無知であったかを痛烈に物語っていた。
彼は、己の無自覚な過ちが招いた結果に、ただただ打ちひしがれるしかなかった。
美しさを絶賛されるその顏は重い絶望に歪み、その金眼からはかつての輝きは失せていた。
それは、死に等しい事実だ。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです