三十三通目 カップ麺
「はい。おしまいです。」
ここは、QAT関東支部の医務室。
消毒液の匂いが広がる清潔な室内。
自身の異能を用いて菊花を治療した白露は、治療の終わりを淡々と宣言する。
菊花は、もう痛まない脇腹を撫でながら、助かった。と言葉を零した。
痛みの滲まない、菊花の穏やかな返事。その言葉にしっかりと頷いた白露は、菊花の隣に立っていた余寒へと視線を移す。
余寒が連れてきた男は、重傷だった。
恐らく、白露がいなければ死んでいたか、脳に強い障害が残っただろう。
彼は、危険な異能者だ。他者を壊すことへの躊躇のなさで言えば、早々に引けを取らない。
白露は、医療者として、そう評価を下す。
拝啓がいなくなった今、現ボスである歳末は彼を御せるだろうか。白露は憂う。
いざという時は……。
「菊花、定時をすぎています。異能による治療を受けたとは言え、病み上がりですので、帰宅してください。」
余寒が菊花に言い放つ。
白露の思考は、その声で中断された。
菊花は普段。拝啓が死んでからは余計。ワーカーホリックを極めている。
だが、今日ばかりは流石の菊花も大人しく帰路につくことにした。
その理由は明確だ。
菊花の心臓は、今もまだ雷を宿していた。
騒がしいぐらいの躍動は、菊花のエネルギーを全て使い尽くさんとする勢いで高鳴っている。
この状態で、事務仕事や雑用をこなせるほどの余裕は、菊花にはまだなかった。
「また明日。」
菊花がそう言って医務室をあとにする。
煌々と明かりがついた医務室の扉から、廊下へ向けて光が漏れ出る。
人気がなく、非常灯だけがついた薄暗いオフィスの廊下を、菊花は一人迷わず進んでいく。
背後から、医務室の光も消えた頃。
菊花の前に大きな影が現れた。菊花は即座に身構える。
また、天地始粛だったら?
菊花の心臓が一際大きく脈打つ。
だが、最悪を考える菊花の思考は、振り返った影によってかき消された。
「あれ?ええっと、菊花?まだ残ってたの?」
暗くてよく見えないのか、影は怪訝そうな、しかし聞き馴染みのある呑気な声を放つ。
一足先に暗所に目が慣れてきた菊花の視界が、影の正体を捉える。
身に纏うは、、シワ一つない高級なスーツ。瞳と同じ色をした、赤い宝石のループタイ。首元に巻き付く赤眼の白い蛇。
そう、影の正体は歳末だ。
宿直だろうか。残業中だろうか、どちらにせよ何故、電気をつけていないのか。
菊花はやや呆れ、周囲を見渡し、早急に電気のスイッチを探す。
「わっ!」
菊花は、手早くスイッチを見つけた。
カチッと軽い音が鳴り、廊下が照らされる。
眩しさからか、歳末が驚いた声と共に目を閉じる。
歳末の手には、暗所ではわからなかったカップ麺が握られている。
こんな時間にカップ麺……。そう言いたげな菊花が改めて歳末を見る。しょぼしょぼと瞬きを繰り返す歳末と視線が合う。
瞬間。
歳末の手からはカップ麺が消えていた。
勿論、マジック等ではない。単純明快。歳末が手を離したからだ。
カップ麺は床に落下……せず、半透明な四角い小部屋のようなものに入っている。
さっきまでその場にはなかったその小部屋は、歳末の異能。
かつて拝啓の相棒として重宝されていた、ありとあらゆる強度、大きさの結界を張る力だ。
だが、今の歳末にとって、カップ麺の無事はさして重要ではない。
「なんで眼帯してないの!」
歳末の怒鳴り声。
菊花は、その言葉でやっと、眼帯が雷によって焼き切れてしまったことに気がついた。
菊花は咄嗟に、片手で目を覆う。
するとどうだろう。
先程から、騒がしいぐらいに騒いでいた心臓が、すぅ……と収まっていく。
心音は正常値を取り戻し、異能に全てのエネルギーが吸い取られるような感覚も鳴りを潜めた。
菊花は、恐る恐る手を退ける。
ドクンッ。大きな雷鳴が、一つ轟いた。
雷鳴にかき消され、歳末の咎める声は聞こえない。
菊花は、再び片手で強く目を隠し、そして確信した。
拝啓が眼帯で制御していたという『天地始粛』の力は、拝啓の元々の異能。『雷乃発声』として、菊花に宿っている。
しかし、それならば妙だ。
菊花は、あの時確かに『天地始粛』と協力関係を結んだ。だと言うのに、何故『雷乃発声』が……。
菊花の思考は、唐突にとある言葉を思い出す。
「アイツじゃなく……」
オレを使え。
アイツとは、誰のことだ。オレとは、誰のことだ。
そもそも、あの声は……拝啓のようでいて、拝啓ではないあの声は、誰が放った?
もし、特別な異能である『天地始粛』以外にも、それどころか、全ての異能に……。
「ちょっと!聞いてる?早く医務室に眼帯もらいに行くよ!」
歳末に肩を強く揺すられ、菊花の思考は中断される。
目の前には、見たことがないほど怖い顔をした歳末がいる。
菊花は、珍しいその表情に、若干慌て、はい。と返事すると、歳末と共に医務室へと戻る。
「まだ、帰っていなかったのですね。」
余寒さんは帰りましたよ。
医務室で、もう帰り支度を済ませていた白露が二人を出迎えた。
宿直である歳末は兎も角。
帰路についたと思っていた菊花がまだいた事に紅葉は怪訝そうな表情を浮かべ、菊花を睨んでいる。
「ごめん。眼帯貰いたくて……。」
紅葉の睨みに、何故か歳末が怯えつつ、白露に頼む。
白露は菊花を見て事態を察したのか、頷くとパタパタと早足で歩いていく。
医療品の詰め込まれた棚を開き、手際良く新品の眼帯を取り出すと、白露は菊花に駆け寄る。
「当然のようにつけていなかったので、平気になったのかと思っていました。」
白露の細く白い指が、菊花の頬に触れ、その右目に丁寧に眼帯をかける。
「あまり、無理強いをしないように。」
小さく、白露に囁かれた言葉に、菊花は首を傾げた。
無理強い?無理ではなく?
違和感のある言い回しに、菊花が口を開きかける。
「それは……。」
「さて、みんな帰って帰って。あとはぼくが残ってるから。」
歳末が菊花の問いをかき消した。
歳末に背を押され、菊花、白露、紅葉の三人は、関東支部のオフィスを後にした。
空には星が瞬いている。
「なんか忘れてるような……。」
三人を帰路につかせ、一人になったオフィスで歳末が呟く。
歳末の呟きで、先程まで眠っていたらしい深緑が寝ぼけたまま頭を上げる。
「カップ麺は?」
「あ。」




