ニ十八通目 適任者
菊花は、この物語を万人向けのハッピーエンドとして終わらせて良いと思っている。
その決意をした瞬間。菊花の視界がぐらりと揺れる。
先日と同じ過労だろうか、睡眠を取らず買い物に行き、四時間も料理を作り続けていたことを考えると妥当とも言える。
菊花は、耐えきれない疲労感により、床に伏したまま意識を手放した。
「……はっ……!」
菊花が目を覚ますと、家の中は真っ暗だった。
誰が運んだのか、菊花はベッドで横になっている。
既に天地始粛の気配はない。
「夢……?」
菊花は怪訝そうに眉を顰める。
まさか今までのやり取り全てが?その思考で、菊花の背には冷や汗が伝う。
あんなにもリアルだったのに……?どこから、まさか拝啓さんが生きているという話も……。いや、そんな。そんなまさか。そんなはずない。
菊花は得体のしれぬ不安を胸に抱きながら、ベッドから降り、一先ず手探りで電気のリモコンを探しはじめた。
暗闇の中で大まかな位置を判断し、普段と同じ場所においてあるリモコンのボタンを押す。
パッと明るくなる室内。
すぐに確認したのは、テーブルの上。
そこには天地始粛に食べさせ、菊花が倒れたことにより放置されているはずの皿が、ない。
菊花の心は焦っていく。
ふと、ベッド横のサイドテーブルに見覚えのないレジ袋が置かれていることに気がついた。
中身を確認すれば、ゼリーや果物といったお見舞いの品が沢山入っている。
そして、一枚のメモ用紙。
そこには、何処かで見たような……しかし思い出せない筆跡で、お大事にしてくださいと記されている。
十中八九、誰かからのお見舞いだろうが、誰が?
菊花がそう思いながらレジ袋を持ち上げると、レジ袋とサイドテーブルの間に挟まれていたらしいもう一枚のメモ用紙がひらひらと床に落ちた。
メモ用紙を拾い上げる。
そこには、先程のメモ用紙と同じ筆跡で『サイドテーブル、右』とだけ書かれている。
菊花はおずおずと、サイドテーブルの右引き出しを開く。
中には、カードキーと……更にメモ用紙。そのカードキーに、菊花は見覚えがある。
これは拝啓の家のものだ。
菊花は慌てて一緒に入っているメモ用紙をとる。
何故こんなにも用紙をわけるのか。こんなに回りくどいことをせず、全て一枚にまとめてもよかったはずだ。
そう思いながら、内容に目を通す。
「どうか、三伏くんには言わないでください……。」
菊花は、思わず読み上げた。
他のメモとは違う。見知った、拝啓の文字で書かれた短い言葉。
自らが読み上げたメモの言葉に、菊花は確信する。この世界は夢だが、さっきまでの天地始粛とのやりとりは夢ではないと。
菊花は、着の身着のままで外に出る。拝啓の家の鍵を持って。
階段を駆け上がり、拝啓の家の扉を開ける。
いくら急いでいても、ここは拝啓の家だ。玄関の脱いだ靴は丁寧に揃え、拝啓の机に急ぐ。
天地始粛が壊したはずなのに、机には傷一つなく、静かに菊花を待っていた。
引き出しの中には、五冊の日記。
五年前と三年前。日記には、先程見た内容と同じ文章。
バクバクと脈打っていた菊花の心臓は、漸く平静を取り戻し、穏やかな脈打ちへと変化する。
菊花は深呼吸をし、息を整える。
菊花は、漸く理解した。
これが、晩夏の気持ちかと。生きるという地獄の中で、やっと手に入れた一縷の希望。
それがただの夢であり、目覚めたら現状は何も好転していないという無常。はじめて得た光を失うという焦り、不安、恐怖。
これは、はじめからただそこにあるだけの地獄よりも、もっと大きく深い絶望。
「でも、」
ぼくは譲らない。もう後戻りはできない。どちらか片方しか生き残れないならば。
これは、エゴとエゴのぶつかり合い。
菊花は、強くならなければならない。
晩夏は強い。その実力は、拝啓すらも認めるほどだ。だからこそ、晩夏を止められるほど強く。
菊花は拳を握りしめ、そう決意する。
次の日。再び拝啓の外套に袖を通し、菊花は関東支部のオフィスへと向かう。
ゼリーとは言え食事を取り、半日寝た影響か、顔色はよく、表情は決意に満ち溢れている。
「あ、菊花。おはよ……う?」
オフィスで菊花に声をかけた歳末が首を傾げる。
菊花は気にせず、おはようございます。と返事をして自分の席に着席する。
歳末はすぐに菊花が着用しているのが、拝啓の外套だということに気づいた。
しかし、その心変わりについて問うタイミングを完全に逃していた。
「おはよ、ございます。」
次に花冷が、挨拶をしながら菊花の隣にやってくる。
その手には可愛らしいピンクの弁当箱がおさまっており、花冷は菊花にそれを差し出す。
「食事、菊花。食事、が必要、だと思う……です。」
不安そうな顔をした花冷と弁当箱を菊花は交互に見比べる。
ありがとう。その言葉と共に菊花が弁当箱を受け取ったことにより、花冷の表情は花が咲いたように明るくなる。
「美味しいと、良い……よ、です。」
嬉しそうな花冷に、見間違いかと思うほど一瞬だけ菊花の表情が緩む。
ただ、表情の乏しい菊花のその微笑みは、誰にも気づかれていない。
昼に食べようと、菊花は受け取った弁当を大事にかばんの中へと仕舞った。
オフィスの扉が開き、早々と藤花が入ってくる。
早々は、自身の席につくことはなく、来客用のソファへと腰掛ける。
藤花はというと、自分と早々の分の荷物をロッカーへ仕舞うべく、駆け足でロッカー室へと向かう。
菊花は、ソファに座るや否や、早速煙草に火をつけはじめた早々の元へと歩み寄る。
「早々さん。ぼくを鍛えてください。」
菊花の言葉に、ちらちらと様子を窺っていた、菊花を心配する周囲の全員が驚く。
まさか、早々にそんなことを頼むなんて。
早々に師事を仰いだところで、徒に半殺しにされて得られるものは何もない。誰もがそう言いたげだ。
それでも菊花は、真っ直ぐ早々を見つめている。
暫くの沈黙。
煙草をふかし、早々が紫煙を吐いた。
早々は返事をしない。何かを考えているのか、それとも菊花を無視しているのか、菊花にはわからない。
「あの。」
なんでワイが?
菊花が、もう一度早々に話しかけようとしたタイミングで、早々が口を開いた。
菊花は意を決して、貴方が適任だからです。と早々に伝える。
早々は先日、余寒か厳冬を頼れと言った。
だが、余寒に晩夏が殺せるだろうか。余寒が敗れたとき、真実を知らない春風や入梅はその死を深く悲しむだろう。それだけは避けたい。
次に厳冬は、関東支部の幹部と言えど、中々オフィスに顔を出すことがない。
しかも、先日。拝啓が厳冬に、本来の業務に戻ってほしいと言っていたのを菊花は聞いていた。
つまり厳冬は、拝啓に頼まれた大事な仕事の最中だ。
確かに、頼み込めば聞いてくれない相手ではないが、菊花としては厳冬の仕事の邪魔をするのは避けたい。
となると、早々。
そもそも、拝啓が不在な現状。関東支部で一番強いのは間違いなく早々だ。
ならば、早々に師事するべき。菊花はそう考えた。
「ワイはここでなんもせえへん。」
早々がシッシッと手を払うジェスチャーと共に、うっとおしそうに言う。
菊花はなんとか食い下がろうとした、その時。
「せやけど、ジブンについとるその疫病神は気にいれへん。」
突然。早々が立ち上がる。
疫病神?『天地始粛』のことだろうか。
ソレを指すにしては始めて聞く蔑称に、少し戸惑いながらも、菊花は早々の動向を注意深く見つめる。
早々は、もう一度紫煙を吐き出し、ロッカー室の方を見る。
「藤花ァ!早うせんかい!」
早々が突然怒鳴りだし、菊花が目を丸くする。
その怒鳴り声に呼応して、ロッカー室からネズミ花火のように藤花が慌てて飛び出してきた。
「ごめんボス。」
その表情はまるで、飼い主に叱られる小動物のようだ。
だが早々は、そんな表情を気にする様子は欠片も見せない。
慌てて早々の元に戻ってきた藤花の頬を当たり前のように平手で打ち、親指で菊花を指さした。
「こいつ、しごいたらんかい。弟やろ。ジブンが面倒みぃ。」
今度は、菊花だけではなく藤花も目を丸くする。
藤花は、一瞬なんでオレがと聞きかけたが、関西支部の異能者にとって早々の言うことは絶対だ。大人しくその疑問を飲み込むと、わかった。と従順に返答をする。
その代わり、意見があるのは、藤花ではなく菊花だった。
早々さんに頼んだんです。漏れ出た疑問は早々によって一刀両断される。
「藤花で十分や!わかったらちゃっちゃと外にでんかい!走ってきいや!」
早々の大声で、藤花は菊花の首根っこを掴み外へと飛び出した。




