ニ十四通目 悪夢
「「天地始粛。」」
菊花と天地始粛の言葉が重なる。
菊花の思考を読んだとでも言いたげに、天地始粛は得意そうな表情を浮かべる。
拝啓とは似ても似つかないその表情に、菊花は強烈な不快感を覚えた。
「そんな風に睨まないでくださいー。」
悲しいじゃないですか。
飄々とそんな事を言う口と裏腹に、拝啓の顔をした天地始粛の表情は一切崩れていない。
菊花は震える。それは、最愛の恩人の体をこうも弄ぶ天地始粛への怒りや憎しみか。
菊花はその震えを抑えることもせず、真正面から天地始粛を見据える。
「出ていけ。出ていかないのなら、」
菊花が意を決する。だが、
「殺すんですかー?二度も、きみが拝啓を?」
天地始粛が微笑む。あの日の拝啓と同じように。
その表情で、その言葉で。菊花の思考は、電源が切れたコンピューターのように止まってしまった。
瞳の焦点が揺らぐ。怒りよりも強く。憎しみよりも深く。思考も体も、その全ての自由を奪うように、根を張る絶望はこの世に存在する。
「おっと、いけない。意地悪をしに来たわけではないんでしたー。」
朗らかな笑みを浮かべ、天地始粛は、自らの胸ポケットを漁り、カードキーを取り出す。
それは、拝啓の自宅の鍵。拝啓の体ならば、持っていて当然のそれを、天地始粛を見せびらかす様に菊花の前でひらひらと振る。
「おれが死んでもきみ達に隠したかったことを教えてあげます。」
放心状態の菊花の胸ぐらを強く引っ張り、天地始粛は菊花を玄関から外に出す。
その衝撃で、揺らいでいた焦点のあった菊花が離せ!と天地始粛の手を振り払う。
菊花が自身についてきさえすれば良いのか、天地始粛はそれを気にせず拝啓の部屋へ向かう為、暗い廊下を進んでいく。
「社宅はいいですよねー。行き来が楽ですからー。」
天地始粛の雑談を菊花は完全に無視する。
そもそも、菊花は天地始粛が言う拝啓の秘密とやらに興味がなかった。
むしろ、拝啓が隠したいと願うのなら、自分自身がその秘密の正体を知らなくとも、守護者になろうと決意するぐらいには秘密を知るということを重要視していない。
だが、なにはともあれ今は、だ。今は天地始粛についていかなければならない。
目の前の男は呑気な顔で歩いているが、もし菊花が機嫌を損ね暴れ出したら。
拝啓が守っていた全てを危険に晒すことになる。それだけは避けなければいけない。
「これを知ったら、きみはどうするんでしょうねー。」
意味深な言葉を吐きながら、天地始粛は一つの扉の前で足を止める。
表札には何も書かれていないが、ここは確かに拝啓の部屋だ。
ピピッ。ガチャリ。
鍵が開く。天地始粛は、容赦なくその扉を開き、ズカズカと中には入っていく。
人感センサーのライトが点灯し、部屋の中がパッと明るくなる。
その部屋を、靴も脱がず上がっていく有様に、菊花は、慌てて靴⋯…っ!と口に出すが、天地始粛は聞く耳を持たない。
仕方なく、自分だけは靴を脱ぎ、玄関に丁寧にそろえると、天地始粛が土足で踏み荒らした室内は後で清掃しようと菊花は誓う。
ここに住む人物は、もういないにも関わらずだ。
「これですね。」
菊花が追いついた頃には、天地始粛は鍵のかかった引き出しを破壊し終えていた。
上質な木の机に、巨大な獣の爪をかけられたかのような大きな傷跡がついている。見るも無残にひしゃげ、引き出された引き出しが、強大な存在からの暴力をありありと示している。
無関係なはずの菊花が無性に申し訳なくなるほどの無惨さだ。
天地始粛は、ぼろぼろになった引き出しの中から取り出した五冊の日記帳を選別し、その内の二冊を菊花に渡す。
そして、近くの椅子に深く座り込んだ。その視線はそれを読めと言っている。
菊花は、おずおずと日記を開く。
いつか見た拝啓からの手紙と同じ様に丁寧な文字が連なっている。
二冊の日記の日付は、五年前と三年前。
菊花は身構えた。あの拝啓の日記だ。どんな壮絶なことが書いてあるのだろうと。
だが、菊花の予想と反して、日記の内容は端的に言えば面白味がない。
今日はこんな依頼が来た。今日は入梅が元気だった。今日は敬具が休んだ。
日記なのだから当たり前だが、こんな風に日々の出来事が淡々と記されているだけだ。
しかし、異変があったのは五年前の七月。入社後、研修を終えた菊花の関東支部への初出社日。
七月一日。早朝にギフトが出現。市街地での討伐完了。幸い被害者は無し。ギフト化した異能者の遺族に面会。彼女は入院中。妙な気配。今日は、菊花くんの初出社日。
七月二日。昨日の遺族に再び面会申請。そんな人はいないとの連絡。彼女も異能者。昨日の気配は、やはり……
「ここは、彼女の異能空間⋯?」
菊花は、思わず声に出して読み上げる。
菊花の中で妙な仮説が組み上がっていく。
菊花は、日記から勢いよく顔を上げた。
菊花と目があった天地始粛は、続けろとでも言いたげに菊花の持つ日記に視線を移す。
手が震える。菊花は再び、日記に視線を戻す。
「七月三日⋯!」
いるはずのない人物がいる。おれは彼を知らない。他の職員は彼を知っている。今のところ、おれしか気づいていない違和感。だが、彼のおかげで、
「彼のおかげで、あの晩夏くんが⋯…とてもたのし、そう…⋯で。」
菊花は弾かれたように、もう一冊の日記に手を伸ばす。
三年前の日記。彼が関東支部に来た日を探す。
四月三日。彼女を発見。彼女には記憶がなく、二年前におれと会ったことも忘れている。彼女に名前を与え、支部に連れ帰った。
四月四日。彼女と接触したせいか、晩夏くんが気づいてしまった。晩夏くんが急に出ていって、彼は酷く困惑している。おれは、伝えるべきか悩んでいる。
「ここは、彼女の異能空間であると。」
夢のような世界。現実から切り離され、耐えられない現実を忘れて、彼女が生きるための精巧な偽物の世界。その世界におれ達は取り込まれた。
菊花の額を汗が伝う。
彼女。彼。二人の人物を表す単語。その確信を得るために、菊花は頁をめくる。
「彼女、彼女⋯が。」
そうして、見つけた。
「花冷くんが、何故、夢の中では男性なのか。」
亡くした最愛の人の姿を模しているのだろうか。では、彼は何者なのか。
「花冷くんに、よく似た。現実世界にはいない、彼、は。」
三伏くん、は。
仮説は、確信に変わる。
菊花の汗が、ぽたりと日記に垂れる。
ふと、明るい室内で、日記に陰がかかる。菊花が上を見上げれば、不満そうな表情で天地始粛が菊花とその手元の日記を覗き込んでいる。
「遅いですよ。」
菊花にとって、この日記の内容は驚きの連続だった。
ゆっくりと脳が理解を拒む事象を飲み込んでいるというのに、この狼はそれを待ってくれはしない。
天地始粛が日記を奪い取り、パラパラと頁をめくる。
差し出された頁に菊花は必死に視線を落とす。
この異能は、異能空間の中で死ぬと現実世界に戻される。そして、異能者が現実世界で目覚めれば、異能は終わり、全員が現実世界へと帰還する。ただそれは、三伏くん以外。
出来ない。今更。晩夏くんから三伏くんを奪うなんて。
「暗闇に産まれた者は、一度光に触れれば、再び暗闇を生きることはできない⋯…。」
日記に記されていたわけではない。菊花の口から自然と言葉が漏れる。いつか何処かで、拝啓に聞かされた言葉。
晩夏は、照らされてしまったのだ。夢の中でのみ輝く光に。




