ニ十一通目 最期の手紙
明かりのついていない暗い部屋。
開きっぱなしのカーテンから差し込む、月明かり。
その光りのみに照らされる、清潔に整えられた部屋は、今だけは酷く無機質に感じる。
部屋の主である菊花の重い足取りに呼応するように、ギシ、ギシ、と床が軋む音が低く響く。
脱力した菊花の肩から、重力に従ってズルリと荷物が落ちた。
菊花の片手には、一つの封筒。
それを、暫くの間ボーッと眺めた菊花は戸棚からペーパーナイフを取り出す。蝋で丁寧に封をされたそれを、菊花はゆっくりと開いていく。
中には二枚の紙。差出人は、やはり拝啓で間違いなさそうだった。
「前略失礼いたします。」
拝啓の、丁寧な文字が並んでいる。
菊花は、それを噛みしめるかのように静かに頭の中で読み上げる。
「この手紙が、キミに届く頃には。」
菊花は、次の文に目をやり、つい、手紙を落とす。
震える手で拾い上げた手紙の内容は、何度読もうと先程と全く変わっていない。
「おれはもうこの世にはいないでしょう。」
残酷に記された死の予言。
菊花の息が荒くなる。額から垂れた汗が眼帯に染みていく。眼帯の下の右目がやけに熱を持つ。
荒い息のまま、菊花は拝啓からの最期の手紙を読み進める。
「まずは、キミに謝罪を。もう知っているかもしれませんが、おれはキミに酷い荷物を背負わせましたね。それの名は、天地始粛。おれの体の中でずっと封印していましたが、ついぞ殺すことは叶いませんでした。それ故、キミに封印を託してしまったこと、申し訳なく思っています。キミはおれと違い、その力を使って何かを成す必要はありません。それは、とても危険な力です。」
はじめに綴られたのは、拝啓の謝罪。繊細な字は、悲しみを隠すように均一に並んでいる。
「関東支部のことは恐らく、歳末くんが何とかしてくれるでしょう。彼が困っている時は、キミが力になってあげてください。酷い奴だと思われるかもしれません。ですが、もう戸籍のないおれの代わりに歳末くんをキミの養父にしたのは、おれがいなくなったあと、キミ達に支え合ってほしかった。おれの我儘です。」
拝啓の手紙通り、菊花は歳末の養子だ。
それは菊花の学生時代。児童養護施設に所属する手前、菊花は就職か進学かを考え倦ねていた。
そんな菊花を見た拝啓は、賢い菊花のために金銭的援助をと歳末に望み、歳末はそれを了承した。以降、菊花は正式な手順で歳末の養子となっている。
現在の歳末と菊花の間に、親子のような距離感はないが、常に歳末と行動を共にする深緑の方は、歳末と菊花が養子縁組をする前から、菊花を実の子のように気にかけていた。
「もしも歳末くんが、あまりにも不甲斐ない場合は、不本意ですが早々くんを頼ってください。彼の方針は関東支部の在り方とはかけ離れたものですが、組織の長としては彼が適任です。」
歳末に対し、やや辛辣な指摘が入る。
拝啓の心配を他所に、今の歳末は関東支部のボスとして役目を全うするだろう。
「おれの最期の望みです。」
淡々と書かれた文字列がついに拝啓との別れを告げる。
「菊花くん。キミは生きてください。おれの分まで、なるべく長く。幸福に。」
それは優しく、残酷な生への呪い。
拝啓は、菊花に死を許さない。それを深く突きつけられた菊花は、その手紙をくしゃりと強く握る。
「⋯⋯貴方が、望むなら。」
絞り出された微かな声。傷ついた幼い子供が、必死に縋るようなその仕草に応える大人はもういない。もう、いないのだと、菊花は何よりもよくわかっていた。
*
「お、おはよ、う。ござい、ます。」
昨日の出来事からまだ重く暗い雰囲気のオフィス。
あれから眠れていないのか。目元に大きな隈を作った菊花に、花冷が話しかける。菊花は、淡々とおはよう。と返事をする。
その目は、一切花冷に向けられておらず、ただ目の前のパソコンを見つめている。素早いタイピングで永遠に仕事をこなしている菊花に花冷は困ったように眉をひそめる。
「昨日、ありがと。ござま、いま、した。」
日本語が得意ではない花冷が、辿々しく菊花に礼をする。
菊花は答えない。仕事だから当然とでも言いたげな態度に、花冷はまた困り眉をひそめる。
「あの。菊花さん。その仕事、俺のですよね。」
オロオロとした花冷を見かねてか、それとも己が気に食わなかっただけか。
敬具が大きな音で椅子を引き立ち上がると、菊花の元へ歩いてくる。
そして、菊花の机に置かれた書類を奪い取る。菊花は、はじめて顔を上げ、花冷と敬具の顔を見た。
「ぼくがやったほうが早い。」
真っ直ぐ投げかけられた菊花の言葉に、額に青筋の浮かんだ敬具が二回眼鏡をなおす。どうやらとんでもなく敬具の癪に障ったようだ。
「その辛気臭い面を今すぐやめていただけますか!叔父さんが亡くなって辛いなら、勝手に喪にでも服せばいい!そもそもあの人はっ、」
更なる大声を出すため、敬具が大きく息を吸う。
「だめ!」
だがしかし、その言葉が放たれる前に、隣にいた花冷が勢いよく敬具の口を塞ぐ。
花冷の手に押さえられ、べちんっと音がなった口元の痛みに敬具はイライラを募らせる。
「そうだぜ、敬具くん。仕事やってもらえるなら別にいいじゃん。」
今にも怒りで噴火しそうな敬具に、残炎が肩を組む。
ニコニコと笑いながら敬具の手から書類を奪い取り、菊花と返す一連の動作はあまりにも自然だ。
敬具のヘイトは完全に残炎へと向かう。貴方がそんなんだから!とギャーギャー騒ぎ出す敬具の暴言を、え〜酷〜と呑気な言葉で軽く受け流す残炎が、さりげなく別室へと敬具を連れて行く。
これは、残炎からの助け舟だった。
去り際に残炎が菊花と花冷に向けたウインクだが。花冷は兎も角、とっくに仕事を再開した菊花は欠片も見ていなかった。
*
「あの手紙は、問題なく読んでもらえたようかな。」
時代錯誤の黒電話の前で、彼女は小さくはい…⋯と漏らす。
「ならよかった。では引き続き頼むよ。」
一方的に告げ、黒電話から声はしなくなる。彼女は小さく息を吐き、静かに受話器を戻す。
「わかっています…⋯。お父様…⋯。」




