ニ十通目 喪失
何が起きたのか。
地から現れた黒い獣の口に、晩夏によって致命傷を負った拝啓が飲み込まれてしまった。全員が放心している。
花冷を手に入れる為に、どんな相手も倒す覚悟があった晩夏すら、情報が理解できていない。
「菊花!」
バタバタとした足音。
音の主は、数々の異変を察知した向暑と入梅だ。たった今来たばかりの二人に状況はわからない。
何故、拝啓の姿がその場に見えないのかも。だが、向暑はこの場の誰よりも冷静だった。
晩夏と対峙する三伏、花冷、菊花。そして自身とともに来た入梅を乱暴に掴み、自身に無理矢理引き寄せる。
「飛ぶよ!」
向暑の大声。
ハッとした晩夏が引き留めようと異能を行使するが、もう遅い。
向暑達の姿は、異能の力によってその場から一瞬にして消えた。
「なぁ!拝啓置いて来ちまったけど!」
瞬間移動によって辿り着いたのは、QAT関東支部付近の路地裏だ。
入梅は、拝啓を心配し、向暑に掴み掛かる勢いで訴える。
だが、何かを悟っているのか、人ならざるものの勘か。向暑は至って冷静だ。
入梅の手を優しく握ると、向暑はしゃがみ背の低い入梅に視線を合わせる。
「彼処にボスはいなかった。でも、多分、それは。」
自分がここではっきり伝えてしまえば、入梅はどうなるだろうか。
入梅のことを案じ、向暑が口ごもる。いつも明るい向暑が視線を落とす様に、入梅は不安気に周囲を見渡す。暗い表情の花冷。悔しそうに唇を噛む三伏。何かを抱きしめ、地べたに座り込み、いまだ放心した様子の菊花。
入梅は、そんな菊花にふらふらと歩み寄る。
「なぁ、菊花。それ、なんだよ⋯…。」
菊花が抱きしめている物に、入梅は手を伸ばす。
硬直した体に強く握られたそれは、入梅もよく知る拝啓の外套。
何故、菊花がこんな様子で拝啓の外套を抱きしめているのか。何故、向暑は……拝啓の居場所を自分に教えてくれないのか。
理解の追いついた入梅の手が震える。その顔はさっと青ざめた。
「拝啓⋯…?そんなはず…⋯。」
零された言葉と共に、一筋の涙が頬を伝う。その一筋を皮切りに、入梅から大粒の涙が溢れる。
際限なく泣き喚く入梅を向暑は強く抱き締めた。
向暑は、入梅を抱き抱え、もう一度全員に触れると瞬間移動を行使する。
五人は、またもや一瞬にして関東支部のオフィス内へと戻ってきた。
五人の突然の帰宅に、春風が自身の席から慌てて立ち上がる。
「向暑くん!何が起きたの!?」
現場からの映像配信を見ていた春風にも、何が起きたのかまではわからなかったようだ。
駆け寄ってきた春風に、向暑に抱き抱えられていた入梅が、涙でぐしょぐしょになった顔で姉ちゃん!と叫び抱きつく。
入梅を抱きしめ返し、そのあまりにも取り乱した様子に、春風が心配で表情を曇らせる。
いまだ言葉に詰まる向暑の肩に、三伏が手を置いた。
「晩夏が、拝啓さんを殺しました。」
その直後、拝啓さんの遺体は、黒い口に飲み込まれて…⋯。
改めて三伏により言語化された、拝啓の身に起きた悲劇に各々が口を噤み顔を伏せる。
ガチャリ。わざと音を立てて扉が開く。
重い空気を纏い、オフィスへと入ってきたのは歳末だ。扉の前で話を聞いていたのか。その表情は、既に拝啓の死を知っているようだった。
「⋯…。」
歳末は、目を硬く瞑り、小さく深呼吸をする。
歳末には、年長者として。拝啓の相棒として。拝啓亡きあとの関東支部を支える使命があった。
「関東支部の代表には、今この時をもってぼくが就任する。みんな、異論はないね。」
凛とした声がオフィスに響く。誰もが反論せず、歳末を見ている。
ふと、歳末の肩から深緑が降りていく。
菊花を心配しているのか、深緑がスルスルと菊花の元へ這う。
座り込む菊花は、右目を押さえており、その異様な様子に深緑は首を傾げる。
「どうした菊花。目が痛むのか?」
菊花の顔を覗き込む深緑の言葉に弾かれたように歳末が反応する。
走り寄ってきた歳末に突如として肩を捕まれ、菊花の目から手が離れる。その手には、菊花の義眼が握られている。
何故、菊花は今義眼を外したのか。
「目を隠せ!!!!早く!!!!」
誰もが聞いたこともない歳末の怒鳴り声。
菊花の義眼は外したのではなく、そこに植え付けられた眼球によって押し出されたのだ。
歳末が勢いよく菊花の顔に両手を当てたことにより、菊花は勢いよく後ろに倒れ頭を打ちつける。
だが、歳末はその心配もせず、周囲へと続ける。
「医務室から眼帯をもらってきて!早くしろ!!」
歳末の様子に三伏が弾かれたように走る。
足に身体強化をかけたのか、驚くほどの早さで三伏は戻ってきた。
三伏から受け取った眼帯を、歳末は震える手で菊花に丁寧につける。その際、一度もその目が周囲に露出することがないように、慎重にだ。
「ど、どうしたんですか?歳末さん。」
春風が不安そうに歳末に問う。
歳末の眉間にはシワが寄り、その額にはダラダラと大粒の汗が流れていた。
「拝啓の奴⋯…。とんでもない置き土産をしていった⋯…。」
歳末が、荒い呼吸を整えようと精一杯息を吐く。
菊花の眼窩に埋まるソレは、紛れもない。見間違うはずもない。『天地始粛』。
ソレは、拝啓が菊花に背負わせた終焉の狼の封印。
拝啓は、自らの右目にそれを封印し、その力を呼び起こす時だけに右目につけた眼帯を外していた。
菊花が今、拝啓と同じように眼帯をしなければ、菊花にはとてもではないが操りきれない『天地始粛』が、間違いなく世界を喰らうだろう。
あの歳末が、突然怒鳴ってでも菊花に眼帯をつけさせたのはそういう理由だった。
一方、菊花は。頭を打ったことにより、長い放心から解放されていた。
勿論、拝啓が自分のせいで死んだという喪失感を克服したわけでは毛頭ないが、少なくともこのまま廃人として生きることは免れた。
だがしかし、これからの菊花に、菊花を照らしてくれる雷光はもう輝かない。あの日からずっと鳴り響いていた雷鳴は、もう聞こえない。
「とりあえず、今日は全員解散して。また明日、状況を整理しよう。」
…⋯菊花、立てる?頭⋯…打ったよね⋯…?大丈夫?
歳末は、手の甲で自らの汗を拭いながら、心配そうな顔をする。
菊花は、はい。と淡々とした返事をする。歳末はその様子にまた心配となり、眉をひそめた。
「それじゃあ菊花。暖かくして休むんだよ。」
夏だと言うのに、辺りは急激に暗くなっていた。
小さなライトだけが頼りとなった菊花の家の玄関で、歳末が菊花の肩を撫でる。
家に帰るまでの道中、菊花、歳末、深緑、三人の間に会話はなかった。
菊花が再び、はい。と小さく返事したのを聞き、歳末は踵を返そうとする。その時。
「ちょっと待った。歳末。菊花。」
深緑が歳末と部屋の中に入ろうとする菊花を呼び止める。
廊下は暗く、よく見えないが扉を開けた拍子に扉の隙間に挟まっていたであろう紙が落ちたようだ。
「これは、手紙?……拝啓の字だ。菊花宛⋯…だろうな。」
見知った機械のような字で、丁寧に菊花くんへと書かれた封筒を見た歳末は、その封筒を迷わず菊花へと渡す。
菊花は弱々しくその封筒を受け取ると、ぺこりと小さな会釈をして、暗い扉の奥へと消えていく。
「なァ…⋯菊花をもう少し慰めてやったりできなかったのかい?」
オートロックの音を聞き、扉が完全に閉まったのを確認し、深緑が歳末に問う。
「うん。ぼくは⋯…拝啓じゃないから。皆を救える……あの雷では、ないから。」




