一通目 一夜新霜著瓦輕
早朝。早起きな蝉たちが一斉に時雨を奏でる季節。まだ薄暗く、質素な白い壁が続く廊下。そこには、壁と同じ白い色をした引き扉が均等に並んでいる。そして、そのうちの一つがゆっくりと開かれた。
「それでは、失礼します。」
扉から出てきたのは、長身で白い髪の男。男は部屋の中にいる人物へと軽い会釈をし、扉をゆっくりと閉める。そうして、先ほどまでの緩慢な動きとは裏腹に、プレゼントを待つ子供のようにソワソワとした様子で足早にその場をあとにする。
「彼が来るまでに、間に合いますかねー。」
白い廊下を進み、一目散にエレベーターホールへ向かった男は、そこで自分を待っていたらしい女に問いかける。女はその言葉に静かに頷き、ただ肯定した。
「菊花が来て何年だっけ?」
赤髪にサングラス。ホワイトボードの前で、軽薄そうな男が隣にいる神経質そうな青年に声を掛ける。五年です。青年は眉間にシワを寄せ答えた。
「え、もうそんなにか。そりゃあ、オレ達も業績抜かれるよな。」
男のあっけらかんとした声に青年はますます眉間のシワを深くする。目に見えて不機嫌なのか、着用している眼鏡を二回ほど直す仕草をし、男を睨みつける。
「貴方がその様子だから抜かれるんじゃないですか。残炎さん。」
残炎と呼ばれた男は、敬具くんったら厳しい〜とおちゃらけた声音で返事をする。その様子に不快感を示し、もういいです。そう言い放つと青年、敬具はホワイトボードに目線を移し、菊花&三伏と書かれた文字の隣に並ぶ残炎&敬具の文字に目を向ける。なぜ俺がこんな真面目に仕事もしない人と…。だいたい、拝啓さんのやり方を真似れば業績があがるなんて理不尽は認めない…。それならやっぱり、残炎さんの実力不足ですか…。など、ぶつくさ不満を漏らす。
「聞こえてるよ?」
堂々と隣で話す敬具の露骨な文句に残炎が肩を竦めた。その時、
「出動命令です。現在、西地区に異常異能者の通報が入りました。担当者は至急現場に向かってください。」
スピーカーから凛とした女性の声が響く、その声で、各々の席でパソコンに向かっていた青年二人が立ち上がる。片方は金色に碧眼の美しい瞳をし、その腰には刀を携えた青年、三伏。もう一人は、艶のある黒髪に、先天性の欠落により右目が義眼であり、微かに左右で色の違う瞳が印象的な人物。先程話題に上がっていた青年、菊花。異常異能者の通報のあった西地区の担当者である彼等は迅速に現場に向かう。
まずはじめに、異常異能者とは。この世界の一部に発現する異能という人智を超えた力。その力を扱い悪事を働く犯罪者の総称である。
菊花達は、そんな異常異能者を取り締まり、非異能者である民間人の安全を守るための異能者によって構成された組織。『|Quattuor Anni Tempora《クウァットゥオル アンニー テンポラ》』通称、『QAT』。その関東支部に所属する異能者だ。
「俺は非異能者の保護を優先する!お前は異常異能者の無力化を!」
現場に急行した三伏が菊花に叫ぶ。どうやらこの異常異能者の異能は、非異能者を意のままに操るものらしい。操られた人々が、異能に操られることなく一直線にこちらに向かってくる三伏と菊花を視認するや否や彼等は、二人へと一斉に襲いかかってきた。
三伏は襲いかかってくる人の群れに臆することなく、冷静に抜刀した刀の峰で彼等の意識を落としていく。菊花は、三伏が割った人の群れを糸を縫うように駆けていく。そうして一番奥、人の群れに隠れ、怯えたように、しかし妙な自信があるような出で立ちの男を見つける。
この男こそ、この事態を起こした張本人であり、人を操る力を持って生まれたせいか、本来ならば抑えるべき支配欲がいたずらに増殖し、やがて今回の凶行に走った異常異能者だ。
「おれに近寄るなッ!」
男は人の群れを逆行し、自身に近づく菊花に気づいた。瞬時に菊花が異能者であり、自身では操ることができないことも理解し、怯えたように叫び声をあげる。それに共鳴したように操られた人の群れが菊花に群がる、その寸前に菊花が男の顔を鷲掴んだ。
「一夜新霜、著瓦輕。」
突如、菊花の周囲に霧が立ち込める。淡く、美しい菊の花が咲いたようなその霧を、男が吸い込んだ瞬間。異常異能者の男は突如脱力し、地面に伏す。その後、周囲の人間もまるで線が切れた操り人間のようにバタバタと倒れだす。
菊花の異能、一夜新霜 著瓦輕は、自身の周囲に催眠効果のある霧を発生させるものだ。霧を吸い込んだ人物は昏睡状態に陥る。その効果を利用し、菊花は異常異能者の無力化を成功させた。
「巻き込まれた非異能者の数が多いな。春風さんに応援を頼む。」
三伏が菊花の異能で発生した霧を吸い込まないよう口元を抑えながら、倒れている人々を踏まないように跳び越えつつ、異常異能者を拘束している菊花の元へ歩いてくる。あぁ。三伏の言葉に肯定をしながら菊花は立ち上がる。
「君は先に戻って報告書の作成を。」
三伏の言葉に頷き、菊花は一人先にQATのオフィスへと戻っていく。
「なんや。早かったやんけ。ぼちぼちワイが出てみぃんないてこましたろかと思っとったところや。」
オフィス街に並ぶビルの二十階、QAT関東支部のオフィスに戻った菊花にクセの強い関西弁が飛んでくる。その男は、堂々と菊花の席に座り、行儀の悪い姿勢で足を机の上に上げ、オフィスでタバコを吸っている。勿論、この建物は禁煙であるが、誰も彼に注意をしようとしない。
糸目に眼鏡。ニマニマと人を馬鹿にしたような顔をし、菊花に絡んできたこの男の名は早々。QAT関西支部からここ関東支部に派遣された、いわゆる助っ人であり、元々は関西支部のボスを最年少で務めていた恐ろしい実力者だからだ。
「どうせ、また生ぬるい拝啓のやり方真似して誰も殺してへんねやろ。」
早々が立ち上がり、菊花の前に立ち塞がる。菊花の眼前に火のついたタバコを近づけると、嫌味な言い方を続ける。
「ワイの関西支部やったらそないなこと許されへん。異常異能者に何したって誰も何も言わへんし、殺してもうてちょうどええくらいや。」
それがいつまでたってもわからへんみたいやな。早々の煽りに場には緊張が走る。事務員の女性が怯えた様子でそそくさと別室に移動していく。
「早々さんの言う通りです。異常異能者には、何をしてもいい。強いほうが偉い。常識ですよ。貴方が真似る拝啓さんのようなやり方は、根本的な解決にはなりません。」
そこに、早々の意見に賛同する敬具が現れ、更に菊花に苦言を呈す。菊花は早々と敬具を睨むばかりで、何も言いはしない。だが、誰にも怪我をさせず解決した菊花の行動を、そして拝啓のやり方を、貶すような言い方には確実に怒りが見える。周囲には一触即発の空気が漂う。
「揃いも揃ってなんで入り口に立って…。邪魔…あぁ、早々さんここは禁煙です。」
そんなとき、オフィスの扉を開き、場の緊張をものともせず、声を発したのは、たった今現場から戻ってきたばかりの三伏だ。突然現れた生真面目で面倒くさい三伏の言葉に毒気を抜かれ、早々は大きな舌打ちをし、煙草の火を消しながら自らの席に戻っていく。君も帰ってすぐに災難だったな。三伏が菊花に声をかけ自身の席に戻っていく。
「菊くん。ありがとう。お手柄だったわ。」
席に戻り、報告書を書いていた菊花に淡いピンクの長髪をした柔らかい雰囲気の女が話しかけた。彼女は春風。異常異能者の情報の取りまとめを行っているQAT関東支部の諜報員だ。
「貴方が、彼が最悪な事態を起こす前に迅速に無力化してくれたおかげで怪我人もでなかったわ。ボスにもそう伝えておきますね。」
菊花はその言葉に深く頷く。ここ、QAT関東支部のボスとは。名前を拝啓といい、菊花の敬愛する人物である。そして、日本に存在するQAT支部全体の統括も行う、よほど捻くれていなければ、誰もが認める人格者だ。そんな人物に功績を伝えられることは、出世に興味がない菊花としても嬉しい。
「そ、それにしても…。」
菊花と春風にオドオドとした声音で声がかかる。
更新は二週間に一話ペースです。
関西弁は変換サイトを使っています。