09 氷上の妖精、降臨!”完成形”が秘める、もう一つの可能性
――スケートリンクに立つ自分を想像するなんて、一週間前のぼくならありえなかった。
「さあひかりさん、今からエントリーしますわよ!」
「……え?」
「Café Catalyst」のバイト中、まどかちゃんーーいつものように、女の子の姿で遊びに来ているーーが突如そんな爆弾を投げ込んできた。
スマホを片手にニッコリ微笑む彼女を前に、頭が追いつかない。
「え、待って、何をエントリー……?」
「フィギュアスケート大会ですわ! 初心者歓迎で、技術点より表現力が重視される部門もありますの!」
「フィギュア!? いやいや、ぼくスケートなんて……」
「ひかりお姉ちゃん、でもこの前スケート動画見て『綺麗だな』って言ってましたよね?」
珍しく男の姿のままで店を手伝っているかなたちゃんが無邪気に口を挟む。
確かに、SNSで偶然見かけたフィギュアスケートの演技には一瞬見惚れた。
氷上で舞う華麗な動き、光を反射して輝く衣装――まるで幻想の世界みたいだった。
「それに、ひかりさんは“衣装を着れば”自然に最適化されるのでしょう?」
まどかちゃんが言う。
メイド服の時も、歌のお姉さんの時も、身体は勝手に理想の姿になった。
……なら、スケートの衣装を着れば? 氷の上でも――。
「……やるしか、ないのか」
「ふふ、そうこなくては!」
(その顔、絶対ぼくが断れないって確信してる……)
「……いや待って、まどかちゃん、もしかしてもう……」
「ええ、もちろん♪ エントリーは完了済みですわ!」
そう言って、スマホをくるっと回して見せる。
(やっぱりか!!)
試合当日の朝。控室にて。
まどかちゃんが用意した水色のフィギュアスケート衣装を手にした瞬間、ぼくはその美しさに息を呑んだ。
「す、すごい……! 本当にキラキラしてる……」
それは淡い水色を基調としたフィギュアスケートドレスだった。
胸元の繊細なレース模様やスパンコールの配置は、まるで氷の結晶が溶けこむようなデザインだ。
そして何より印象的なのは、肩からデコルテにかけてヌードカラーのメッシュ素材が広がっていることだ。
まるで肌そのものが美しく透き通っているような錯覚を与え、さりげない色っぽさを醸し出している。
「美しいでしょう? このメッシュ、肌の色に合わせて選んだんですの。氷の上で目立ちすぎず、それでも魅力を引き立てるようにこだわりましたわ」
「裾のフリルも二重構造になっていますの。動くたびにふわりと広がって、まるで妖精が舞っているみたいでしょう?」
まどかちゃんが得意げに衣装のフリルをつまんでみせると、控室の照明を受けたスパンコールが光の粒が飛び散るようにきらめく。
背中側には小さなリボン風の装飾があしらわれていて、胸元のラインは深すぎず、それでも女性らしい柔らかさを漂わせる。
「こだわり抜きましたのよ。氷上でくるくる回れば、一気に目を奪われること間違いなしですわ!」
恐る恐る袖を通し、背中のホックを留めると、いつものように身体がじんわり熱を帯びる感覚が走る。
まるで衣装の魔力に身体ごと包み込まれるようで、少しだけくすぐったい。
鏡を覗き込むと、予想どおり“女の子”の姿へと変化したぼくが映っていた。
華奢な腕、ほどよくふくらんだ胸、すらりと伸びた脚。
髪もいつの間にかロングの巻き髪になっていて、上品に揺れている。
ヌードカラーのメッシュ部分が、肌との境界を曖昧にしてくれるからか、一層“アイスドール”のような神秘的な雰囲気が増している気がする。
「ひかりお姉ちゃん、すっごく可愛い……! ほんとに氷の妖精だね!」
かなたちゃんが瞳を輝かせながら手を叩く。
まどかちゃんも満足げに頷いて、「完璧ですわ……」と微笑んだ。
透け感のある水色の生地とヌードカラーのメッシュが溶け合うように包み込んでいる。
フリルの裾がほんの少し動いただけでも、その場の空気ごと輝かせてしまいそうだ。
同時に、「男のぼく」がこんなにも可憐な衣装を着こなしている事実に、戸惑いも少なくない。
けれど、この“体質”が既にぼくの中で“当たり前”になりつつあることを思い知る。
(こんなに似合ってしまうなんて……)
着るたびに強まる錯覚は少し怖いけれど、それでも目を背けられないほど美しかった。
まどかちゃんの言葉どおり、氷上に立てば、この衣装がいっそう妖精のような幻影を生むのだろう――
そう思うと、期待と不安が入り混じった胸の鼓動が高まっていくのを感じるのだった。
開場前のリンクで少しウォーミングアップをする。
氷の上に立った瞬間、足がすくむ……はずが、体質による“自動最適化”があっさりとバランスを整えてくれた。
「わあ……!」
片足を滑らせてみると、するすると自然に滑れる。手の伸ばし方、背筋の反らし方、どれも身体が勝手に美しい形を作っている。
「すごい! ひかりお姉ちゃん、めっちゃサマになってる!」
「う、うん……まるで身体が教えてくれてるみたい。これなら……イケる?」
ゆっくりとリンクを滑り、スピンを試してみる。
くるりと回転すると、衣装のフリルがふわっと舞い、柔らかい光を放つ。
かなたちゃんとまどかちゃんから歓声があがった。
しかし、勢いをつけてジャンプしようとすると、途端に難易度が跳ね上がる。
「……やっぱりアクセルジャンプとかは無理だよね」
高く飛んで回転する――そんな高度な技術は体質だけではカバーできないらしい。
改めて「見た目」と「中身」の差に、少し切なさを感じながら、ぼくはリンクを後にした。
大会が始まり、初心者やアマチュア選手たちが次々と演技を披露していく。
ぼくの出番が近づくにつれて、緊張で胸が高鳴る。
だけど、あの衣装をまとい、氷に立つと、自然と背筋が伸びて笑みがこぼれてしまう。
(いける、ぼくなら……!)
音楽が鳴り始め、ゆっくりと滑り出す。
身体は軽やかに、氷の上を踊るように回る。
難しいジャンプは入れず、スピンも比較的シンプルなものだけ。
それでも、衣装のフリルがふわりと舞い、まるで妖精がくるくる踊っているかのよう。
にこやかな表情も自然に出てしまう。
「かわいい……!」
観客席から、思わず感嘆の声が漏れる。
さらにステップの合間に軽く手を振ると、拍手と歓声が一段と大きくなった。
「ひかりお姉ちゃん! 氷の妖精みたい!」
「ひかりさん! 美しいですわ!」
スタンドにいるかなたちゃんとまどかちゃんが、全力で声援を送ってくれているのが見える。
胸にじんと温かいものがこみ上げてきて、笑顔のまま演技を終えた。
結果は、初心者歓迎部門の予選通過。
表現力や所作、そして“かわいらしさ”が高く評価され、無事に本選への切符を得た。
控室でほっと一息ついていると、場内アナウンスが耳に入る。
「続いての選手は……エントリー名:あきら、です」
リンクへ目をやると、そこに姿を現したのは漆黒の衣装をまとった美しいスケーター。
黒いジャケットにきらめくラインストーンが散りばめられ、まるで“黒い王子”のような雰囲気を放っている。
「……誰? プロスケーターみたいな雰囲気だけど、見たことない……」
「ほんとにアマチュア?」
会場がざわつくなか、あきらは無表情のままリンクの中央へ。
音楽がかかり出すや否や、圧倒的なスピードで滑り出した。
その滑りは初心者の域を遥かに超えている。
ジャンプの高さ、スピンの軸の正確さ――すべてが完璧。
余裕すら感じられる演技に、観客は息を飲む。
そして、あきらが最後のポーズを決めると、一瞬の静寂のあと、割れんばかりの拍手と歓声がリンクに響き渡った。
「すごい……」
思わず立ち上がってしまう。あんな滑り、公式のアマチュア大会でも見たことがない。
――その時、なぜかぼくの胸がざわつく。
あきらが回転を止めたポジションから、ちらりとこちらを見ている気がして、背筋がぞくりとした。
あの目、あのときのお守りの!
巫女さんのときに訪ねてきた人物を思い出す。まさか、ぼくのエントリーに合わせてきた?
「ごめん、やっぱり棄権しよう。あの人がいるなら、目立ちすぎるとまずい気がするし……」
本選に進む意味合いを見失いかけて、こっそり帰ろうと控室を出る。
しかし、そこで黒いジャケットを身にまとったあきらと鉢合わせしてしまった。
「……!」
あきらくん、と呼べばいいのだろうか。
背が高く、顔立ちは中性的だが、どこか妖艶な雰囲気を纏っている。
そして、その視線はまっすぐぼくを捉えて離さない。
「……君も、”完成形”なのかい?」
低く穏やかな声。けれど、その響きの奥に、どこか試すような色が滲んでいる。
何かを見定めるように、あきらくんはじっとぼくを見つめていた。
――完成形? どういうこと?
その問いを口にする前に、あきらくんはスッと距離を詰める。
氷の上を滑るように、なめらかな動きだった。
そして、気づいたときには―― 顎を、すっと指で持ち上げられていた。
「……な、なにを!?」
心臓が、ドクンと大きく跳ねる。
指先は驚くほど優しく、それでいて迷いがなかった。
視線がぶつかる。あまりに近すぎて、瞳の奥まで覗き込まれている気がする。
逃げようと思えば逃げられる。でも、なぜか身体が固まったように動かない。
それどころか、呼吸まで浅くなっていく。
(え、待って……この流れ、もしかして……キス、されちゃう……?)
唇が触れる――そんな予感がして、思わず瞳を閉じる。
数秒の沈黙。
……けれど、何も起こらなかった。
代わりに、頬にふっと冷たい風がかかる。
「……いや、違う」
あきらくんの声が、ひどく静かに落ちる。
そっと顎を離し、一歩、距離を取る。
そして、まるで何かを悟ったように、かすかにかぶりを振る。
「少し近いけど……違う」
まるで、期待していた答えと違っていたかのような――そんな、どこか切ない響きを帯びていた。
そうして、あきらくんはくるりと踵を返し、何も言わずに去っていく。
ただ、その背中には、確かにほんの一瞬だけ、「失望」 が滲んでいた気がした。
「な、なんだったんだろう……」
胸がドキドキして、頭が混乱している。たった数秒の出来事が、まるで長い夢を見ていたように感じられた。
衣装を脱ぐと、見慣れた男の姿に戻った。
同時に、心が少し落ち着いていくのがわかる。思わずぼくはほっとした。
さっきの光景はあまりに刺激が強すぎて、本当に元に戻れるのか?とすら疑ってしまったくらいだから。
「ねえ、今の人、いったい何者……?」
戻ってきたぼくを見て、かなたちゃんが心配そうに顔を覗き込む。
「SNS見て! これ……!」
「え……?」
画面には、スケートリンクの美しい写真と共に、トレンドワードが並んでいる。
#氷上の妖精 #黒衣の王子 #世紀の対決
「対決……? いや、ぼく、そんなつもりじゃ……」
「でも、みんなそう思ってるよ! ほら、『氷上の妖精と黒衣の王子、どっちが好き?』ってアンケートまである!」
画面には黒い衣装をまとい、見事なジャンプを決めるあきらくんの動画がすでに拡散されている。
いや、対決なんて、そんな舞台にすら上がっていない。明らかに、ぼくはあんな風にはなれない。
「服に着られて変身するのは間違いない。やっぱりぼくらと同じ体質なんだと思う」
お守りを買いに来たときの彼は、今回の見た目、身体つきからして全然違ったから。
「服に着られて、女→男とかの可能性もあるかもだけど……」
先ほどのあきらくんを思い出してみる。
「でもなんて言うか、そういうものを”超越”してるみたいだった」
あきらくんが発した「完成形」という言葉。
そして「少し近いけど」という、まるでぼくを試すような評価。
心がざわつく。確かに、ぼくの体質はかなたちゃんたちよりも”着られやすい”けど、完璧じゃない。
神楽のときにも失敗したし、フィギュアのジャンプも決められない。
――でも、もしあきらくんが“この体質の最終形態”だとしたら? 果たして、そこにはどんな世界が広がっているのか。
まさか、男→女とか、女→男とか、そんなことすらも些細なこと?
考えれば考えるほど、頭がぐるぐるする。
「……このままじゃダメだ。あきらくんのこと、そしてぼく自身の体質のこと、きちんと調べなきゃ」
思い切って言葉にしてみる。
服に“着られる”だけの人生じゃなくて、自分の意思で、この体質を理解したい。
それに、前に診てもらったお医者さんが言ってた、「最先端の研究所」のことも気になる。
……もしかしたら、あそこでなら、あきらくんのことがわかるかもしれない。
あきらくんの悲しそうな目が、どうしても胸に引っかかるから――。
「研究所、行こう。体質のこと、もっと詳しく調べないと」
ぼくの決意に、かなたちゃんは少し驚いたように目を丸くするが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「うん、わたしも協力するよ。わたしたち、このままじゃ分からないことばっかりだもんね」
まどかちゃんも「もちろんわたくしもお力添えしますわ!」と乗り気だ。
あの日、あきらくんが残していった「君も完成形なのかい?」という言葉――ぼくの中に火をつけた疑問を解くために、次なる一歩を踏み出す。
あの悲しそうな瞳と、あの顎に触れた感触の余韻が残っている。
この先どうなるんだろう? どこへ導かれてしまうんだろう?
まだ混乱している心を抱えながら、ぼくはリンクを後にする。
――その足は、まるで次のステージへと駆けだすことを促されているかのように、弾んでいた。
読んでいただき本当にありがとうございます!
今回のひかりちゃんの衣装、書いていてとても気に入っています。
ついに、物語が大きく動き始めます!