24 「わたし」という思い込みーー完成形の決断
わたし、星野かなたは、いつもどおり店内で接客をしていた。
ちりん――。
穏やかな音を立てて、『Cafe Catalyst』のドアベルが鳴る。
「おつかれさまでーす! あ、かなたちゃん!」
ひかりお姉ちゃんがふわりと軽やかなスカートを揺らし、明るい笑顔で店に入ってくる。
今日もかわいい服装がよく似合っていて、まるでカフェの雰囲気まで明るくなったみたい。
「あ、ひかりお姉ちゃん、おはよう……」
私は小さく手を振り返す。
「かなたちゃん、今日もがんばろうね!」
いつもと変わらない元気いっぱいな挨拶。そんな変わらない日常が心地よいはずなのに、今日はなぜだか胸の奥が少しざわついていた。
――なんだろう、この感じ……。
「いらっしゃいませ〜」
「5番テーブル、ブレンドコーヒー入りました♪」
ひかりお姉ちゃんの透き通るような甘い声が、店内の空気をやわらかく揺らす。
(まるで、ずっと前からそうだったみたい……)
自然で、楽しそうで、迷いがまったくない――最近のひかりお姉ちゃんは、ごく当たり前のように『女の子』として接客している。
それだけじゃない。最近はもっと――
「え? わたしと写真? いいですよ〜……あ、かわいい♪ またバズっちゃうかも」
自分に向けられる注目さえ楽しむように、以前より明るく、華やかになっていた。
(……ひかりお姉ちゃん、ちょっと変わっちゃったよね。)
胸の奥に小さな寂しさが浮かんで、わたしはそっと口を開く。
「ひかりお姉ちゃん、あのさ……」
思い切って話しかけてみると、彼女はいつもの笑顔で振り返った。
「かなたちゃん、どうしたの?」
その優しい瞳を見ているうちに、言おうとした言葉が喉の奥でつかえてしまう。
「……ううん、なんでもない」
――ほんとに、ひかりお姉ちゃんなの?
そんなこと、言えない……
すると、ひかりお姉ちゃんは突然なにかを思いついたように瞳をきらりと輝かせ、明るい声で言った。
「そうだ! 今度また一緒に遊びに行こ! 映えるスイーツのお店があるんだ〜!」
「……っ!」
まただ。『バズ』『映え』『フォロワー』――最近のひかりお姉ちゃんは、口を開けばそんな言葉ばかり。
昔は、もっと別の話をしていたはずなのに。
「う、うん……楽しみだね」
わたしは思わず微笑みをつくり、話を合わせてしまう。
――どうか、この笑顔がぎこちなくありませんように。
そんな願いを心の奥で呟きながら。
「みなさま、ご機嫌よう〜♪」
軽やかな足音と共に、まどかちゃんが明るい挨拶をして出勤してくる。
このカフェに通っているうちに、彼女はすっかりバイトとして馴染んでしまっていた。
「かなたさん、ひかりさん、今日もかわいいですわね」
まどかちゃんの明るく華やかな笑顔に、ひかりお姉ちゃんは自然に答える。
「えへへ、ありがとっ」
しかしその直後、まどかちゃんの表情がふと神妙なものに変わった。
「でも……今日も“女の子”なんですのね?」
その一言に、わたしの胸がざわつく。
最近、ひかりお姉ちゃんは、前よりもずっと多く『女の子』の姿でいる。
けれど、それ以上に気になってしまうことがある。
「え? どういうこと?」
ひかりお姉ちゃんはまるで言葉の意味が分からないように、不思議そうな瞳をまどかちゃんへ向けている。
まるで、もう『男の子』だった頃を忘れてしまったかのように――。
その無邪気な様子が、わたしには怖かった。
「ひかりさん、いつもは女の子になるのに抵抗あるはずでしたのに……」
そう話していると、つむぎさんが話に入ってくる。
「確かに、ひかりくん、最近ずっと女の子のまま出勤してそのまま帰る感じだよね」
そこまでなの……? わたしの背中に、冷たいものが走る。
「もしかして、何かあった?」とつむぎさんが心配そうに言う。
でも、ひかりお姉ちゃんから出てくる言葉は、わたしの悪い予感を確かに膨らませる。
「え? わたしはわたしだよ?」
その言葉に、残りの二人も何かを察したようだった。
「あ、お客さんが呼んでる! はーい、お待ちくださいね」
ひかりお姉ちゃんは、気付いていないのか、それとも避けているのか、明るい笑顔のまま接客に戻ってしまった。
増えてきたお客さんを見て、わたしもすぐに接客に戻らないといけないことを思い出す。
その時、まどかちゃんと目があった気がした。きっと、同じことを考えていると思う。
お客さんがまばらになった頃、まどかちゃんが意を決したように問いかける。
「ひかりさん、一つ聞きますね。『最後に男の子になった』のは、いつですの?」
――それは、わたしもずっと知りたかったことだ。
わたしは心のどこかで期待してしまう。「え? 毎日戻ってるよ」みたいな、そんな都合のいい答えを。
けれど、ひかりお姉ちゃんはきょとんとした顔で首をかしげるだけだった。
「え? どういうこと? それより、このカフェがね……」
「ひかりさん! わたくしは真剣なお話をしてますのよ」
まどかちゃんの強い口調に、ひかりお姉ちゃんは一瞬動揺した表情を見せる。
まるで、何かを思い出しかけたように――
「……っ! わ、わかんない……わたしは、ずっとわたしだよ? もう、ずっと……」
「……戻ってない、ということですのね?」
「ごめん、戻るってよくわかんない……何も変わってない……よ?」
最後の言葉は、自分自身に問いかけているみたいだった。
けれど――。
「じゃあ、休憩終わりそうだから行くね!」
ひかりお姉ちゃんは、何かを振り切るようにして去ってしまった。
彼女のもう一つの顔、「あまりん」は、いまや社会現象になりつつある。
日に日に増え続けるフォロワーが、ひかりお姉ちゃんをどんどんかわいく変えていく。
そしてそれは「あまりん」を肥大化させるばかりで――。
この甘いループはもう誰にも止められないのかもしれない。
(このままじゃ、ひかりお姉ちゃんは遠くへ行っちゃう……)
その絶望が、わたしの胸を確かに締め付けた。
ちりん、とベルの音。
入ってきた人影に、ひかりお姉ちゃんが嬉しそうに声を上げる。
「あきらくん!」
――L-LLMの完成形、あきらさん。
ひかりお姉ちゃんは慌てて髪を整えた。
その仕草ひとつで、あきらさんにはすべてが伝わってしまったようだった。
あきらさんは静かに席に着くと、周囲の視線を感じながら静かに問いかける。
「ひかりくん、それが、きみの選んだ道なのかな」
他には何の説明もいらない。ただその一言だけで。
ひかりお姉ちゃんの瞳が、微かに揺れた気がした。
「うん……わたしは、これが幸せだよ。やっと、わかったの。みんなに愛されて、ほんとうに幸せ」
その言葉に嘘は感じられなかった。
けれどあきらさんは、静かに言葉を重ねた。
「そっか。でも、その『みんな』に、ここの人たちはいるのかな」
ここの人――わたし、まどかちゃん、つむぎさん。そして、あきらさん。
でも本当は、ひかりお姉ちゃん自身が一番そこに含まれているのだと思う。
ひかりお姉ちゃんが大きく目を見開いた。
けれど、すぐに何かを振り払うように背を向ける。
「ご、ごめん。まだ勤務中だから、また後でね」
その声は、確かに震えていた。
カフェの奥のテーブル。
閉店間際。
わたしはまどかちゃん、あきらさんの三人と深刻な表情で向かい合っていた。
最初に沈黙を破ったのは、まどかちゃんだった。
「でも、おかしいですわ。ひかりさん、24時間女の子になってる気がして。もしかして、脱いでも戻らなくなったんですの?」
まどかちゃんの目には、不安と戸惑いがはっきりと浮かんでいる。
「まさかひかりさんは、あきらさんのような”完成形”……つまり、最後に着た服の性別で固定されてしまったんじゃ……」
あきらさんは首を振り、彼女の言葉を静かに否定した。
「いや、ひかりくんの体質そのものは基本的に変わっていないよ。そもそも、そんなに簡単に体質が劇的に変わることはないんだ」
コーヒーカップの縁を指先でなぞりながら、あきらさんは慎重に言葉を続ける。
「僕みたいな”完成形”は、生まれつきの突然変異だ。簡単に同じ状態にはならないよ」
わたしは、小声で問いかける。
「だったら……ひかりお姉ちゃんは、着替えたり、お風呂に入ったりする時に、一旦は男の子に戻れるはずじゃないの……?」
それは、確かに今までのひかりお姉ちゃんの姿だった。
服を脱げば、一度リセットされていた。
だけど、今は――
あきらさんはためらいながらも、答えを口にする。
「多分……ひかりくんの体質の過敏化と、『思い込み』が原因だろうね」
その言葉に、まどかちゃんが視線を向ける。
「思い込み、ですって?」
まどかちゃんが眉をひそめた。
あきらさんはコーヒーを一口飲み、言葉を選びながら慎重に続けた。
「ひかりくんは、もう女子の香りやリップ、小物ひとつでも簡単に女の子に変わってしまうほど、過敏になってる。それ自体、問題ではあるけど……」
伏し目がちに続ける。
「だけど彼が本当に自分を”男”だと認識しているなら、女の子の要素を排除すれば、その場では男の子に戻れるはずだ」
小さな声で、わたしはあきらさんの言葉を引き取った。
「……でも、今のひかりお姉ちゃんは……」
あきらさんはこちらを見て、静かに言った。
「きっと彼は、自分を『あまりん』だと完全に思い込んでしまっている」
まどかちゃんが息を呑んだ。
あきらさんは穏やかに、けれど鋭く問いかけた。
「まどかくん、『かわいい女の子・あまりん』の部屋を想像してみて。どんな感じだと思う?」
まどかちゃんは一瞬きょとんとしたが、すぐに理解した様子で目を見開く。
「それは……部屋の中は女の子らしいいい香りがするでしょうし、お風呂の時はヘアゴムを使って髪をまとめるでしょうし……もちろんシャンプーやケア用品も女の子用を選びますわ」
自分の言葉に、まどかちゃん自身がハッとした表情を浮かべる。
「あっ、つまり……!」
あきらさんは頷き、まどかちゃんの言葉を引き継いだ。
「そう、つまり彼の生活から『男を感じる瞬間』が全く消えてしまったということだ」
思わず、わたしは小さな拳をぎゅっと握ってしまう。
「そんな……。それって、ひかりお姉ちゃんはもう男の子には戻れないってこと?」
わたしの声には、静かな絶望が滲んでいたかもしれない。
まるで、自分自身の姿を思い出す機会が、すべて奪われてしまったかのように。
あきらさんは視線を落としながら、慎重に言葉を紡ぐ。
「今のひかりくんの思い込みの強さを考えると……難しいだろうね」
まどかちゃんが唇を噛み、悔しげにテーブルを叩いた。
「そんなの……納得できませんわ! ひかりさんは、服や周囲に振り回されながらも、自分をしっかり持って、誰かを幸せにできる人間だったのに……!」
まどかちゃんのその言葉に、わたしも深く頷いた。
「今のひかりお姉ちゃん、すごく無理してる気がするんだ。フォロワーとか、いいねとか……SNSの反応ばかりを気にして……」
それに、今日のひかりお姉ちゃんを見て、確信したこと。
「本当は、前のひかりお姉ちゃんの方が、ずっと楽しそうだったよ」
その言葉に、わたしたち三人の間に沈黙が訪れた。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく、店内に響いていた。
(わたしたちだけじゃ、難しいかもしれない。でも)
きっと、次に動くのは――あの人しかいない。
だから、この先を誰かが語るのなら、きっとそれはあきらさんだろう。
* * *
夕暮れの街は、柔らかなオレンジ色に包まれていた。
僕ーーあきらは、帰宅前のひかりくんを呼び止める。
「あきらくん、突然どうしたの?」
目の前のひかりくん――いや、今の彼女は完全に「あまりん」としての姿だった――が、小さく首を傾げて笑った。
けれど、その微笑みにはどこか脆さが滲んでいる。
僕は静かに問いかけた。
「ひかりくん、きみは、本当にこのままでいいの?」
ひかりくんは一瞬戸惑いを見せたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「どうって? わたしは、毎日楽しいよ? あ、そうだ、この間エゴサしたときね……」
あまりにも自然に、彼女は自分を「あまりん」として語り始める。その姿に胸が痛んだ。
「ひかりくん……本当にいいのかい? きみは僕を救ってくれたじゃないか。自分がわからなくなっていたとき、ずっとそばにいてくれた」
僕の言葉に、ひかりくんの瞳がかすかに揺れる。
「うん、覚えてるよ。でも、大丈夫だよ。毎日、本当に楽しいから」
それはきっと、嘘ではないのだろう。
けれど僕は、先ほどの光景を思い出していた。
「そうなんだね……でも、さっき話していたとき、どうしてあんなにつらそうだったんだい?」
その言葉に、ひかりくんの肩が微かに震えた。
「っ……そうかな? 気のせいだよ。わたしは、みんなのことが大好きだし、あきらくんだって、大切だし……みんなとの思い出も、忘れてないよ」
彼女の声が、次第に弱々しく震えていく。
その瞳に、静かに涙が溢れているのが見えた。
「ひかりくん、泣いてる?」
僕がそっと彼女の頬に触れると、指先に濡れた感触が広がった。
「……あれ?」
ひかりくん自身も、自分の頬を触れて驚いている。
「なんで……? 変だな……」
彼女は震える声でつぶやいた。
その表情には、自分でも理解できない感情に戸惑い、怯えるような色が浮かんでいる。
自覚していないけれど、間違いなくひかりくんの心は助けを求めていた。
その微かな叫びが、僕には痛いほど伝わってくる。
彼女の瞳の奥で、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、本来の彼の姿が垣間見えたように感じた。
だが――その微かな希望は、すぐに掻き消えてしまう。
「もう、帰るね? ちょっと、疲れただけかも」
彼女は無理に笑顔を作り、ゆっくりと背を向けて歩き出した。夕焼けに染まる街へ、一人で。
その後ろ姿を見つめながら、僕は静かに呟いた。
「そっか……まだ、希望はあるかもしれない」
かつて絶望の中で、きみは僕に言ってくれたね。
『ぼくは……絶対にあきらくんを救う方法を探す』
今度は僕の番だ。
僕はこの体質の“完成形”。僕が望んだ未来は、絶対に変えられる。
いや、絶対に変えてみせる。
だから、待ってて。
必ずきみを、もう一度取り戻してみせるから。
あまりん フォロワー数 20210→53290
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ひかりくんの最後の涙は。あきらくんは、みんなは日常を取り戻せるのか。
次回をお楽しみに!
 




