僕だけがいない家族
「もう八時か」
玄関を開ける前に、腕時計を確認て、玄関を開けた。
「ただいま」そう言いながら靴を脱ぎ廊下を歩いてリビングへと向かう。
「おかえりなさい。今日も夜までお疲れ様」
妻の逸美は台所から顔を少し出して言った。
どうやら子供たちと夕食を終え、皿を洗っているようだった。
孝文は、ネクタイを緩めながら
「最近、残業が多くて大変だよ」ため息交じりに呟く。
逸美は台所で作業を続けながら、また顔を出して微笑む。
「無理はしないでね、あなたは新井家の大黒柱なんですから」
「先にご飯にする?それならすぐに温めるよ?」
「先に風呂にするから、その後でいいよ」
孝文の勤めている会社は、工業製品を自社で製造している。
彼は、その製品の営業を担当している。
孝文は、最近会社から営業で、遠くまで行くことになっている。
その往復のせいで帰りがここのとこと遅くなっている。
「はぁ...」
お風呂に浸かり、今日の疲れをとる様にため息を吐き出した。
孝文には、妻と四人の子どもがいる。家族のため、そして去年建てた新築の家のローンのためだと思うと、仕方ない、頑張るしかないと思える。
特に去年、新築を建てたと同時に、四人目の子どもである誠也が生まれたことで、ますます仕事に力が入るようになった。
誠也は、孝文と逸美夫妻にとって五年ぶりの子どもだ。
長女の佳穂とは九つも年が離れている。
佳穂は、まるで母親のように誠也の面倒を見てくれている。
ている。
風呂から上がると、テーブルには夕食が用意されていた。
それを見て孝文は子どもたちの方を眺める。
長男の真一は「姉ちゃん、次、俺に誠也を抱っこさせてくれよ」
二人は、弟を抱っこする順番を巡って取り合いをしている。
真一は佳穂の一つ下だ。
三男の雅人は眠そうにソファでうとうとしていた。
孝文は、こんな幸せな家庭で幸福を感じながら、そっと夕食を手にした。
しかし孝文には仕事に一つ不満があった。
彼の給料は決して少なくはない、むしろ、平均よりは多く貰っている方だ。
孝文の会社は、営業成績がいいと歩合制でその分給料に反映される。
不満というのは、その歩合制に対してだった。
孝文は営業が非常に得意で、会社でもトップの成績を誇っていた。
だからこそ、思うことがあった。
「どうして、こんなに売り上げ出してるのに...成績に対して歩合が少ないんだ?」
孝文はそのことが気にかかっていた。
こう考えるようになってから、「自分で独立してやった方がいいのではないか?」
なんて思うようになっていた。
そう思い始めてから、その考えが孝文の心に引っかかるものがあった。
それから、孝文の行動は速かった。
逸美には、相談というよりも一方的に決意を伝えただけだった。
そして会社には、辞表を提出した。
この話を逸美にしたときあまり肯定的ではなかった。
「もし、上手くいかなで失敗したらどうするのよ?」
「家のローンも子どもたちもいるのに...」
と、不安を抱いていた。
しかし、孝文自身は成功してサラリーマンで営業するより稼げる自身があった。
それは、自画自賛にはなるが、営業には自信があったからだ。
まだ一歳の誠也を抱っこして、「成功させるぞ!」と改めて決意を決める。
この子たちの為にも失敗は許されない。
それから、孝文の行動は、速かった。
今までの仕事で培った人脈と信頼があり、以前勤めていた会社や顧客とも良好な関係を築いていたので、商品の取引と販売の目途は立っていた。ここまでは順調なスタートを切ることができた。
しかし、問題があった、孝文の営業能力は確かなものだったが、それ以外があまりに出来なかったことだ。
物を売るだけ売って、終わりとはいかなかった、時には不備があり、お客からのクレームがくることもあった。
しかし、一人で切り盛りしていた孝文は、数件のクレームに迅速に対応できず、徐々にお客からの信頼を失い始めていた。
それに伴い、孝文は仕事に対して余裕がなくなり、精神的にも追い詰められていった。
余裕を失った孝文は、次第に営業する気力も失い、お酒に逃げるようになっていた。
営業をしなくなれば、当然のことながら収入も途絶える。
そんな孝文の姿を見続けていた逸美は、ついに我慢の限界に達した。
「あなた、今は貯金でどうにかしてるけど、このままじゃどうするつもりなの?」
逸美は怒りを抑えきれず、強い口調で問い詰めた。
孝文は、仕事が思うようにいかない苛立ちもあって、
「うるさい!お前は黙ってろ!」
と、怒りをぶつけるように返した。
月日が経つにつれ、孝文の苛立ちはますます増し、その怒りは逸美だけでなく、ついには子どもたちにも向けられるようになっていった。
孝文は次第に仕事をしなくなり、ついには貯金も底をつき始めた。
まだ幼い誠也がいるため、逸美は外で働くことができなかったが、このままでは家庭が立ち行かなくなると焦りを感じ、パートを始めることに決めた。
「このままでは、生活費も家のローンも年金も税金も払えない」
「孝文がこんな状態では、少しでも私が稼がなければ…」
逸美の心には、焦りと不安が渦巻いていた。特に誠也はまだ幼く、佳穂に面倒を任せて自分が働くことにした。
それでも、孝文は相変わらずお酒に溺れ、ますますダメになっていくばかりだった。
逸美が仕事をするにしても、誠也以外の子どもたちは学校に通っている。そのため、佳穂が家に帰ってくるまで、逸美は家を空けることができず、結果として夜勤の仕事に就くことになった。
しかし、夜に逸美が家にいないことに不満を持った孝文は、
「子どもたちの育児はしないのか?」
と怒鳴りつけた。
それを聞いた逸美は、呆れて反論した。
「あなたがまともに仕事をしないせいで、こんなことになってるのよ!」
「そもそも、昼間家にいるなら、誠也の面倒くらい見てよ!」
「俺には仕事があるんだよ!」
「仕事があるって?昼間から酒を飲んでるのに、それが仕事ですって?」
「お客から電話が来たと思ったら、クレームばかり。その対応だって、全部私がしてるのよ!なんで私が謝らなきゃいけないのよ!」
孝文は、逸美の言葉にカッとなったが、反論することができなかった。彼自身も自分が怠けていることは分かっていた。しかし、現実を直視することができず、ただ怒りに任せて声を荒げた。
「うるさい!俺だって色々考えてるんだ!」
「考えてる?何を考えてるの?ただ酒を飲んで現実から逃げてるだけじゃない!」
逸美の鋭い言葉に、孝文は一瞬沈黙した。頭の中では反論を考えていたが、何も出てこなかった。ふと、部屋の隅で子どもたちが不安そうにこちらを見ていることに気づいた。
「…もういい。俺は外に行く。」そう言い残して、孝文は家を飛び出した。
こんな日々が続き、逸美は夜勤の仕事もしている為、精神的にも肉体的にも疲れ切っていた。
しかし精神的にも肉体的にも疲れていたのは、逸美だけではなかった。
佳穂も学校と誠也の面倒、そして夜には、電話にでては、父のお客方の怒涛の罵声を浴びせられていた。
それは、佳穂が少し大人びた口調だったのもあるのか、父の妻だと勘違いされたことも一因だった。
父は、外に出かけたと思ったらお酒を飲みに行き、夜に帰ってきては、せっかく寝付かせた誠也を起こして
「せいや、お父さんですよ~」なんていって、父親らしい顔をしていた。
「せっかく、寝かしつけたのに毎回起こさないでよ!」
「うるさい!おまえは黙ってろ!」
佳穂には、もうこの生活に限界が来ていた。
泣きながら母の職場に連絡して
「私、もうこんな生活、もう無理...」
逸美は、それを聞きその日は仕事を早退し、家に帰宅した。
逸美も佳穂も限界が来ていた。
周囲には静かな絶望感が漂っている。逸美は佳穂の隣に座り、そっと肩を抱いた。
「ごめんね、佳穂。本当にごめんね…」
逸美の声は震えていた。母親として家族を守るつもりだったが、自分も限界を感じていた。佳穂は涙を拭いながら、小さな声で言った。
「もう、耐えられないよ、お母さん。お父さんが変わらないなら、私たち、このままでいいの…?」
逸美も、何度も考えていたことだった。孝文は日に日に酒に溺れ、家庭への関心は失われ、家族に負担をかけるばかりだ。このままでは、家族全員が壊れてしまう。
その夜、逸美は決意を固めた。翌朝、逸美は孝文と話すために彼をリビングに呼び出した。佳穂は部屋に引きこもり、孝文はやや不機嫌そうにリビングの椅子に座った。
「孝文、もう限界よ。私も、佳穂も…あなたがこのままなら、私たちはこの家を出る。」
孝文は無言だった。
逸美は続けた言った。
「せめて、何もしないのなら、別れて...
それで母子手当がでるの」
「わかった。」
離婚までは速かった。
家は、売り払い、引っ越しの前日には別れの言葉も無しに、孝文は一人そそくさと実家へ帰っていた。
私たちは、小さいアパートへ引っ越した。
母子手当があったとはいえ、それだけでは暮らしていけなかった。
だから、逸美も生活のことで必死だった。
「ごめん、お母さんお仕事しないといけないから
誠也の面倒を見てくれない?高校には行かないで...」
逸美は申し訳なさそうに佳穂にお願いした。
佳穂は何も言わずに、それを受け入れてくれた。
長男の真一も高校には進学せず中学卒業後、土木系の仕事をしていた。
しかし、真一は仕事が長続きせず、いわゆる不良になり、悪い友達と関わるようになっていった。
けれど、逸美は家庭のことで手一杯で、真一に気を配る余裕がなかった。
これが後に後悔することになるとも知らずに...。
母子手当と言っても、五万五千円だ。
内訳としては、最初の一人が四万円でそれ以降は一人につき五千円だった。
この手当は家賃でほとんど消え、残りの生活費は自分で稼がなければならなかった。
誠也が小学1年生になった時、佳穂もアルバイトをして家庭を助けてくれた。
それでも、生活は楽ではなかった。
真一はほとんど家に帰ってこなかったし、小学生の誠也や雅人にはまだまだお金がかかる年頃だった。それに、生活費を逸美と佳穂の二人で賄うのは大変だった。
そこで、逸美はやっぱり生活に困窮したため、自分の母へと相談してみることにした。
逸美の父は数年前に病に倒れいまは、母親の家には、逸美の兄夫妻とその二人の息子が暮らしていた。
「ごめんお母さん...少しお金の面で助けてほしいの...。」
そういうと母の静子は言った
「だから、言ったでしょ。女手ひとつで四人も子供を育てるのは厳しいって、
だから、今からでも遅くないから、誠也は今の内に子どもの家にでもやりなさい!」
「誠也を見捨てろっていうの?それだけは、絶対に無理よ!」
そういって、逸美は自分が期待したことが馬鹿らしく思え、怒りながら家を出た。
逸美は、あまり連絡をしたくなかったが、ダメ元で孝文の実家へと連絡を取ってみた。
電話をかけて応答したのは義母だった。
「お久ぶりです。お義母さん。逸美です...。」
そういうと驚いた様子で義母はこう言った。
「お、俺は何も知らんぞ!」
「孝文の事ではなくて...その、生活費が苦しくて、少し助けてくれませんか?」
逸美は申し訳なさそうに頼んだ。
「お金は、こっちも余裕がないから無理ぞ!」
とバッサリと断られた。
さらに、
「誠也はまだ小さいからどこかに養子にでも上げたらどうや?」
と言われ、
「それだけは、絶対にしません!」
といい電話を切った。
どうして...
二人とも孫の誠也を見捨てるの?
怒りよりも悲しさが逸美の心を深く傷つけた。
逸美は、誠也を連れて二人で、下に海が見える崖のところまで来ていた。
誠也は、その絶景を見てかすごく興奮してるみたいだった。
しかし逸美は、この景色を見に来たつもりでは無かった。
ただ勝手に体がここまで来たというべきだろうか。
「あぁ、このままいっそここから誠也と心中したらどれだけ楽だろう...」
こんな事を考えてしまうほど、逸美の心は疲れ切っていた。
無邪気に笑う誠也を見ても、そう思わずにはいられなかった。
何、馬鹿な事を考えてるんだと思い自分に呆れてため息さえでた。
誠也が小学二年生になり、雅人が中学生になって、まだまだ生活は苦しい中
真一が急に
「俺、この町にもういられない、もう出ていく」
と言い出し、気付いた時には急に違う場所へと出ていった。
どうやら、地元の友達と仲が悪くなったみたいで、この家庭で、
自分には帰る場所がないと思ったのだろう。真一はこれ以降一回も帰ってくることは無かった。
佳穂は、その数か月後、バイト先の人と結婚し、家を出ていくこととなった、
家族はあっという間に、三人家族となった。
子ども二人でやっと生活がギリギリ成り立つ程度になり、逸美は仕事に追われる日々を過ごしていた。
気がつけば、雅人が中学を卒業する時期になっていた。
逸美は「お金のことは気にせず、高校に行っていい」と言ったが、雅人はそれを聞かず、すぐに建設関係の仕事に就いた。
幸いなことに、雅人は家にお金を入れてくれるようになったので、少なくとも誠也には苦労をかけずに生活させることができた。
そのおかげで、逸美は数年ぶりにやっと一息つけたような気がした。
逸美は、心に少し余裕ができると、考えることがある。
誠也以外には、「私と孝文の関係のせいでまともに学校にやれなくて本当に申し訳ない」と。
幸いにも、長女の佳穂は結婚し、子どももできて、幸せそうな家庭を築いてくれたことに嬉しさを感じると同時に、佳穂の夫には、感謝しかない。
そして心に引っかかるのは、真一の事だ。
あれから一度も帰ってくるどころか、一度も連絡がこない。
今どこにいて、何をしているのか、本当にわからない。
もっと真一に寄り添ってあげていたら、こんなことにはならなかったのではないか、とどうしても自分を責めてしまう。
たとえ過去に戻れたとしても、あの時の自分に真一に寄り添う余裕があったかどうか、自信はないのだが...。
雅人は高校には進学しなかったが、自分で仕事を見つけ、本来ならもう自立できるほどには給料をもらっているだろう。
それでも家に残って家計を助けてくれていることに、すごく感謝している。
あとは、まだ小学生の誠也が無事に高校まで進学してくれれば、一安心だ。
誠也には、相変わらず貧しい生活ではあったものの、他の兄弟のような苦労をさせずに育てることができたと思う。
誠也は順調に中学を卒業し、無事に高校も卒業した。それも、誠也は自分でアルバイトをしながら学費を払っての卒業だった。
誠也は新卒で地元では有名な大手に就職してくれて、本当にうれしく思っている。
今は誠也が就職してから、雅人も安心したのか、一人暮らしを始めた。
誠也が幼い頃の記憶といえば、なんとなく家族がバタバタしている感じだった。
気づけば、父も、真一も、姉も家を出て行き、小学校低学年の頃には三人家族になっていた。
誠也はよく、母や兄から昔のことを聞かされたが、正直自分にはあまり興味がなかった。
何故なら父との記憶はあまりないし顔も思い出せないのだから。
真一も同じだ、自分の兄だというが、話した記憶すらない。
新井家はもともと六人家族だが、誠也には六人で過ごした記憶がない。
家族や親戚からは、「誠也は恵まれてよかったね」や「お前の兄弟たちは大変だったんだぞ」と言われるが、それが気に食わなかった。
誠也からしたら「そんなの知るか!」という気持だった。
確かに、過去の話を聞いて大変だったことは理解しているし、母が一生懸命働いていたことも知っている。
だからこそ、自分も頑張り、できるだけ給料の良いところに就職しようと考え、大手企業に就職したのだ。
それに母はもう高齢で、母と二人で暮らしている自分を褒めてもらいたいくらいだった。
母方の祖母には、自分が働いたお金でたまに会うときに一万円包んで渡していた。
誠也が就職して、二年程経った頃、葬儀屋に勤めている伯父の嫁からの話だと、
父方の祖父母が亡くなったという話が来たが、誰も葬儀には出なかった。
その話を聞いた時に、母が言っていたのだが「誠也はまだ小さいからどこかに養子にでも上げたらいい」と聞いて孫をそんな簡単に見捨てるか?と呆れていた。
その翌年、母方の祖母が亡くなった。
その時は、聞いただけで悲しかった、お通夜で祖母の顔を見た時は、自然に涙が出るほど悲しんだ。
そんな悲しみの中、親戚の誰かが言っていたのを耳に入れた。
「よかったな、誠也君を施設にいれなくて」
何の話かと聞いていたら、どうやら昔、母も逸美が家庭の相談をしたときに
誠也を児童養護施設に入れろ」と言われていたらしい。
それを聞いて、誠也の涙は祖母が亡くなった悲しみの涙ではなくなっていた。
「両祖母は、自分を新井家の重荷だとおもっていたんだ。」
と気づいた瞬間、涙は怒りと見捨てられたという悲しみのものに変わった。
だんだんと、怒りの方が強くなってきた。
母の兄夫妻とその息子の康太が祖母の家に住んでいたが、康太は大学を卒業してからずっと無職だった。
しかし、祖母の介護を理由に兄夫妻はそれを大目に見ていたらしい。
そんな康太は、祖母からよくお小遣いをもらっていたようだ。
自分が祖母に渡していたお金が、無職の康太のお小遣いになっていたのかと思うと腹立たしかった。
この中で悲しんでいないのは自分だけだろう。
同じ孫でも、こうも扱いが違うのかと感じた。
まるで、自分だけが苦労をせずに生活してきて、苦労なく学校もでて
今の大手企業へとでたと親戚の人たちはそう思っている。
「何も知らない癖に」と
葬式や火葬中一人、心の中でイライラしていた。
葬儀が終わり、誠也は心の中に重いものを抱えたまま日常へ戻った。祖母の言葉や親戚たちの反応が頭から離れなかったが、怒りの感情が次第に薄れていく中で、誠也は自分の人生をどう進めるべきかを考えるようになった。
仕事は順調で、大手企業でのキャリアも軌道に乗っていた。収入も安定し、母との生活も少しずつ楽になっていった。しかし、心のどこかで「このままでいいのか?」という思いが日に日に強くなっていった。
そんなある日、誠也はふと母に「これからどうしたい?」と聞いた。母はしばらく考えた後、「私はもう年だし、誠也が幸せに暮らしてくれれば、それで十分だよ」と答えた。その言葉を聞いた瞬間、誠也は少しだけ心が軽くなった気がした。母が自分のことを心配していないわけではないのは分かっていた。
母だけは、自分を見捨てなかったのだから。
母は祖母が亡くなってからというもの、体がだんだんと弱まってきていた。
だから、体がまだ動ける内に恩返しをしたかった。
今まで自分の時間を犠牲にして育ててくれたのだから。
だから、不意に言った。
「母さん、今まで僕のためにたくさんのことをしてくれて本当に感謝している。でも、母さん自身のことはどう考えてる?何かやりたいことや、夢があるんじゃないかって思って...。」
逸美は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。
「誠也、ありがとう。でも、私はあなたたちを育てることが私の幸せだったんだよ。あなたがこうして立派に育ってくれたこと、それだけで十分だと思っているよ。」
そうは言うものの、誠也はその言葉の裏に、まだ逸美が自分のためにやりたいことがあるのではないかと感じた。
しかし誠也自身には、それ以上のことは分からなかった。
ある日、逸美が体調を崩し、病院で診察を受けたところ、医師から「老衰による体力の低下」であると告げられた。特別な治療はなく、ただ穏やかに過ごすことが最善とされた。誠也はその事実を受け止めながらも、できるだけ母が苦しくないようにと、献身的に看病を続けた。
そんなある夜、逸美がベッドで静かに横になっていた時、誠也はその側で彼女の手を握りしめた。母は息子の顔をじっと見つめ、微笑んで言った。
「誠也、今まで本当にありがとう。私は、あなたが幸せになってくれて、こんなにも嬉しいことはないわ。」
誠也は涙をこらえながら、「母さん、僕こそ感謝してるよ。母さんがいてくれたから、僕はここまで来れたんだ。」と答えた。逸美は弱々しい手で誠也の手を握り返し、言葉を続けた。
「もう、私の役目は終わったのかもしれない。あとは、幸せに生きてくれれば、それで十分よ。」
その夜、逸美は静かに息を引き取った。母が亡くなった瞬間、誠也は心にぽっかりと穴が空いたような感覚を覚えた。自分をずっと支えてくれていた存在が、この世からいなくなったという現実が、重くのしかかってきた。涙が止まらず、誠也は母の冷たくなった手を握りながら、ただ泣き続けた。
本当の悲しみの涙を流しながら。
それから数日が過ぎた。葬儀も終わり、静けさが家に戻ってきたが、誠也の心にはその静けさが重くのしかかっていた。
毎日の生活は変わらず流れていくが、母のいない日々に誠也は少しずつ慣れていくしかなかった。
ある夜、誠也は母の古いアルバムを引っ張り出し、ページをめくっていた。そこには、自分が幼い頃の写真や、家族の思い出が詰まっていた。しかし家族六人で写った写真はなかった。
ふと、真一と母が一緒に写った写真が目に留まる。二人の笑顔が写るその写真を見つめながら、誠也は母の思いが再び胸に刺さった。
そして、母の本当にやり残したことは、これじゃないかとわっかたきがた。
「やっぱり、母さんは真一に会いたかったんだろうな...」
しかし、連絡先も分からなけば生きているかもわからない存在だ。
だが、母が生きている間に無駄になってもいいから、探しておけばよかったと、
誠也の心には後悔だけが残った。