最期の晩餐(2)
春の風は生ぬるく、眠気を誘っていた。仕事は順調だったが、イマイチやる気が出ないのは、この気候のせいだろうか。
仕事部屋でパソコンに向かっていたが煮詰まってきた。少し散歩に出かける事に決めた。
「さくちゃん、出かけるの?」
「ちょっとな。少し散歩して出かけるわ」
今日は美玖のパートは休みで、キッチンでシフォンケーキを作っていた。まだ焼く前でいい匂いはしていないが、出かける前に美玖には報告し、家を出た。
今日は日差しが強い。帽子持って来たのは、正解だった。近所の桜並木は、もうほとんど花びらも散り、綺麗な葉っぱを見せていた。深緑の時期も近いだろう。
「先生!」
背後から声がして振り向くと、弥生がいた。一時期はストーキング行為をし、死のうとしていた弥生だったが、すっかり元気そうだった。髪も切ったせいか、昔より快活な雰囲気も生まれていた。
「久しぶり。どうだ、最近は」
「ええ。今はあんな男は忘れました。実は別の二人から告白されていまして」
「モテ期か!?」
「そうなりますね」
顔を真っ赤にしてはにかむ弥生は、もう二度とストーキングなどもしないだろう。朔太郎も安堵してしまうが。
しばらく駅の方まで一緒に歩く事になった。モテ期の今を語る弥生は、楽しそうだ。やはり、あんな男など忘れて正解だっただろう。
「そういえば、最近スーパーでクレーマーをよく見るんですよね」
前方にスーパーの建物が見えてきたところ、弥生が何か思い出していた。
「なんか毎日レトルトカレー買ってるみたい」
弥生の目から見ても、クレーマーの存在は異質に見えるようだった。
「近所でも有名人です。奥さん死んじゃった時からそうみたい」
「え? 奥さん死んだって? 離婚じゃないのか?」
美玖の話では、そう聞いていた。もっとも噂の段階の話だったので、間違いはあるだろう。弥生は例のクレーマー・黒崎敬の近所に住んでいる事もあり、詳しく事情を知っているようだった。
「突然死だったみたい。予防接種のあの注射のせいって噂もあるけど、因果関係不明なんだって。余計に黒崎さん、イライラしてスーパーでクレーマーやってるんじゃないのかな。嫌だね、孤独な人って。じゃあ、私は午後からバイトなので」
弥生はそう言い残すと、駅の方へ小走りに行ってしまっった。朔太郎は一人、残された。
弥生から聞いた話は、初めて聞くものばかりだった。おそらく弥生の情報が正確だろう。
それにしても。離婚ではなく、妻を亡くしていたとは。
美玖から聞くクレーマー・栗崎の話は良い印象ではなかったが、こんな話を聞いてしまうと、一方的に批判する気持ちにもなれない。
もし、自分が黒崎と同じ立場だったら?
料理なんてする気持ちになれないだろう。さすがにクレーマーにはならないだろうが、何か八つ当たりはしてしまうかもしれない。
それだけ、朔太郎にとっては美玖は大事な存在だった。美玖でしか埋められない心の隙間もある。
もし、美玖が先に亡くなったら……。
ものすごく遠い未来でもない。朔太郎が先になくなる可能性だってあるが、足がすくむ思いだった。
今まではこんな事は考えないようにしていた。遠い未来だと思っていたが、この歳になれば、非現実な悪夢でもない。自分と同年代の黒崎が、同じ状況に立っていると思うと、全く他人事でもない。
「そうか。俺はそれぐらい美玖のことを愛していたんだな」
若い頃は死にたいと思った事もあったが、今は違う。
再び春の生ぬるい風が吹く。朔太郎の灰色の髪の毛を揺らしていたが、今は全く眠くない。むしろ、目が冴えてしまっていた。




