菜の花サンドイッチの教訓(3)
三時のおやつ。今日は、ダイニングテーブルではなく、窓辺で日向ぼっこをしながら、コーヒーや菓子を楽しむ事になった。百均で売っている小さなテーブルの上にコーヒーやお菓子を置いていたが、これで十分だろう。お菓子はパウンドケーキだけでなく、飯島が作ったあのアイシングクッキーも並べられていて、何とも言えないほのぼの感が漂う。
窓の外からは、近所の桜並木も見える。もう桜の花びらはだいぶ散ってはいたが、これも花見の一種かもしれない。もっとも美玖は、花より団子で、パウンドケーキをもぐもぐと食べていたが。
コーヒーのほろ苦い香りが漂う。窓辺でダラダラと座り、こんな風のお茶しているのは、少々だらしないが、春だから良いだろう。
春眠暁を覚えず。コーヒーのカフェインが無ければ、心地良すぎて眠ってしまいそうだ。リラックスし過ぎてしまったよう。
「パウンドケーキ、美味しいな」
朔太郎もパウンドケーキを食べながら呟く。リベンジとして成功させていたパウンドケーキは、しっとりと柔らかく、表面は綺麗なキツネ色だ。甘みもちょうど良く、口の中でコーヒーの苦味とベストマッチだ。もっとも美玖は、最近ご近所で菜の花を大量にいただいてしまい、その処理で頭を悩ませているようだが。
『パウンドケーキは上手く焼けたけど、今度は菜の花! ああ、どんなメニューにすればいいの!?』
パウンドケーキから、そんな美玖の思いも伝わってきて、朔太郎は思わず苦笑してしまう。苦味のコーヒーを飲み、とりあえずこのパウンドケーキの味はリセットさせた。
「何? さくちゃん、何が面白いの?」
「いや、パウンドケーキが成功して良かったなって」
「それはそうよ。本当の良かったわ。あの赤尾さんもリベンジできるといいわね」
話題は、あの赤尾の事に移った。塩瀬によると、あれ以来編集部への嫌がらせやSNSの誹謗中傷も全く無いという。もちろん、富沢夫婦も平和に暮らしているようだ。もっとも家のセキュリティを強化したり、宮子に慰謝料としてブランドもののバッグや指輪を買ったので、富沢の懐は痛んでいるようだったが。
「ま、今は平和でいいわ。赤尾さんもちゃんと反省して悔い改めていれば、いいと思うわ」
「そうだな」
「さくちゃん、飯島さんのクッキー食べてみたら? おかしいわね。あんな飄々と空気が読めないタイプの飯島さんが、こんな可愛いクッキーを作るなんて」
美玖もコーヒーを飲み干し、苦笑していた。
「確かにおかしいな。あいつも独身が長くて、発狂でもしたんかね?」
「やだ、さくちゃん。飯島さんに失礼じゃない」
「いや、意外だよな。春で頭もおかしくなったんか?」
夫婦二人で失礼な事を言っていたが、朔太郎はあのクッキーを食べる事にした。
最初はアイシングの強烈な甘みが口に広がり、クッキー生地と一緒のほろほろと崩れていく。味は悪くない。むしろ、素人にしては良くできている味だったが……。
問題はこのクッキーを作っている飯島の事だった。どこかのキッチンにエプロン姿の飯島が立っていた。アラフォーのおじさんである飯島のエプロン姿は、なんだか不気味だ。彼の表情はお面を被ったように無表情なので、余計に不気味だったのだ。
そんな飯島はクッキーをアイシングしていたが、余計に顔が暗い。丁寧なアイシング作業のは、感心してしまうのだが、込めている想いは最悪なものだった。
『はあ。もう新作なんて書きたくないわ。担当の好みとか読者の好みとか、辛いわ。売り上げ部数とかも聞きたくないし。はぁ、もう死にたいぐらいだよ』
甘いクッキーなのに。可愛いクッキーなのに、飯島が考えている事は、酷いものだった。朔太郎としても同業者として心当たりがある事なので、余計に心臓に悪い。
最近は俳優や漫画家の自殺のニュースも多かった事を思い出し、朔太郎の顔は青ざめる。
飯島は落ち着いた性格だ。どちらといえば、飄々とし、空気が読めない事は欠点だったが、仕事への想いは強い。子供の頃から本格ファンタジーの親しみ、書く作品も知的好奇心をくすぐるようなハイファンタジーやSFも多かった。確かに今はそういったファンタジーやSFは売れ線ではないので、なかなか数字を出すのは、難しいが。
飄々とし、なかなか本心が掴めない飯島にこんな悩みがあるとは、想像していなかった。思えば、同業の友人といっても、そこまでディープな話題をしる仲でもなかったが、これは無視できない。
「さくちゃん、どうしたの?」
青ざめている朔太郎に美玖が心配してきた。
「いや、ちょっと今思うと飯島の様子がおかしかった気がして」
表面的にはいつも通りだったが、飯島の内面はそうでもなかった。
「えー? そうだったの?」
「何か仕事の事で悩みがあるっぽくて」
「悩みがない人なんていないでしょ」
「そうだけど、ちょっと病んでいるというか……」
あのクッキーは甘かったのに、今は少しもそう感じられない。むしろ苦い。この砂糖もミルクも入れないコーヒーよりも。
「だったら、うちに呼ぶ?」
「は?」
「前の富沢さんちのパーティーみたいに」
「あいつ来るかね?」
一応、美玖の提案通りに誘ってはみたが、仕事が忙しいと断られてしまった。
「だったらいつでもうちの遊びに来てって誘ってみてよ。私は本当にいつ来てもいいから」
「ああ、ありがとう、美玖」
とにかく心配だ。美玖の言う通りに誘ってはみたが、飯島は来てくれるだろうか。
嫌な予感がしていた。まさか本当に死んだりしないだろうか。
もっとも朔太郎の予感は当たった試しはなかったが、飯島の事は祈る他無いようだった。確かにディープな話題をするほど親しくもないが、大事な友人である事は変わりは無い。飯島も誰も死んで欲しくない。生きて欲しい。そう祈ってしまうのだった。




