じっくりことこと煮込んだ殺意(5)
女の名前は、蒼井弥生という。十九歳の大学生だった。
あの後、風呂に入れ、着替えさせ、お茶を飲ませた。
いつものダイニングテーブルに若い女がいるのは、不思議なものだ。もし朔太郎達に娘がいれば、弥生と同じぐらいの年代でも不自然ではないが。
美玖から借りたパジャマを着た弥生は、弱々しく見える。どちらかといえば体格がよい美玖のパジャマはサイズがあっていない模様。ブカブカだ。弥生は痩せ型タイプらしい。初めて会う朔太郎や弥生にもビクビクと怯えていた。小動物をいじめる肉食動物のような気分にもなってくるものだ。とりあえず茶を飲ませながら落ち着かせた。
緑茶には人を落ち着かせる成分でも入っているのだろうか。お茶を飲んでいると弥生もすっかり大人しくなっていた。
外は激しい雨が降っていた。テレビのニュースでは警報も出ていて、このまま弥生を外に出すわけにも行かない。おそらく一晩泊める事になるだろうが、客間に布団を敷けばちょうど良いだろう。
「ねえ、あの川で何をしようとしてたの?」
雨音と怯えている弥生の存在で、このダイニングルームの空気は暗くなっていたが、美玖は違った。温かいお茶を茶碗に注ぐと、弥生の隣に座る。そして単刀直入に聞いていた。
美玖に向き合って座っている朔太郎は単刀直入過ぎないかとも思ったが、弥生は下を向き、無言。その表情は、かなり暗い。重苦しい雲のように憂鬱だったが、美玖の太陽のような明るい笑顔に何かが溶かされたのだろう。少しずつ事情を語り始めた。
十年前、弥生は小学生に頃に片思いしていた男子がいた。名前は悠人。イケメンでクラスの人気者だった。一方弥生は大人しい優等生だったが、思い切って告白。大人になったら結婚すると約束されたそう。
「あら、甘酸っぱい。初恋じゃない」
「そうだな。良い思い出じゃないか」
「そんな事ないです!」
大人しく怯えていた弥生だったが、必死に否定してきた。その後も弥生は悠人への想いを長年募らせていく。じっくりことこと煮込んだ想い。簡単には変えられない。
ところが悠人は他の女と遊ぶようになり、弥生の事を無視。そんな約束も覚えていないというし、そもそも弥生と付き合っているつもりは無いと振られた。
大学に入った後も悠人への想いを断ち切れず、時々尾行をし、想いを深めていたと告白。ストーカーである事もあっさりと白状していたが、こうして聞くと、女性の純粋な想いを弄んだ酷い男のようにも聞こえる。
「ひっどい。その悠人ってやつは最低よ!」
美玖は同情的だったが、朔太郎は怖い。子供の頃の口約束を鵜呑みにし、こんな想いを長年募らせ、ストーキングまでしているとは。朔太郎は悠人の方にも同情してしまう。
むしろ弥生よりも悠人の気持ちがわかる。告白してきた女に良い顔をしキープ。あっちにもこっちにも良い顔をしてしまう男の卑怯さは、朔太郎も少しは心当たりはあるものだ。もっとも美玖に出会ってからは、そんな卑怯な事は絶対できないと思っていたが。
「私はこんなに長年、彼を思っていたんです。でも裏切られた。彼を殺そうとも思った」
弥生は恐ろしい事も言っていて、朔太郎は完全に無言になってしまった。
改めて弥生の姿を見る。黒髪で真面目そう。きっと恋愛感情も真面目にことことと煮込んでしまったのだろう。男はこういう真面目さは、意外と苦手だ。いわゆる重い女というもの。弥生は想えば想うほど、逆効果になってしまたったのだろう。
「そうよ、そんなゲス男は殺しちゃいな!」
「ちょ、美玖。殺人を推奨したらダメだって」
美玖は一貫して弥生に同情的、悠人に否定的だった。過激な発言も飛び出すので、朔太郎は必死に止めた。
こんな風に美玖はちょっと過激になりやすい傾向がある。一方、朔太郎はどちらといえばツッコミ役だ。
朔太郎と美玖をおしどり夫婦と表現する人もいるが、割れ鍋に綴蓋という関係性に近い。
そんな夫婦を目の前にしていた弥生は、さらに力が抜けてきたのだろう。悠人への愚痴や悪口も言うようになった。
「それで、悠人に当てつけのように自殺しようと思ったけど、あんなヤツの為に死ぬのは馬鹿馬鹿しくなってきました」
「そうよ! あんなのはクズ男よ!」
女二人はも悠人の悪口で盛り上がり、朔太郎はため息が出てきた。それに腹も減った。キッチンへ向かい、冷蔵庫の中を確認。作り置き乃鯖の煮込みやご飯もある。適当に三人分を温め、ダイニングテーブルの方へ持っていった。
「すごい。この鯖の煮込みって手作りですか?」
弥生はタッパーの中の鯖の煮込みを見て、ちょっと感動していた。弥生の家が両親が仕事や介護で忙しく、こういった煮込み料理はほとんど食卓に出た事は無いのだという。
「やっぱり鯖の味噌煮もじっくりことこと煮込むんですか?」
そんな事も美玖に聞いていたが、あっさりと否定されていた。
「鯖の味噌煮は、じっくりことこと煮込んでたら、不味くなるのよ。むしろ短時間でさくっと煮込んだほうが美味しい。ちなみに沸騰した水に鯖を入れてね。冷たい水から作ると臭みが出たりするから」
美玖の話を聞いながら、弥生は目から鱗が落ちたような顔をしていた。
「うん。鯖の味噌煮は、中まで味を染み込ませる必要もないね。白っぽい身を味噌に絡めて食べるから美味しいんだよ」
朔太郎もそう言うと、弥生は深く頷いていた。確かに美味しい鯖の味噌煮は、味が中まで染み込んではいない。
「そっか……。時間をかけて煮込めば良いってもんじゃないんだ。鯖だけじゃなくて、人の想いもそうかも……」
この後、三人で鯖の味噌煮や白米を夕飯として食べた。いかにも雑な家庭料理的な夕飯だったが、弥生は何か悟ったような顔を見せていた。
「もう悠人への想いは断ち切ります。ストーキングもしない……」
最後にはそう宣言もし、翌朝帰って行った。もう雨も上がっていた。朝の光も眩しい。弥生は美玖ともすっかり仲良くなり、鯖の味噌煮の作り方の教えて貰うと喜んでいた。
一件落着だ。もう弥生は大丈夫だろう。




