妻のダイニング・メッセージ(1)
文筆業といっても、朔太郎の仕事は地味だった。ひたすらパソコンに向き合ってキーボードを叩き、資料を読み込み、取材へ向かう。書いたものの誤字脱字を潰し、公正や校閲、編集からの訂正を直していく。確かにパーティーなどがある時もあるが、コロナ渦後減っていた。サイン会などのイベントも大御所人気作家と言えない朔太郎には無い。縁のない話だった。
今日も朝から一日中、自宅の仕事部屋にこもり、キーボードを打ち続けていた。妻の美玖はパートに行き、帰ってくるのは夕方だそう。
窓の外からは、近所の桜並木も見える。麗らかな春だが、それどころじゃない。締め切りも近い。締め切りは待ってくれない。
仕事部屋は本ばかり。多くが食べ物や料理に関する本だ。ことわざや花言葉、動物辞典の本もあるが、多くはそんな本ばかりだった。小説やエッセイも食に纏わるもの、取材も寿司屋や天ぷらの名店にいく事が多い。この食べると、料理過程や作った人の気持ちが伝わってくる力は、仕事にも生かされていた。元々は売れないサスペンス作家だったが、食向けの作家に方向転換したところ、仕事自体は途切れず、一家の大黒柱としても成功していた。
一体なぜ、こんな能力がついたのかは不明だが。
仕事に熱中していたら、もう夕方に近い時間である事に気づいた。窓の外は、薄いオレンジ色に染まっている。
「はあ」
朔太郎はキーボードを打つ手を止め、灰色の髪
をぐしゃぐしゃとかく。還暦近い年代の割には髪も多く、体つきも健康体だ。ダンディなおじさまといった雰囲気が維持されている。これも妻が陰で支えてくれるからだろうと思うと、感謝しかない。
仕事をひと段落つけた朔太郎は、二階の仕事部屋からから一階のダイビングルームへ向かう。そろそろ妻の美玖がパートから帰ってくる頃合いだろう。
その予感は的中し、ちょうど美玖が帰ってきたところだった。
「ただいま! もう花粉がひどくって!」
大声で笑いながら、脱いだジャンパーをソファの上に置く。美玖は若い時より体重も増加し、立派なぽっちゃり体型。それに大声で笑い、大食い。年々おばさんらしくなってきたものだが、生命力は逆に増しているような。朔太郎はこんな美玖に頭が上がらない。惚れた弱みをしっかりと握られていた。
「今日の夕飯は?」
「待ってて。今日は春のキャベツの炒め物だよ。さくっと作るから待っててね!」
美玖は腕まくりをし、さっそく夕飯を作る始めた。
朔太郎はこダイニングルームからキッチンを眺めていた。美玖は鼻歌を歌いながら、テキパキとフライパンを動かす。ジュワッと炒め物る音が響く。その音はまるで賑やかな音楽のよう。フライパンは楽器というところか。そんな楽しい音を聞くだけで、腹が減ってきた。ごま油の良い匂いも漂ってきた。余計に腹が減るではないか。
結婚して三十年。子供もいない。不安定な文筆業だったが、こうして二階建ての新築の家も買い、小さいながらも庭もある。駅からは少し離れている。閑静な住宅街といった場所で、駅だけでなく、スーパーやコンビニまで遠いものだが、何の不満も無い。これ以上幸せな生活は想像できんかった。
「さくちゃん! 夕ご飯できたよ!」
美玖は笑顔でダイニングテーブルに夕飯を置いた。皺くちゃな笑顔。もう若くてもない笑顔だったが、朔太郎はこの妻の笑顔が好きだった。
「いただきます」
「うん、今日もお仕事お疲れ様!」
こうして美玖と一緒に食卓についた。