プロローグ
三十年前の事だ。味川夫婦は小さな教会で結婚式をあげた。
地味な雰囲気のプロテスタント教会だった。夫、朔太郎の友人に牧師がいた為、その縁で教会で結婚式をあげたのだった。
夫の朔太郎も妻の美玖も別にクリスチャンではなかったが、やはり教会での結婚式は夢があった。朔太郎達が式をあげた教会は、市街地にある教会で、普段は礼拝や葬式にも使われる。ベルやマリア像、ステンドグラスなど派手なオブジェはないが、礼拝堂には木製の十字架が掲げられていた。
特に信仰心のない朔太郎だったが、こうして神の前で誓う事は緊張する。特に朔太郎は売れない小説家。美玖の両親から激しい反対にもあい、ようやく結婚式までたどり着いた。信徒席にいる二人の両親達も涙が溢れそうな顔だ。
窓が大きく明るい教会だった。この礼拝堂も春の優しい日差しに満たされる。夫婦の門出を祝福するかのような光だった。
「病める時も、健やかなる時も」
牧師が結婚式の定番の台詞を語る。正直、朔太郎は聖書の言葉は分からないが、幸せじゃない時も美玖を全力で愛そうと思う。
目の前にはウエディングドレス姿の美しい妻。美玖本人は、ぽっちゃり体型だとコンプレックスがあるようだが、朔太郎はそうは思わない。この美玖は史上最高に美しかった。誰にもやらない。絶対に手放したく無い。いや、誓う。神の御前で誓う。
友人の牧師夫人によると、確かに結婚式だけ教会に行き事は眉を顰めていた。「それでも神様は祝福しているのですから、イエス・キリストのような品性の夫になってね」と言われた。高過ぎるハードルだが、今は新妻の美しさに見惚れてしまう。
「誓います」
「誓います」
夫婦二人で誓いの言葉を口にすると、キスをした。誓いのキスだった。
幸せだった。きっとこの先何があっても大丈夫だという自信もあった。絶対に美玖を幸せんkする。まだ三十手前の朔太郎だったが、この気持ちに何の偽りもなかった。一言でいえば、新妻である美玖にベタ惚れだったのだろう。
そんな幸せは束の間。異変はすぐに起きていた。結婚披露として内輪だけで小さなイタリアンレストランでパーティーを開いている時だった。
出されたマルゲリータピザを齧った瞬間、頭に変な映像が浮かぶ。ちょうどこのマルゲリータピザを作っているシェフやアシスタントの映像だった。広々とした業務用の厨房で、冷凍ピザの箱を開け、無造作にオーブンに放り込んでいるではないか。このピザは確か石窯のこだわりの一品だったはずだが……。
しかもシェフ達は客の悪口を言いまくっていた。朔太郎についても新婚夫婦など爆発しろと嫉妬を隠していない。
頭の中だけで広がる映像。幻覚かと思ったが、このピザは仲間内でも不評だった。確かにちゃんと見ると、冷凍っぽい雑さのある見た目。それにシェア達の想いもこもっているのか、味も塩っぱくて美味しくない。普通の冷凍ピザより不味い。
「さくちゃん、このピザ美味しくない」
「残していいぞ」
「は?」
美玖もピザを残していたが、こんなものは妻に食べさせられない。食べない事をすすめた。
不思議な事はあるものだ。他にもサラダやケーキ、パスタも作り手の裏側が映像化され、とっても不味い。
他のファストフードなども食べたが、同じような結果だ。中には衛生観念が酷い店もあり、吐きそうだ。
一方、妻の料理は全く違う。
『さくちゃんに喜んで欲しいな』
『絶対美味しいはず』
『うまく焼けたところはさくちゃんにあげよう!』
健気な想いや料理の過程が映像化され、朔太郎は涙が出そう。確かに新婚で料理も失敗する事も多かったが、美玖の健気な想いが、料理を通して伝わってくる。朔太郎は美玖をより愛してしまった事は言うまでもない。
こうして三十年がたち、朔太郎と美玖は立派なおしどり夫婦になった。子供には恵まれなかったが、いつまで経っても新婚ムード漂う夫婦と評判だった。
もっとも朔太郎のこの不思議な能力は解明されていなかったが。一応病院に行き色々と検索を受けたが、どこにも異常はなかった。
このささやかな能力を活かし、料理をテーマにしたコージーミステリを執筆。日本では受けなかったが、海外では評判がよく、今でも定期的に収入が入ってくるぐらい。
そして小説の仕事以外にも、グルメ記事を書いたり、フードライターの仕事もこなすようになった。時には食品偽装をするメーカーの闇を暴き、社会派のルポライターになった事もあったが……。
今はまったりと食関連のエッセイや小説を書きつつ暮らしていた。初老の朔太郎だったが、ファストフードやコンビニ弁当、菓子などを食べなくなったので、健康そのものだ。利益重視で安く作られたものは、頭にその過程の映像が浮かび、とても食べられそうになかった。妻の料理一筋だ。仕事で寿司屋や天ぷら屋に行くこともあるが、やっぱりその純粋な気持ちが込められら料理が一番。
料理にも作り手の想いが宿るのかもしれない。本当は皆んなもそのメッセージを感じとっているが、朔太郎のように自覚が無いだけなのかもしれない。
最近、朔太郎はそんな事を思う。若い頃は特殊能力だと思っていたものだが、今は普通に受け入れている。
もっともこんな能力がある事は、誰にも言っていない。秘密だ。妻にも言っていない。おしどり夫婦でも、一つぐらいは秘密があっても良いのかもしれない。