8・セシルという名のよい子
うまくやれている。
セシルはカギつきの日記のかたい表紙をなでた。誰にも見せない本心は町はずれの秘密の場所にかくしてある。
努力してきずき上げた今の立場が、そう簡単にくずれるわけがない。
日記をなでながら何度もそういいきかせた。
町の子どもたちの中で、以前のセシルはふみにじられる側だった。わけもわからないまま人の意思に翻弄されて気がつけば損な役まわりをおしつけられていた。
荷物を持って。掃除当番をかわって。いつかウラ側にいきそうな気難しいあの子のお世話係をやって。
そこで不満でも口にしようものなら、グズなくせに文句だけは一丁前のセシルがわるいような雰囲気になる。いつもそうだった。
どうして自分がこんな目にあうのか毎日なやんでいた。
どんくさいからだろうか。声が小さいからだろうか。ダメなところばかりがいくらでも思い浮かぶ。
こんな自分でもがんばればかわることができるだろうか。
セシルがイメージする理想のかっこいい子を演じてみたら、バカみたいだと指をさされて笑われた。
欠点をなおすのはむずかしくて、ものごとは思ったとおりにいかなくて、セシルの目からいくつもの涙がぽろぽろこぼれていった。
誰もかわいそうだなんて思ってくれなかったけれど。
愚直な努力はからかいと失笑をよんだだけ。
大人をわずらわせないよい子。まじめなだけがとりえのよい子。従順さだけに価値があるよい子。
まだセシルがウソをつかず、人をおとしいれず、自分の本心を勇気をだして言葉にしていたころ。まわりは彼女をとるにたらない、いくら軽んじてもよい存在としてあつかった。
そうあつかわれた。
そんなセシルに救いの手をさしのべてくれたのは姉だった。年が少し離れていることもあり、それまでは正直あまり仲はよくなかったのだが。人並にキレイでほどほどにお利口でとても要領がよくて、セシルにとって近づきがたい人だった。
まもなく姉はお嫁にいって家からいなくなる。その前に、みっともなくて不器用な妹のセシルに人生を楽しむコツを伝授してくれたのだ。
それ以来すべてがうまくまわりはじめた。
まずは自分よりも下の存在を積極的にさがすこと、いなければ作りだすこと。
たいしたことはできない自分をひきたててくれるお人よしのマヌケを見つけて、申しわけなさそうな笑顔で失敗をなすりつけめんどうごとをおしつける。友だちってよいものだ。
いやなことは直接口にせず気配り上手なだれかが罪悪感とともに気づくよう、話の運び方でこっそり誘導する。自分はもめごとの中心にならずにほかの誰かが泥をかぶってくれる。
みんなでうまくやってくために犠牲者が必要な時はちゃんと適任を調達する。
お世話係の経験が役に立った。セシルの気持ちとはべつにずっと友だち役を押しつけられていた。だからどうすればその子が不安になったり、泣きだしたり、怒りをおさえきれなくなるのか、セシルはだれよりもくわしい。
大人やほかの子どもたちにはバレないように、そういう子を爆発するまで追いつめていくのはセシルにとってじつに簡単なこと。
自分にとって害になりそうな相手は親切そうに近づいて重要な秘密をにぎっておく。日々の安心のためにセシルも努力しているのだ。
姉の教えは最高だった!
セシルはもうグズではない。勇気をだしてかわったら、みんなの見る目もかわってきた。友だちにバカにされたりしない。大人がほめてくれる。がんばったかいがあった。あれだけつらかった毎日が幸福のバラ色にそまっていく。安心な居場所を自分の手でつかんだことをほこりに思う。
うまくいっている。
それなのに。
どうもこのところ妙なジャマが入るから困ってしまう。
オモテの住人がウラに連れていかれるという話は聞いたことがある。できのわるい子どもへの定番のおどし文句でもあり、たまに事件としてウワサが耳に飛びこんでくる実際の悲劇でもあった。
でも、まさか自分の身にそんな災いがふりかかるとは。
この短期間にウラ側に二回も迷いこむなんて、ぐうぜんとは思えない。
太鼓をちらりとながめる。家においておくのも気味がわるく、普通にすてて人目を引くわけにもいかなかったので、日記とはべつの場所にかくすことにした。そのまま朽ちてしまってもかまわない。
ずいぶんと風がわりな化けものだった。本当の名前を教える気にもなれなくて、たった数秒で思いついたニセの名前をつたえたら、うれしそうによんでいたっけ。
単純で善良であつかいやすい。ウラにすくうおぞましい化けものたちの中ではわりと便利で滑稽みのあるヤツだと思う。
日記をなでる丁寧な手つきとはうってかわって、指の先で雑に太鼓をはじいてみる。シャーマンドラムはくぐもった音を立てた。
人生最大のピンチがセシルにおとずれていた。
前ぶれもなく自宅に押しかけてきた二人組は正答の教導者。さっきからあれこれ詰問されている。父と母は別室で待機。
この部屋でセシルの味方になってくれる人はだれもいない。
めんどうごとをなすりつけられる人も。
見なれた自分の部屋だというのに、今はとても居心地のわるいおそろしい場所に思える。ぬいぐるみたちでさえよそよそしい。
「この短期間にウラ側への落魄が立てつづけにあったようですが、それは事実ですか?」
対照的な二人だった。一人は絵にかいたような堅物。栗毛色の髪は低い位置でまとめられている。ぱっちりと大きな瞳にはこれといった感情は浮かんでおらず、おもしろみのない人形のような印象を受けた。キンとかたい透明な結晶みたいな声がセシルの耳に障る。
「……はい。でも、あの……私はすぐに大人に相談しようと思ってたんです。だけどみんな忙しそうで、ジャマになっちゃいけないと思って話すのがおくれてしまいました」
すべて否定したいところだがここはすなおにはいと答える。
すぐ相談しようとしたのはウソだが、どうせ心の中だけのことなんてわかりやしない。
ここで失敗すれば人生がおわる。どうにかして切りぬけなければ。
大丈夫、自分ならできる。困った時に自分自身を救うだけの力を身に着けた。隙だらけの背中をさらしているほかのだれかが、いつだってセシルの身代わりになってくれたではないか。
それでもかすかな手のふるえがとまらない。
「アハッ! 緊張しなくていぃれすよぉ」
もう一人の教導者は無責任にそういい放った。まっ黄色の髪を高い位置でむすんでいる。しぐさの一つ一つから、だらしなく低俗な人間性がつたわってくるようだった。何ごともてきとうで頭のわるそうな女、といった印象を持った。セシルのきらいなタイプだ。見ているだけでイライラさせられる。
ウラ側にたびたび落ちているなんて正答の教導者にしられたら、それこそ本当にウラの住民に仲間入りするはめになってもおかしくはない。
オモテ側にいられない、与えられた物語を遂行できない。そう見なされること。それはセシルだけでなくオモテに生きるすべての人間にとっての最大の恐怖だ。
オモテに存在することを許されずウラ側に隔離された、あんないかれた連中と同じ空間ですごすなんて。想像しただけで気持ちがわるくなる。
そもそも正答の教導者といえども全員がまっとうなわけではない。えらくてりっぱな人は組織の上の方にいるものだ。
でも直接現場にでてくるしたっぱともなれば、ぎゃくに紙一重でウラいきをまぬがれているような人間ばかり。少なくともセシルは大人たちからそう聞いている。
セシルがウラと行き来する現場はだれに見られ、それを正答の教導者に報告したのはだれなのだろう。友だち? 近所の大人? それとも……親?
「……」
ここで密告の犯人を考えていても仕方がない。
重要なのはどうすれば自分が助かるかだ。
一つだけ、ぬけ道がある。
ウラ側にいってしまう原因が本人の堕落によるものであればセシル本人が責任をおわされる。でも、もしその原因がセシルとは別のところにあると教導者にしめすことができれば、セシルは怒られずにすむ。
どうしてあちら側に迷いこんでしまうのかセシルにもわかっていない。心あたりはなにもない。
「私は世界が私に望む役割をきちんとはたしたいと思っています。でもわるい化けものが私に目をつけて、ウラにさらおうとしてるんです。自分の力じゃどうしようもなくて、だから、助けてほしいです」
「ふぇ~! それはこわかったれすねぇ」
「由々しき事態ですね。それは事実ですか?」
「はい。証拠……もあります。家に帰りたいって泣きながらお願いしたら、条件つきでゆるしてもらったんです。化けものからあやしい楽器をわたされました。これをセシルにわたすから、ずっと持っているようにって……」
「わかりました。魔物からわたされた楽器を見せてください」
セシルはうろたえる。
シャーマンドラムは手元にない。ボロ布につつんで町はずれにかくしてある。
「……あの、今すぐには出せなくて」
「なぜですか。その魔物は『これをセシルにわたすから、ずっと持っているように』とあなたにいったんですよね。その発言にまちがいはないですか」
抑揚のない声で淡々と追及される。
まずい。セシルは冷や汗をかく。
栗毛の堅物は論理的にウソを見ぬいてくるタイプだ。
ウソをつくのなら事実とたくみにおりまぜて。姉はそんな風に教えてくれた。
ただこの方法も完璧ではない。
本当とウソをまぜた時にしょうじる矛盾。そういった小さな齟齬に敏感なものがいる。この手の人は苦手だ。善良なフリをしたまま、まわりをあやつるやり方がききにくい。セシルが得意とする感情にうったえかける技は通用しない。それどころか、理性にかけた相手と見なされて印象をわるくする。
教導者の前でセシルがしゃべればしゃべるだけ、ウソのほころびをつかまれる危険が増していく。
だが、ここで急にだまるのもあやしすぎる。
ごまかす。尻尾をつかまれる瞬間を少しでも先送りにする。
「……ええと。だいたいそんなことをいってたとは思うんですけど……。ぜんぶまちがいなく化けものの言葉をおぼえているか、ってことならちょっと……断言できないです」
「エマさん、ぐいぐいつめすぎれす~。いわれた言葉を100%おぼえてる人なんて少ないれすって。こわい思いした時ってけっこう記憶あやふやれすよ」
「貴重な意見をありがとうございます。ジュリさんの見解は参考になります」
金髪の教導者からの思わぬ助け舟にセシルは少し救われた。
そうだ。ここはおびえている少女の体で押しとおそう。
「はい……こわかったんです。化けものからわたされた楽器をいいつけどおりにずっと持っているのは」
教導者の二人は考えこんでいるようだったが、すでにその思考はセシルではなく魔物の方へむきつつある。
「まぁ安心してくらさぁい。そーゆぅわるい魔物をしばくのがぁ、お姉さんたちのお仕事なのれぇ」
「正答の教導者の規則にのっとり対処します。あなたをねらっている魔性についてより多くの情報が必要です」
セシルはホッとした。もうここは、セシルの罪を糾弾する場ではなくなっている。よかった。今回もぶじにきりぬけられそうだ。
そんな安心感で表情がゆるんでしまわないよう、しっかり気をつけていなければならなかった。
ウラの魔性におびえる無力で善良な少女の顔をたもつと、ささやき声で正答の教導者にその名をつげる。
「その怪物の名前は……マカディオス」