7・太鼓月夜 後編
ぼうぜんとするエセルをひょいっとかかえてマカディオスが力強くも華麗な高速ステップを披露する。少女の重みなどトレーニングの負荷にもならなかった。
さっきまで踏みしめていた地面に、長いトゲが深々と突きささる。
これぐらい余裕。
なんて思っていたら、そのトゲが急成長するではないか。複雑に枝分かれする追撃。
串ざしにせんと爆速で迫りくるトゲをかわしていく。ぬるりと旋回。すみやかにしゃがみこみ。あざやかな片手側転。
やっぱり余裕。
「ウォーミングアップにはちょうどいいエクササイズだ」
派手な跳躍だけはさけた。空を飛べないものが宙に浮く時間は無防備だ。マカディオス一人でトゲをよけるだけならどうとでもなるがエセルにケガをさせるわけにはいかない。老人の力だって、これだけとはかぎらない。
体を動かすのはおもしろい。
マカディオスは息一つあがっていないが、小脇にかかえられたエセルはすでに息も絶え絶えだった。
「ぎぼぢわるい……」
さんざんふりまわされて、髪がすっかりボサボサになってしまったエセルが小さくうめく。今にも吐きそうな顔色だ。
「マジか! エセル、しっかりしろ! あのじいさん、いつの間にこんなことを……!?」
「マ……マカディオスのせいだからね?」
マカディオスが縦横無尽にふりまわしたせいで、エセルの三半規管は限界突破。
マカディオスは強い。
身にまとった筋繊維は重厚にして柔軟で、発揮される力は常軌をいっしている。ぬきんでた動体視力が可能にした反応速度。状況を瞬時に把握し的確に駆使するセンス。適度に残された脂肪の層のおかげで持久力もある。
生まれついての猛者。知性を持ちあわせた野生。
ただ一つマカディオスの強さにかけているものがあるとすれば、憎悪。
憎きものの息の根をなんとしてでもとめてやるという執念を彼はまだしらない。
老人の挙動のわずかな変化をマカディオスは感じとった。これまでにない技の予備動作。
両手を開けておいた方がよさそうだ。マカディオスはエセルを開放して背後にかくれさせた。
森の木が不自然にうねる。そのうねりはやがて樹木がからみあう大蛇を作りだした。
「かっ……!」
それはまさに大自然の化身。
大蛇を見上げるマカディオスの表情も先ほどまでとはうってかわる。
「かっこいい!」
マカディオスの歓声と大蛇の突撃がかさなる。
片手で大蛇の頭をつかまえる。その牙がエセルを貫くことはなかったが、くねる蛇体がマカディオスを絞め殺そうとからみつく。腕の動きを封じ、胴体をがんじがらめ。肺の空気をすべて押しだそうとマカディオスの一息ごとに巻きつきを深めようとしている。
「私の邪魔をするんじゃあない。なぜわからない。オモテの連中なんぞ、かばう価値もない外道ばかりだ……」
「ヘビにハグされてる! オレになついてるんだ」
「いなくなれ、消えうせろ、忌々しい。ゴミもろともかみ砕いてくれる」
「オレってまわりを引きつける魅力があるのかもしれねえ。オレの笑顔は最高にかわいいからとうぜんだよな。オレは力持ちで、サービス精神旺盛で、好奇心があって、親しみやすい子なんだ。生まれてこの方、そういわれない日はなかった」
マカディオスはうれしそうに鼻息をフンフンさせながらしゃべりつづけた。苦しげなようすはまったくない。
ただひたすら己の妄執にとらわれていた老人の目に、じわじわとべつの感情が入りこむ。
「ヘビちゃん、オレもお前のこと好きだぜ! この子の名前は?」
「うるさい! だまれ! それに名前もなければ心もないし、命だってない。ただの術だ! 邪魔なお前を滅ぼすためのな」
つのるイライラが老人をほんの一瞬現実へと連れ戻した。
「そんな……」
ガッカリと気のぬけたマカディオスの体を樹木の大蛇が絞めつける。
マカディオスの体から息がもれていく。
ついに彼の肺が大蛇の拘束に音を上げたわけではない。
悲しいため息だった。
大蛇に巻きつかれたまま、マカディオスはバッと腕を広げる。
ぶちぶちバリバリ。雷のような音を立て、いともたやすく、あっけなく、強靭な繊維が割れて裂ける。
晴れてマカディオスは自由の身へ。
あたり一面、木クズのよい香り。
無傷で立ちつくすマカディオスは、しょんぼりした顔で樹木の大蛇の頭部を見つめている。
それはもうピクリとも動かない。
だれかの臓腑でくすぶりつづける憎悪も、積年の怨讐がこもった一撃も、悲痛なあがきも。たやすくねじふせてしまえるだけの力。それだけの力をマカディオスは持っている。
どこかの白い竜にそっくりな、無慈悲で理不尽な力。
ふらつきながら老人はかろうじて立っている。骨と皮ばかりのその指先はふるえながらもマカディオスをさししめす。
人を指さすのは失礼なのに! マカディオスはショックで目を見開いた。
老人のカサカサにかわききった口が何かいおうとしている。そのおとろえた目にやどっているのはもはや戦意ではなく、とまどい、そして……。
「ご尊老。どうされました」
いつの間にやらシボッツがいた。びっくりするほど影のうすい男だ。いつからそこにいたのかマカディオスも気づかなかった。
老人が小鬼の出現に反応するまでには、たくさんの記憶の扉を開けては閉めて確認するだけの間があった。
「お前はたしか……牙の魔女のしもべか何かだったか」
「ちがいます」
「そうだ、ちがった、思い出したぞ。魔女のお気に入りのペットだったな」
「……友人です」
いったいここで何があったのか、シボッツは老人からたくみに事情を聞きだした。
「お話はよくわかりました。そうですか、オモテの子どもを見かけるだなんて。それは平静でいられなくてとうぜんです。あー……でも、それらしい姿はどこにも見当たりませんね」
何をいいだすのだろう。マカディオスはエセルを探したが、いない。どこにも。少女の姿はこつぜんと消えていた。
「な……」
マカディオスが動揺しかけたところでシボッツと目が合う。老人に気づかれないよう、こちらに目くばせをしている。
「ナニモイナイゼ」
そういってごまかした。あとはお口にチャックをして、シボッツがどうするつもりなのか見とどけることにする。
「私ははじまりの呼吸の後からこの地にきたものですが、あなたがおっしゃることにはうなずけます。心であれ体であれ、受けた苦痛は……簡単に忘れられるものではありません。ふとした時にいつも影を落としてくる。一番つらい瞬間がすぎ去った後もずっと過去にさいなまれつづけている。そうですよね」
小鬼の声はひそめられていたが、マカディオスの耳にも届いていた。思考がグルグルしてしまう。シボッツの話し方の雰囲気がいつもとちがう! 自分のことを私っていってる! さっきから敬語を使ってる! 変な感じ!
こんな風にしらない大人に小ずるそうな敬語で話しかけているシボッツの姿を見るのは、なんだか落ち着かない気分になる。
だが老人の受けとり方はちがうようだ。しきりにうなずいている。涙ぐんだ声で。
「ああ、ああ……いかにも、いかにも。話のわかる小鬼だ」
「あなたが見たというオモテ側の子どもはきっと月が見せたわるい幻でしょう。あるいはあなたの魔力ですでに跡形もなく消しとんでしまったのかも。いずれにせよ、あなたを苦しめるものはこの場にはいません。もう安心ですよ」
かわいた大地にしみこむ甘い水のように小鬼の言葉は老人の心に流れこんでいく。いろいろなものごとが頭の中であやふやになっている森の老人をいいくるめるには充分な効果があった。
「よみがえりの満月の晩とはいえ無関係の相手に戦いをしかけるなんて、どうかしておった。いかに不死の我らとて心臓を壊されたら復活はかなわない。坊や、まきこんですまなかったね。おわびにこれを……」
さし出されたのはくたびれたお菓子の箱だった。包み紙はひどくボロボロになっていて、ポケットの中の糸くずや毛玉もついていた。ずいぶんと長い間にわたって老人が持ち歩いていたものと思われる。
「キャラメルだよ。お食べなさい。とびきりおいしいから」
食べちゃダメ、丁寧なお礼だけするように、とシボッツが強烈な視線でうったえかけてきた。
月が見せた悪夢からさめた老人はとぼとぼと去っていった。
マカディオスはシボッツに聞きたいことが山ほどあった。エセルはどこなのか。腰がぬけたのはもういいのか。不死と復活ってのはどういうことかとか。シボッツも忘れられない苦痛を受けたことがあるのか、とか。
質問攻めにあうのは予想していたのだろう。マカディオスが何かいいだす前に、水かきのある指でしーっと沈黙の合図。
「何も聞かずについてきなさい」
しげみから一匹のネコがあらわれた。手足と尻尾の先だけが白くそまった茶トラ。案内したい場所があるという風に、こちらをふり返りながらネコが歩きだす。
さっきシボッツが老人にいったことは、あの場を丸くおさめるためのウソだとマカディオスも理解していた。だが、もしもそれが思いちがいだったら? 気づかないうちに老人の魔法でエセルが本当に跡形もなく消しとんでいたら?
もっとおそろしい想像が浮かんできて、マカディオスの歩みがみだれる。
魔法を使えるものはほかにもいる。
だから、もしも、シボッツが、エセルを……。
でもそんなことがあるはずないのだ。
なんの変哲もない草地でネコが足を止めた。地面を軽く爪でひっかいている。
「ついたな。トラブルメイカーにはさっさとお引きとり願おう」
シボッツが虚空からスカーフをとりはらう。それと同時にエセルの姿があらわれる。少女はへなへなとへたりこんでしまったが、とくにケガはなさそうだ。
マカディオスはホッと大胸筋をなでおろす。
「なれないものは魔法をといた際にめまいがおきることもある。すぐにおさまるから心配ない」
そんな説明をなぜかエセル本人ではなくマカディオスにする。なんとなく居心地のわるい違和感。
「ええと……。おおーっ!! 魔法で見えなくしてたってことか! やるじゃねえか! ナイス機転! さすがぬけ目ないぜ! ちょこざい手練手管! 狡猾ゴブリンおじさん!」
マカディオスはしっているかぎりのほめ言葉っぽいものを笑顔で連呼する。さっきシボッツをうたがった罪悪感を明るく陽気なノリで帳消しにするかのように。
「……マカディオス、誰としゃべってるの?」
「俺のことは見えてないし聞こえない。この子がしる必要はないからな」
シボッツはうずくまるエセルを一瞥した。憎んでいる、というほどではないが歓迎していないのが明白な冷ややかな視線。マカディオスやウィッテンペンにむけるまなざしとはぜんぜんちがう。本当はかかわりたくない存在だけど責任感だけで仕方がなく助けにきた、という顔だ。
「それにしても……。まったくなんだこの術は」
今までマカディオスが見てきた中で一番不機嫌そうな表情で、シボッツは指をチョイチョイ動かしている。
草地に変化がおきた。円をえがくように並んではえたキノコ。その内側の草は色あせて枯れてしまっている。
「……チッ、ひどいものを見た」
シボッツの反応からして、どうやらこれはそうとうわるいものらしい。
草地に隠されたわるい魔法も、話のつうじない森の老人も、マカディオスはそんなにこわいとは思わない。
それよりもこわいのはシボッツがやけにピリピリしていることだ。ふだんとちがう、しらない一面。毎日いっしょにご飯を食べて、マカディオスが一番よくしっているはずの人なのに。
マカディオスの視線に気づいたシボッツがハッとなって弁解する。
「あっ……。よくないふるまいだった。イヤな感じのひとりごとを聞かせてしまった」
相手のことを気にかけた、ひかえめな言動。
いつもの雰囲気にもどった。ホッとする。
「これってそんなに凶悪な魔法なのか。オレにはよくわかんねえから教えてくれよ」
「いや。……べつにそういうわけでは。たいしたことじゃないんだ。話すと歯止めがきかなくなりそうだし……」
「いいぜ! 聞きたい!」
マカディオスが食い下がる。
魔法の知識に興味があるというよりふだんのシボッツの声が聞きたかっただけだ。
シボッツは最初は遠慮していたが、ちょっとずつ饒舌になって説明してくれた。
「この場には二つの魔法が使われている。まずはキノコの輪……フェアリーサークルを門にして空間をつなぐ術。そしてそれを見えないようにする低級の隠ぺい術。どっちもめずらしい術ではないんだが、すごくごちゃごちゃしていてゾッとするようなできばえなんだ」
シボッツの目にうつった魔法のひどさを何かにたとえるなら。
かわいらしい便せんに複数の筆跡でしたためられた罵詈雑言の招待状。
「俺の見立てではこの魔法には三人がかかわっている。ただ、まぁ、あー……いっしょに行動しているのになかよしではないというか、本心ではきらいあっている関係なんだと思う。同じ目的のためにかろうじて魔法の効果を発揮できてはいるが、思念や力の流れがバラけて今にもくずれそうだ」
「そういうのもわかっちまうのか。すげえ! オレぜんぜんわっかんねえのに」
さっきのしらじらしいほめ言葉(?)のられつとちがって、今度はマカディオスの本心からでてきた言葉だった。
虚を突かれた顔をさらした後、シボッツはぎこちなく目をそらす。
「そ、そういってもらえるのはうれしいっ……けど、魔法の解析はほかの人からはネクラで気持ちわるい趣味だと思われるようなので……、いいふらしたりはしないでほしい」
人のことはほめる方針らしいのに、本人は賞賛や感心をむけられるのになれていないようだ。すなおにうれしいと思う気持ちもなくはないが、それよりも落ち着かなさが上回る。そんな風に見える。
「わかった。いわない」
ここまで道案内をしてくれた茶トラが鳴いた。
「こんなことをしてる場合じゃなかった。早くその子をあるべき世界に戻すぞ」
「おっと! ほっといちまってわるかったな、エセル。おわかれの時間らしいぜ」
「そう。よかった。忘れられたかと思った」
安堵のため息をつく少女の手には、まだマカディオスからわたされた武装がにぎられていた。暗い森で生きものたちがカサリと身じろぎするたびに、エセルはビクッと身をすくませて太鼓の盾をサッとかまえる。
「それやるよ。本当は盾じゃなくてドラムなんだ。今度困ったことが起きたらそいつを鳴らすといいぜ。オレがすぐに聞きつけて助けてやるから」
エセルはだまってうなずいた。べつにほしいとは思わないが、わざわざ断って話がこじれるのも面倒だった。早くこのおぞましい場所から立ち去りたい。心にあるのはそれだけ。
「気をつけてな!」
エセルはふり返りもお礼もせずに、自分をウラ側へと引きずりこんだキノコの輪の中に飛びこんでいく。
少女の姿が消えた後、お説教がはじまった。
「マカディオス。お前が強いのはわかっているが、あまり危険なことはしないでくれ」
シボッツは声を荒げることはないが、マカディオスが話を理解するまで解放しない。とてもしつこい。マカディオスが同じ失敗をくり返しても、きっと何千でも何万でもくり返し注意するにちがいない。とちゅうで見すてることもせず。
マカディオスはお子さまなので、それがどれだけ莫大な忍耐と慈愛をともなう行動なのかをわかっていない。
「魔法でケガはなおせない。身を守る術はある。ケーキを焼くのに便利な術もある。人を傷つける術は一番バリエーションが豊富。でも魔法なんてものはしょせん、小さな切り傷からこぼれ出す血の一滴さえとめられやしないんだ」
「マジかよ」
なんでもなるものだとばかり思っていた。マカディオスの手がふるえる。
「それじゃあ魔法でも虫歯はなおせねえんだな? 虫歯ができて泣きついてもどうしようもねえってことか」
「あー……お手上げだ」
油断していた。これからはしっかりみがかなくては。
ふと老人の言葉が気になった。なんだかすごく風変りなことをいっていた。
「だけど満月は特別? 歯みがきをさぼっても平気?」
マカディオスは木々の梢の先で明るくかがやく夜空を見上げた。
シボッツはおびえたようすで丸く大きな月から顔をそむけた。
「……さぁ、オモテの子は帰っていった。俺たちも家に帰ろう、マカディオス」
うなずいてマカディオスは歩きだす。
今日は一つ大事な発見をした。
はじめてエセルと会ったあの日、マカディオスが踏んだ見えない何かはウンコではなくキノコだったということだ。