55・閉ざされた記憶
古い納屋の片隅に小さな台を置きまして、お皿の上には焼き立ての小さなパン。なめらかな木のコップには新鮮なミルクをたっぷりと。
子どもたちのようすから小鬼の存在をうっすら感じ取った大婆は、毎朝の食事を用意するようになった。ささやかな量だが気持ちはこもっている。善良な魔物へのお供えものだ。
「おっかない連中もいるけど、ともに暮らせる人だっている。礼儀正しい相手にはこちらも相応の礼をするものよ」
古びたイスに腰かけ大婆は手を動かす。縦糸と横糸が組み合わさって、木枠の織り機に一つの世界ができていく。タペストリーだ。大婆から子守鬼への贈りもの。
結ぶ。繋ぐ。縛る。思いをこめた糸には、そんなまじないが託されている。
人間の親から受け継がれた本物の血肉でできた体を持たない存在の居場所だ。居場所といっても、作り手の気持ちによって細かなニュアンスはちがってくる。あたたかな歓迎を伝えるもの。無用なトラブルを避けるために互いの領域をしめすもの。そして厄介な存在が出てこないよう閉じこめるもの。
大婆の家には足踏み式の大きな織り機もあるが、それはダサい布カバーをかけられ静かにまどろんでいる。大婆はウィッテンに使い方を教えようとしたが、生徒側はまったく乗り気ではなく織物教室はたった数回でおしまいに。大婆本人も時間のかかる作品を仕上げるだけの体力がなくなっている。
「良き隣人さんが居ついたみたいね」
「そうは言ってもさ、おばーちゃん。魔物に落ちぶれた時点で人間としてのまっとうな生き方から外れてるでしょ。優しくしてやる必要なんてある?」
「つらくあたる必要だってないでしょうに」
こちらをまっすぐ見つめる深いシワの奥にうもれた二つの瞳。底のしれぬ井戸にも似ていた。
「それにね。人間としてのまっとうな生き方なんてもの、マジメにとりあうだけの価値はないでしょう? 私の子供時代に良しとされていたことと今の正しいことってぴったり同じじゃないの。世の中が求める正しさってコロリと移り変わるのよ。だからね。一時の流行りものに乗っかるくらいの距離感でじゅうぶん」
「……そうだとしても魔物なんてロクでもない連中だよ」
ウィッテンはふいっと視線をそらした。その場からパッと逃げ出し玄関のドアに身をすべらせる。
「遊びにいくなら、ついでに焚きつけ用の乾いた松ぼっくりをひろってきてちょうだいな」
返事はせずに、ドアから腕だけにゅっと突き出して籐製のバスケットを持っていく。
あの小鬼を呼び出す方法は完璧にマスターした。
死にそうな目にあえば良い。とてもお手軽だ。
クマの縄張り横切って、毒バチを素手で捕獲して放り投げ、穴があったら真っ逆さま!
ウィッテンがわざと命を危険にさらしたのは、これで三十三回目。またもや小鬼は救いの手を伸ばした。次こそきっと見捨てるだろうという予想は裏切られ続けている。なかなかガマン強い性格のようだ。どれだけしつこくやったら音を上げるのか楽しみである。人間時代もこんな感じだったので、どの養育係も一年ともたずに次々に入れかわった。
「いっしょに落ちるなんてどんくさいんだね」
カゴの中の木の実と松ぼっくりがぶちまけられた窪地の底で、ウィッテンは小鬼を体の下敷きにしたまま笑いかける。
小鬼は少女を助けようとして巻きぞえになるくらいには非力で、転落の衝撃をやわらげる魔法を瞬時に発動して無傷で済ませるていどには優秀らしい。
そう、この小鬼は優秀だ。姿を消す魔法が使えるのはしっていたが、それとは系統の異なる魔法をこうもたやすくあつかったのには驚かされた。子どもたちがささやくウワサの数々が事実なら、もっと多彩な魔法を使える可能性もある。
「ケガがないなら早く立ち上がってくれないか」
「ハハ」
上品ぶりやがって。魔女は嗤う。小さく骨ばった体に、わざとひっついた。
本来無関係なのに積極的に年少者を助けようとする大人なんて、目的は一つしかないではないか。ドラマチックでロマンチックな演出で、困っている子どもを手なずける。そうなったらしめたもの。秘密の好き勝手がはじまる。満たしたいのは性欲と支配欲。そこには一欠けらの愛だってありはしない。
かわいそうに。欲だけが強くてそれをしずめるすべがないのは、なんともどかしいことだろう。気持ちはよくわかる。ウィッテンにも制御しきれない欲がある。ケモノじみた凶暴な衝動。牙がうずく。噛み心地の良い歯固め代わりになるものが必要だ。魔女の牙から逃げようと暴れて血と涙を流す新鮮なエモノがほしい。
「あの……そろそろ本当にどいてほしい。俺の体はそんなに丈夫じゃないんだ。苦しい」
静かな声だがガチ目のトーンで離れるようにうながされた。
「うん、ごめんねー」
悪びれもせずに形だけ謝って、貧弱な体を解放してやる。
かくそうとしてもわかる。
おびえている気配。
可愛らしい。弱くてみじめで愚かな命は可愛らしい。取るに足らない格下の存在への誉め言葉。
小鬼の体温は低く、その髪と肌からは見捨てられたぬいぐるみを思わせる甘くて悲しいホコリの匂いがほのかにした。
落ちた時にぶつけたわけでもないのに、小鬼は自分の心臓の上をぎゅっと抑えていた。それとなく呼吸を整え、恐怖を制御しようとしている。
恐怖はウィッテンにとってまったく未知の感情だ。相手の感情を読むのは上手い方だし、自分自身にも感情はある。けれども他者のおびえている顔とほかの表情……たとえば不機嫌や眠気や挑発と恐怖の顔の区別がつきにくい。ウィッテンには信じがたいが、どうも家畜同士なら相手がおびえているかどうかはある程度正確にわかるものらしい。
この弱点は、魔物になってからの地道な観察によって少しは克服されつつある。表情だけを見るのではなく、眼球の運動や呼吸に脈拍、ストレスを受けて発するびみょうな体臭の変化を総合的にとらえることで、ウィッテンにもちょっとはわかるようになってきた。努力の賜物だ。
「えー、大変。どこか痛むの?」
白々しくも、臆病なゴブリンを気づかってあげるサービスを。
「んん……もう平気。原因はわからないけど、たまにこうなる。騙しだましやってくしかない」
「ふーん。これはものしりの大人から聞いたんだけどさ、魔物は満月の光で体が再生するらしいよ。浴びてみたら?」
小鬼の髪がぶわりと逆立った。
「満月の下なんて絶対出歩かないッ!! ……あ? なんでこんな……、どうしたんだ俺は……。いきなり大きな声を出したりしてすまなかった。なんだか急に……こわくなって。どうか気を悪くしないでほしい」
おびえて攻撃的になった動物をなだめるように、魔力を帯びてジャギジャギになった髪の毛を水かきのある手が何度もなでて鎮めていた。
小鬼の精神には、ほころびがある。何かの記憶を封じられているような不自然さを時々見せる。
気分が落ち着いた小鬼は、こちらにジロリと視線をむけてきた。
「……もっと注意深く歩きなさい。草がしげって地面がよく見えない場所で突然スキップをするのは危険だとこれで学べただろう」
ウィッテンがわざとトラブルを起こしているのにきっと小鬼は勘づいている。でもそれを追及したりはしない。あくまでも事故や不注意の結果としてお説教してくる。
「はーい、気をつけまーす」
「この穴はそこまで深くなかったが、首や背骨が折れていたら大惨事だったんだからな。底にガスが溜まっていたり、地面が固かったり、木が体に突き刺さったり、這い上がれないくらい深い場合だってあり得る」
「もういいいってー、うるさいなー。面倒なら助けなくたって良いんだよ? なんでこんなことしてるわけ?」
お説教の途中なのもおかまいなしで、ウィッテンは散らばった木の実を集めはじめる。気にもとめていない風をよそおって、こっそりと小鬼のようすをうかがった。
「……罪滅ぼしのつもりなのかもしれない」
「えー? 何? どんな罪ー? 赤ちゃん百人を煮えたぎるナベにぶちこんでスープにしちゃったとか?」
「やめなさい。そういう悪趣味な冗談は好きじゃない」
小鬼の顔はじょじょに蒼白になっていく。
「いや、俺は……なんの罪滅ぼしをしてるんだ? 罪悪感はあるのに、その原因が思い出せない……。酒びたりの男が俺にむかって何か懇願してる……? イヤだ……。思い出そうとすると気持ちが悪い」
「はー、心底どーでもいいけどなんか大変そーだねー」
面白くない。小鬼があやふやな過去にとらわれているのが腹立たしい。
今、ここに、目の前にいる人間のフリをした小娘は、たったの一噛みで小鬼をブドウみたいにぷちゃっと潰せるんだと言いたくなった。そういう存在がすぐそばにいるという認識が小鬼にないのがなんとも癪だ。
そんなことで尻尾を出すほどウィッテンは愚かではないけれど。
代わりに、彼が叱りやすいようにボロを出してあげることにした。
「さーて、さっさとこの穴から出ないとねー。落ちても大丈夫だってのはちゃんとわかってたけど、出る時のことまで考えてなかったなー」
「おい。語るに落ちてるぞ。わかってて穴に落ちたんだな」
目論みどおり、お説教続行。
「どうしてこんなことをしたのか、理由を話す気はあるか?」
「こわーい、怒らないでー。ちょっとしたイタズラ心だったんだよー。私のすることにたいした理由なんてあると思う?」
見え透いた言い逃れと、あきれたため息。
締めくくりに小鬼はこう忠告した。
「ウィッテン、これだけは覚えておいてほしい。満月の晩だけは俺をあてにするな。家の人といっしょに安全にすごしていなさい」
「……はーい」
「よし。では這い上がろうか。忘れものはないな?」
穴の上部にむかって小鬼が手招きするような仕草をすると、草がするする伸びてきて縄のように垂れ下がった。やはり複数の魔法を使いこなしている。
ふわふわとした夢の中。台所のテーブルで作戦会議が進んでいた。
「では牙の魔女の意識は常時覚醒しているのですね。僕がつけ入る隙はない、と」
「そうだな、ウィッテンはずっと起きている。とうぜん夢も見ない。俺と精神を共有しているウィッテンに、ここでの話が筒抜けになる心配もない」
魔法なんてチンプンカンプンなマカディオスだったが、シボッツとヨトゥクルの会話を頑張って追う。時々シボッツが内容を整理してくれたり、ヨトゥクルがおかまいなしで使う難解な表現をわかりやすく言い直してくれて、マカディオスはずいぶん助けられた。
「えっと……それってよお。夢からさめたら、ここで話した内容がウィッテンペンにわかっちゃわねえの?」
「おそらくそうなる。なので、目覚めた時には俺の記憶がもう一度封印されているように設定し直した。俺はお前たちとの会話を忘れる。何事もなかったかのように」
妖姫の融合は解除できていないし、マカディオスたちもそばにはいない。そんな状態でウィッテンペンがシボッツが記憶を取り戻したことに気づいたら、ほかの家族が介入する隙なんてなくなってしまうだろう。ウィッテンペンをだますようで心苦しいが話し合いを望むのなら必要なことだ。
「お前と合流した時に、何かの合図で俺の記憶が戻るようにしておこう」
「ずいぶんと魔法が得意なようですけど、魔女にかけられた術をそこまで意のままにできるものなのですか? それほどの術者でありながら、妖姫の一体化は解除できないというのも不思議に感じるのですけれど」
ヨトゥクルの疑問にシボッツは少し口ごもる。特に秘密にするような内容ではないが、何をどこまで説明しようかと悩むような間だった。
「記憶封じは過去に俺が自分自身にかけていた魔法で、あの人は融合した際に魔力でそれに働きかけただけなんだ。だいぶ昔のことだけど、俺にはとても……イヤな事件が起きたから」
話の途中で取り乱さないように、シボッツが自分をおさえているのがわかった。
どこからともなく消毒薬の匂いがただよってきて、天井から軽やかな飴玉の包みがカラリコロリ。薬っぽい強烈な香りのノド飴が降ってきて、見る見るうちに床一面をおおいつくす。
シボッツはハッキリとは口にしなかったが、おそらくはクルガフィカが関係している。アイツならぶっ倒して二度と悪さができないようにつかまえてあると伝えようとしたマカディオスだが、ヨトゥクルにさりげなく止められた。
ここでは夢の主であるシボッツの心がダイレクトに反映される。クルガフィカの名を出した時、シボッツに良い影響があるとはまったく思えない。そうして変化した夢の情景をマカディオスやヨトゥクルに見せたいとも思わないだろう、と。
その間に飴玉は消えていき、シボッツも話を続ける準備ができたようだ。
「マカディオスといっしょに暮していたころには、記憶を封じる魔法にたよらなくてもだいたいおだやかにすごせるくらいにはなっていた。認識に作用する魔法だから、長い年月ずーっと使い続けるのは悪影響もあるからな。魔法の助けなしで乗りこえたいとも思っていたし……」
ウィッテンペンは融合後の隙をついて記憶封じの魔法を再発動させた。こうして小鬼の記憶は制限されて、魔女の記憶はそのまま問題なし。
違和感に気づいたシボッツがすぐに自力で解除ができたのも、より複雑な条件での調整ができるのも、彼がもともとの術者だからだ。
そして妖姫の状態はシボッツが編み出した魔法ではなく、魔物の特性を魔女が力業で利用したものだ。シボッツの心臓は過去の事件で傷ついており魔物としての体力は貧弱。ウィッテンペンに対抗して融合を解くのは難しい。
「ふむ。わかりました」
現実でマカディオスが妖姫のもとにたどりつけるように、ねぐらにしている古城の場所も教えてもらう。
「ここで地図やメモを書いても持って帰れねえのがツラい!!」
「僕が覚えておきますよ」
ヨトゥクルがいてくれて助かった。
「封印解除の合図が届く距離まで、妖姫に気づかれねえように近づいた方が良いよな? 忍びこむとしたら夜がベストか」
「そ――」
一度はうなずきかけたシボッツがすぐに意見をくつがえす。
「それはダメだ。やめなさい。夜にくるのはいけない」
「なんで?」
「……そんな時間に出歩くのは危ないだろう」
「でもオレはすんごく強いぜ?」
「あー……ウィッテンは並のケモノよりも夜目が効くぞ! 不利だな? そうだな? わかったな? 夜はやめておけ」
「お、おう……わかったけどさ」
そういうことになった。
「……ではそろそろ」
目覚めの時が近いことをヨトゥクルが察知する。
「ありがとう。あなたがマカディオスに力を貸してくれたことに俺からも深い感謝を伝えたい。あの子は良い友だちと出会えたんだな」
ふいっと長い鼻面をそむけられた。
「いえ、べつに。僕は大したことはしてないので。本来ならお互い話すこともないような類の相手ですけど。どういうわけか奇妙な縁が重なった結果こうなっているだけですね」
「……そうか。あー……よけいなことをいって気分を害してしまったのなら申し訳ない」
ギクシャクしている。
内に悩みを貯めこんでいく性格という共通点がある二人だが、ちがいも大きい。シボッツはあれこれ気兼ねし身を削ってまでまわりに奉仕するタイプ。ヨトゥクルの方は自分がイヤな思いをするのを避けるためにわざと冷淡な言動で人との距離をとりがちなタイプ。
ひねくれ者の友人をマカディオスはフォローすることにした。
「ヨトゥクルはムカつく時もあるけど、めっちゃいいヤツだぜ」
「……こういう幼稚な素直さは僕に欠けたものですし、少し言葉をかわしただけで友好的に接してこられるのに最初のころは戸惑いました。今は、こういう変わった友人を得たのも……まぁ良かったんじゃないかって思ってます」
夢の終わりがいよいよ近づく。
「俺はウィッテンといっしょに城でまっている。セティノアにも大丈夫だと伝えてくれ。家族で話をする機会を作ってくれるのはうれしいが、くれぐれもムリはしないように。あぁ、せっかく会えたのに俺たちの話ばかりしてしまったな。お前たちの生活に何か不便はないか? 風邪をひかないように。食事のバランスには気をつけろ。それから……」
小鬼の姿はかき消えて、あたたかな家の幻影も溶けてなくなる。
果てしない暗闇とささやかな輝きがおりなす星空のような精神空間だけが広がった。そこに残された二人の姿。
ヨトゥクルがつぶやく。
「お別れのあいさつ、くどかったですね」
「オレの自慢の親父は心配性だからな!」




