54・再会の抱擁
その農村をえらんだのに深い理由はなかった。いくつかの条件を満たしていればどこでも良かったのだ。複数の家庭や子どもたちが存在し、身寄りのない子どもを置いておけるくらいには食糧事情などによゆうがある共同体なら。ほかの魔物の縄張りになっていないかも事前に確認した。
魔物となった娘は、みなし子の立場で小さな農村にまんまとまぎれこんだ。草地となだらかな低い丘とリンゴの果樹園が広がる、のどかな村だった。遠くからでも見えるニレの大木が目印だ。
あの火刑の晩に新しい存在に変わった時に、人間から与えられた古い名前は剥がれ落ちた。代わりにふさわしい名が虚空から湧いて出る。
さようなら、問題児の██████ちゃん。
こんにちは、賢い害獣ウィッテンペン。
みなし子としての魔女はウィッテンと名乗ることにした。
健気でかわいそうな子どものウィッテンといっしょに暮らすことになったのは、うんと年を取ったシワだらけの老婆だ。
年季の入った小さな家。棚の上や壁面、ドアマットにドアノブカバー。いたるところに手作りの布製品があふれている。特にドアノブカバーは最悪で手がすべってドアが開けづらい。役に立たないだけでは飽き足らず、家の機能性を損なってすらいる。
そんなおばあちゃん的キュートなダサさとびみょうな不便さが致死量級に極まった空間で、ウィッテンは窒息しそうになりながらもなんとか生き延びていた。ウィッテンに妖精さんや小人さんみたいな服を着せたがる大婆を説得し、ケープつきの頭巾で手を打ってもらった。こういう頭巾は村の子たちも時々かぶっている。妥協点。
大婆の夫はだいぶ前に亡くなったが、七人の子に恵まれて孫やひ孫も大勢いる。仕事や婚姻のため村を出ていった者もいて、ある孫娘は離れたよその村の裕福な水車小屋の主と結婚した。その夫婦が今どんな生活を送っているのか、この小さな村まではなかなか新しいしらせが伝わってこない。
ウィッテンにとってはどうでも良いことだ。
暮らしは素朴ではあるものの衣食住に支障はない。薬草つみやキノコの見分け方、保存食作りや怪しげな民間療法も教わった。ウィッテンも家や畑の手伝いをして大婆を助ける。魔物であるのは重大な秘密なので、子ども一人分くらいの労力しか貸せないのだが。それでも大婆はウィッテンが豆の種をまいたり、ジョウロで水をそそぐのをうれしそうに見ていたものだ。
生きるための家事と野良仕事をしつつすぎていく日々の合間に、ほかの子どもたちといっしょにマグザス文化圏の昔話に耳をかたむけたり手遊び歌に興じたり。
時には大婆の親族とともに、ちょっとしたおいしいものも食べたりもした。
そんなこんなで人間の子どもに擬態した魔女は、善良な一般人の社会規範を学習していった。連中はエモノであると同時に、こちらを狩る猟師にも転じる。狩るにしても逃げるにしても、人間の習性を熟知するのは害獣側にとっては大きなメリットだ。
ウィッテンは大きなトラブルを起こさず、大婆のもとで村の一員としておだやかにすごしていた。
季節が夏から秋へと移り変わる。近ごろ、村の子どもたちの間では奇妙なオバケのウワサで持ち切りだ。
たとえば、口を開けたままの枯れた古井戸のそばで。度胸試しでヘビの巣穴に枝を突っこもうとした時に。おいしいアメをタダでくれるという親切な行商人といっしょにいたら。
どこからともなくオバケがやってくるのだという。
「こわくなっちゃった? ばぶちゃん」
ヒビの入った大岩のある遊び場で、ままごとのお母さんエプロンをつけたハンナが膝に乗せた黒髪の少女の顔をのぞきこんでささやく。
大婆の玄孫である幼いハンナ。親しい人たちからは、はーちゃんと呼ばれている。水色のスカートを気に入ってよくお姫さまターンをして見せてくれるが、汚れた手を服で拭いてしまうクセが治らない。良い匂いのものが好きで、干したハーブの花を鼻の穴に詰めこんで一騒動起こした。そんなはーちゃんはお姉さんぶりたいお年頃。
「おぎゃあ」
首にはままごと用のよだれかけ。村で赤ちゃん役をやらせたらウィッテンの右に出る者はいない。おぎゃりには自信がある。今年産まれた乳飲み子よりも切実な、迫真の黄昏泣きのライブをしたって良い。
「だいじょうぶよ。オバケはわるい子のとこにしか出ないんだって。かわいいばぶちゃん」
「あぶあぶ」
自分よりも幼いお母さんにぎゅむっと抱きしめられながら、魔女はオバケと遭遇する計画を立てる。
ウィッテンはオバケの出現条件を突き止めた。
子どもが、まわりに助ける大人がいない状況で、大きな危険にあいそうな時に。
ソイツは突然あらわれ、危険が去ったらこつぜんと消える。
とっぷりと日が暮れたさびしい荒れ野に、ウィッテンは杖も灯りも持たずに一人きり。このあたりは夜になるとオオカミの遠吠えが聞こえてくるのだ。
あらわれた。
不釣り合いに大きな手足。不気味にうごめく長い髪から突き出す、とがった鼻と耳。一目で人間ではないとわかる異形の小鬼が村のある方角を無言でさししめしている。
ねらいどおりのご対面。わざわざ迷子になったかいがあったというものだ。ウワサの魔物をこの目で確認しておきたかった。
「会えてうれしいよ、すぐにさよならだけどね。君があの村にいちゃダメなのわかる? もう私の縄張りだからね。ちょっとさー、よそにいってくれる?」
このボロボロの魔物に言葉を理解する知性が残っていれば良いのだが。どっちに転んでもウィッテンとしては問題ない。暴力沙汰はいつだって乾いた心を優しくうるおしてくれるし、話でケリがつけば服についたゴブリンの返り血を言い訳する手間が省ける。
ウィッテンは上手く擬態を続けている。無関係の魔物に村をうろつかれると厄介だ。さっさと消えてもらいたい。
せっかく大人しく暮らしているのに、ほかの魔物がした悪事を自分のせいだと疑いをかけられて、もう一度火あぶりなんてコースは絶対にお断りだ。今取り組んでいる生活の強制終了をくらいたくない。
「えー、だんまりだね。ピンときてない感じ? それとも私と縄張り争いがしたいのかな?」
魔物の足元の草は踏まれて折れ曲がっている。風が吹いて魔物の髪がゆらめく。物理的な干渉が発生している。幻影の類ではなさそうだ。
つまり、噛み殺せる。
まわりに人気はない。だれにも見られていない。
今なら自由だ。
少女もどきのウィッテンも。魔物であるウィッテンペンも。
「……帰りなさい」
やっと口を開いたかと思えば、どうにもズレた言葉。
ばらけた前髪の奥で光る小鬼の目に、魔女は狂気の一片を感じ取る。理性の鎖にがんじがらめに囚われた哀れな狂気だ。
ウィッテンは一瞬の思考で、この偶然の出会いをもっとも自分の利益に転換できるルートを見つけ出した。
「うん、そうする。でも帰り道がわからないんだ。かわいそうな迷子をおばーちゃんの家まで送ってってよー」
魔物は一定の間合いをとって夜の草原を先導して歩きはじめた。
ボサボサの長い髪から時折見える痩せた背中を追う。
コイツは生かして利用する。それが一番お得なプラン。
この先もしも村で奇妙な災いが起こった時に大人たちから疑われるのは、どちらか、という問題だ。複数の子どもたちにウワサされている不気味なゴブリンか。大婆のもとでマジメに生きているウィッテンか。
ウシの乳の出が急に悪くなった時。悪天候で不作が起きた時。健康な赤んぼうが原因不明の突然死をとげた時。
槍玉にあげられるのはウィッテンではなくこのゴブリンになるだろう。
人間時代、やってもいないことで重すぎる責任をとらされた。ひどい話だ。本当にやらかした悪事の証拠はきちんと隠しとおしたのに!
「面白いね。魔物が人助けなんてして。ヒーローにでもなりたいの?」
「……」
「子ども人気がほしいならそのボロい見た目を変えた方がいーよ」
「……」
「このへんにきたのは一ヶ月くらい前?」
「俺はずっとここにいた」
「いや、私が先だよ。住み着く前に確認したし」
元気な犬の鳴き声。かかげられたランプの光が見える。ウィッテンの名を呼んでいる。あの声はハンナの父親と叔父だろう。
四匹の短足牧羊犬がウィッテンにかけよった時には、すでに小鬼の姿は消えていた。
村人向けには、薬草つみに夢中になって広い荒れ野にまで出てしまい村への方角がわからなくなった、という説明を用意してある。
ハンナの父と叔父はそういうことはたいして聞いてこない。ケガはないかとか、寒くないかとか、腹を空かせてないかということは、しつこいくらい何度も何度も尋ねられた。ウィッテンは自分の足元と、時々視界に入ってくる牧羊犬たちのぷりッぷりのお尻を見ながら村へと歩いていく。
ホッとした顔の大人たちにつきそわれウィッテンは大婆の家のドアを開ける。
灯りをつけた家で眠らずに待っていた大婆は、イスから立ち上がりヨボヨボの腕を大きく広げた。
ウィッテンは立ち尽くす。どう行動するのが正解なのか。ボロを出したくない。しらない文化に直面した旅人の気持ちだ。
ハンナの父がごく軽い力でそっと肩を押した。前に進めということか。
大婆の垂れてしなびた優しい胸にむぎゅっと抱きしめられる。古いタンスと煮炊きの煙とハーブがまざった乾いた香り。独特でちょっとクセのある匂いだが、べつにイヤな気はしなかった。
前も後ろも、上も下もわからない。果てしない暗闇をヨトゥクルの先導をたよりにマカディオスは歩く。ヨトゥクルの足跡は淡く光って正しい道を教えてくれる。踏み外さないよう慎重に。
いつもはヒツジの角の生えた頭はマカディオスの目線より下にあるが、今は歩行にあわせてひかえめにゆれる彼の手や上品な犬を思わせるサラサラ尻尾がよく目につく。
不安と絶望をかき立てる、途方もない闇の中にぽつりと小さな灯り。虚無を踏みしめていた足元の感触が、やわらかな草へと変わる。
息を呑んだマカディオスに、ヨトゥクルがふりむきうなずいた。
「もう好きに歩いてかまいませんよ」
はやる気持ちをおさえて一歩一歩近づく。
鼻をくすぐるクッキーの香り。
お皿やカップがかなでる軽やかな生活の音。
なつかしい小鬼の家がそこにある。
マカディオスはドアの前で立ち尽くす。
励ますようにヨトゥクルがそっと背中に触れた。
背伸びをして、質素な黒いドアノブをつかむ。
ノックもしないし、カギだって持ってない。だけど扉はすんなり開いた。だってここは自分の家なのだから。
ずっとずっと会いたいと願っていた人は、台所でクッキーが焼き上がるのをまっていた。手にしているのはネコのお尻が描かれたすんごくダサいマグカップ。
「あ、ああ……会えてめっちゃくちゃうれしいよ!!」
シボッツは一瞬あっけにとられた顔をした。それからゆっくりとカップを置いて、落ち着き払った声で来訪者に注意する。
「……クッキーの匂いにつられたからといって、勝手によその家に上がりこんではいけない。自分のお家に帰りなさい」
マカディオスの体はだいぶ縮んでいた。人間の五、六歳の男の子くらいの大きさだ。骨太で健康優良な幼児。怪獣パジャマ姿で主張する。
「オレだよ! マカディオスだ。よその家じゃない。ここの家の子!!」
スミレ色の目が何かを探るように細められた。何かを考えこむ顔で。その疑いは、怪しい来客だけではなくシボッツの内面にもむけられているようだった。
「忘れちゃったのか? オレが居間のカーテンを引きちぎって服代わりにしたのも。二階の窓をぶち破って外に飛び出してったのも」
何してんですか、という冷ややかな視線がヨトゥクルから注がれた。
「えぇ……ケガしなかったか? 危ない……」
「へっちゃらだったぜ。それより、思い出してくれよ」
マカディオスは家族の思い出を話し続ける。シボッツはセティノアのこともネコたちのことも覚えていない。家族の記憶を失っている。ただ一人、ウィッテンペンの存在を除いては。
「ウィッテン……」
小鬼が彼女の名前を口に出すと同時にオーブンの扉が勢いよく開いた。
もはやそこにはクッキーはない。
串刺しムカデにイモリの黒焼き。マムシのぶつ切り、毒キノコ。
マカディオスは、オーブンの中からすんごく怒ったウィッテンペンが這い出てくるんじゃないかとこわくなった。
「この場で意識を持っている存在は僕ら三人のみです。夢の主の心理を反映したただのイメージでしょう」
「あー……そうなのか」
なんとも思っていない風をよそおってシボッツはオーブンの扉をパタンと閉める。
「少し調べたいことがある。くつろぎながら待っていてほしい」
そう口にすると、お客さんへのおもてなしがにょきにょきっとテーブルから出てきて並ぶ。焼き立てのクッキーとカモミールとエルダーフラワーのハーブティー。
「あっ、食べられないものがないか確認していなかった! あー、そのクッキーには小麦粉と卵と牛乳が入っていて、それから……」
「大丈夫ですよ。そもそも夢なので」
「あ、あっ、手を! そうだ、食べる前に手を洗わないといけないな! うっかりしていた」
流し台の下の戸棚から、ファンシー二足歩行アニマルたちがわんさか登場。手にしているのはシャボン液の小ビンとストロー。小さなジョウロとふかふかタオル。台所中をシャボン玉まみれにしつつ、マカディオスとヨトゥクルの手を洗ってくれた。
マカディオスはごにょごにょと弁解する。
「いつもはしっかり者なんだよ」
「べつに僕は何も。夢の中だと少し変なのはだれだってそうですよ。良いんじゃないですか、……優しいお父さんで」
シボッツはマカディオスの実の父ではない。けれど最近は、まわりにそう言われても特に訂正しなくなっていた。
台所の片隅の落ち着く場所で、目を閉じ額に指をあて自分にかけられた魔法がないかシボッツは調べている。
「あー……これを使ったのか。だいぶ古いものを引っぱりだしてきたな、あの人は……」
ちょっと疲れた顔で目を開けた。
「記憶封じの魔法が発動してるのが確認できた。自力では気づかなかっただろうな。ありがとう。……もう解除した」
マカディオスはイスからおりてシボッツに近づく。記憶が戻ったら、すぐに伝えたいことがある。そのためにここまできた。
けれどもはだしの子どもは立ちすくむ。あんなにひどい仕打ちをして、まだ家族でいたいなんてのはあまりにもムシのいい独りよがりの欲望でしかないんじゃないかとこわくなる。
謝っても許されないかもしれない、という恐怖をおさえる。許すかどうかは相手に選択権がある。
「オレの手でシボッツを傷つけたこと、謝りたかったんだよ……。本当にごめんなさい。すごく痛かったと思う」
水かきのついた手が伸びてきて、ほっぺたを包む。
「マカディオス、ずっと気に病んでいたんだな。俺はわかってるから大丈夫だ。お前の意志じゃなかったことも。あらがう方法がなかったことも。世の中には信じられないぐらい残酷にふるまえるヤツがいるってことも。俺もお前も、そういうヤツに踏みにじられて終わりじゃないってこともな。……だろう?」
ゴブリンらしくニヤリと笑う。
「……もっちろんだぜ! あの機械の尻尾、もうオレをあやつる力はねえんだ。セティノアや色んな人と協力してオレが自由を取り戻した冒険の話、あとでゆっくり聞いてくれよな」
「あぁ、楽しみだ」
マカディオスの体に腕を回してぎゅっとハグした後、背中をポンと軽快に叩いてシボッツは体を放した。
「なあ。いったいだれが記憶封じの魔法なんてかけたんだ? どうして現実ではちがう魔物の姿でいるんだ? ウラに帰らないでオモテをさまよってるのはなんで?」
シボッツは問いのすべてには答えない。
「……これは俺とウィッテンの課題だ。あとは俺がなんとかする。セティノアや友だちと遊んでまっていなさい」
複雑だった。この一件にはマカディオスは無関係だと宣言されたみたいで。
夢の領域でのマカディオスの姿は、幼児から十二歳前後の活発ですばしっこそうな少年になっていた。
「これは家族の課題でもあるだろ? 一人で何もかも解決するこたあねえよ」
スミレ色の目が静かに見開かれる。
「そうだな……まずは教導者の襲撃の後、ウィッテンと俺がどうしていたか話しておこう」
ごまかしにまみれた優しいウソではなく、小鬼は彼のしる事実を口にした。長い話を一方的に聞いているのが苦手なマカディオスのために要点をまとめて伝えてくれる。
「それじゃ、今の状況はウィッテンペンが作ったってことだな。なんだか勝手だなあとは思うけど、二人がめっちゃ悪いヤツの手に落ちてるとかじゃなくてオレとしちゃあ一安心だな。行方不明の二人を探して助けなくちゃって心配してたんだぜ」
「保護者の立場でありながらお前たちを心配させて本当にすまなかった。ウィッテンを説得して早く元どおりにしないとな……」
「オレとセティノアはまた家族で暮らせたら良いと思ってる。でもウィッテンペンはそうじゃねえんだな? シボッツの意見はどうなんだよ? その……もし今の生活を望んでんなら、ムリに戻るこたあねえんだぜ」
「俺はこのままでいる気はない」
シボッツは即答した。
「……ウィッテンは独断で行動したが、その背景には俺の弱さやほかの事情もある。だから、彼女だけが悪いように責め立てることだけは絶対にしたくないんだ」
「うん。ウィッテンペンにもその気持ちをわかってもらわねえとな」
記憶封じの魔法と妖姫の融合は別物で、夢からさめてもすぐにもとの二人に戻れるわけではない。分離方法を考える必要がある。
そして特に難しいのは、力や策でウィッテンペンをねじ伏せればそれでOK! とはならないところだ。
こじれてしまった家族の問題を解決するのは、敵を排除するのとはわけがちがう。もしもウィッテンペンと大ゲンカになったとしても、わだかまりを残さない決着でなくては意味がない。
「安心しろ。オレがついてんだ。二人には幸せでいてもらいたいからな!」




