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47・水車小屋の魔術師

*魚、ネコ、非戦闘員の人間がひどい目にあうシーンあり

 夜はおそろしい時間。

 玄関の戸を開けるのは一番鶏が鳴いてから。


 夜明け。仕事場と住居を兼ねている水車小屋の外に出る。あんのじょう、一抱え分ほどの魚たちが地面に散らばっていた。ナマズにコイにヤツメウナギ。今日にはじまったことではない。昨日も、一昨日も、その前も。かれこれ一ヶ月。あの水の魔物を助けた次の日から。

 たんに魚が届けられるだけなら、魔物からの不器用なお礼と解釈することもできたのだが……。

 魚たちはどれも体を裂かれていた。鼓動する心臓が見える。

 食べるのも気味が悪く、完全に死なせてやってから土に埋めた。


 残忍な。独りよがりで。気持ちの悪い。

 執着心。


 青年が川べを歩くと、いつの間にか服が水でびっしょりとぬれてしまう。ある時などは、しがみつくような女の手形がシャツの上にくっきりと残された。その手は青年の心臓をつかもうとしていた。


 村人たちは青年を気味悪がり、遠ざけて、無責任なウワサ話の主役として消費する。

 結婚の話が進んでいたはずの村の娘とその家族には、この前正式に破談を告げられた。しかたがない。当然の判断だ。仮に結婚を強行したとして魔物の手から花嫁を守りとおせる自信はない。離れてもらうのが一番安全だ。




 水の魔物の思いどおりにはさせない。理不尽な運命にあらがおうと青年は手を尽くす。知識と技術と努力で、これまでもそうやって乗りこえてきたではないか。


 水車小屋の付近にワナをしかけてみた。引っかかった魔物を網で吊り上げるというもの。動作も強度も申し分ない。

 けれども失敗。吊り上げられた網の中はもぬけの殻。新鮮な水草がからまっていただけで、一ヶ所だって破られていなかった。網目の大きさは、細い腕なら通るくらい。成人女性の体格で抜け出せるはずがないのに。


 ありとあらゆる魔よけも試した。ドアには馬蹄を。セージの束を火にくべた煙でいぶす。村に行商人がくれば古今東西の魔よけの品を買い求める。服の裾や袖から悪い力が忍びこまないように刺繍やビーズでまじないの紋様を縫いつける。

 さして効果はないようだ。


 青年は大きな町まで使いを出し、魔物退治を依頼する。――この当時は正答の教導者が設立されていなかったので、腕に自信のある怖いものしらずにお金を出して問題を片づけてもらうしかなかった。

 そうして雇った十二人。

 だれも水の魔物に歯が立たない。それどころか犠牲者が出る始末。勝てる見こみは一切なし。青年は依頼を取り下げる。


 翌朝、役目を果たせなかった腕自慢たちがすごすご町へと引き上げていく。

 青年は彼らにふるまった最後の食事の片づけ中だ。水の魔物の一件で家事をしてくれる使用人もいなくなっていた。怠け者の父はあてにならない。ぜんぶ青年がするしかなかった。


 そっと少年が近づいてくる。町からやってきた強者の一人だ。小柄ですばしっこく投石紐(スリング)のあつかいがめっぽう上手い。

 こんな子どもが命を落とす前に魔物退治を中断できたのだけはよかったじゃないかと、途方に暮れながら青年は自分を励ました。


「なぁ、おっさん」


 おっさん。

 皿をしまう手が止まる。

 青年の胸中にさまざまな思いが浮かんでは消えていく。

 子どもから見るとそうなのかな……。まだ若いつもりでいたのに……。父親(あの人)に近づいたみたいで複雑……。


 内心の動揺をさとらせない落ち着いた低い声で、すぐに居丈高に切り返した。


「雇い主の名前くらい覚えたらどうだ、小僧」


 ███という自分の名前はわりと気に入っている。母から聞かされた話では、母方の一族のものすごく長生きの老婆がつけてくれたものらしい。


「いっしょに町くれば? 俺みたいなのでも、どうにかメシ(・・)喰ってけてんだ。おっさんならここ離れても、喰ってくのだいじょぶだろ、たぶん」


「勝手に仕事を放りだすわけにもいかないだろう」


 水車小屋の粉ひき。それが役割なのだから。

 少年が悪だくみ顔でささやいた。


「あの飲んだくれ。アイツぶん殴って脅しちまえばアンタは自由か?」


 荒っぽいアイディアだ。口の端にかすかな苦笑を浮かべて青年は首を横にふる。


「やめておけ。関係ない。俺は領主からこの仕事を任されている」


「……上手くごまかして逃げるのもムリか?」


 さすがの向こう見ずも領主を直接敵に回すのは躊躇したらしい。それでもなお青年が水車小屋から解放される道を探ろうとしている。


 一瞬、ここから逃げてしまおうか、なんて考えがよぎった。

 その直後たくさんの心配事が押し寄せる。

 父がすなおに同行するとも思えないし、計画を伝える段階ですでにリスクが高い。

 それでは父を置き去りにすればどうなるか、想像してみる。


「……すまない。俺は行けない」


 少年は押し殺したうめき声をあげて勢いよく髪をかきむしる。

 駄々っ子みたいに足を三度床に叩きつけた。

 食器棚にならんだ皿やカップがカタカタ音を立てておびえる。

 大きなため息を一つつくと、少年はのろのろと元気なく顔を上げる。感情の波はひとまず落ち着いたらしい。


「少し持っていきなさい。たくさんとれて食べきれない」


 朝食にも出した山盛りの果物カゴ。そこから数個のプラムをつかんで少年に手渡す。

 土が肥えたせいだ。

 贈り届けられる魚の死体で。


 ぶすっとした顔で少年が受け取る。

 一つはその場で無言でガツガツたいらげ、残りは荷物袋がパンパンになるまで詰めこんでいった。


「田舎者でお人好しのおっさん。気をつけろよ。あの女……あの魔物は本当に危ないヤツだから」


 果物の汁気を自分の服でぬぐい取り、少年は自分の荷物をひょいとかついで水車小屋のドアを開ける。


「食べさせてくれたご飯(・・)おいしかった。ありがと、達者で」


 少年を見送りにいくも、逆光となった朝日に青年はその色素の薄い目を細めた。

 ふり返った少年がいったいどんな顔をしていたのか、見えなかった。




 それから一人でどれだけ努力をしても。

 水の魔物のひそやかな凶行は止められない。

 いつしか青年自身も奇異の目で見られるようになった。

 魔よけの品を気味悪がられ、母や弟妹の死をはじめとする不幸を呼んだ不吉な者だとウワサされ、村人たちは青年から話しかけられたり視線を向けられるのを恐れた。

 無駄な努力。




 追いこまれていく青年に思いがけず力を貸してくれた人物がいた。すっかり年老いた父親だ。何もいわずに青年の仕事を手助けする。

 謝るだとか許すとか、そういう空気でもない。だが一番つらい時に父は何も言わずに青年の負担を減らしてくれた。ぎくしゃくとした雰囲気と歯車と石臼の音の中、黙々と働く親子の間には恨み以外の、もっと素朴で温かな感情もわずかながら見えかくれした。

 ほんの少しでも、あいまいでも、たしかにそれはあったのだ。


 水車小屋の歯車に父が巻きこまれるまでは。


 助けようにも、どうしようもない。

 無駄な努力。

 どんな手を施しても、どうにもできない。

 無駄な努力。無駄な努力。


 重く巨大な機械にのみこまれていった父のズボンの足首側に、不自然にぬれた痕があった気がした。

 証拠はもう確かめようがないけれど。




 どうにかここまで踏んばってきたが、もう潮時だ。

 この仕事を止めさせてほしい、と領主の使用人を介して懇願する。

 願いが聞き入れられることはなかった。

 皮肉にも、新型水車の功績を領主は高く評価し青年を手放したがらない。


 しかし能力が気に入られていたおかげで、幸運にもこのたびの直談判にこぎつけられた。

 豪華なイスに腰かける領主の前で青年は床にひざまずく。

 礼儀と分をわきまえながら要望を端的に伝える。


(いとま)がほしい、か」

 

 水車を使うのをイヤがり禁止の手回し臼を所有して罰を受ける村人が以前は後を絶たなかったが、このごろは見せしめの処刑もしなくてすんでいるではないか、と領主はご機嫌だ。


「お前の優秀さは認めてやっているんだ。それよりも不名誉なウワサ話をどうにかせよ。魔術師などと……」


 青年の首にジャラジャラ巻きつく、効果があるのかないのかわからない魔よけの首飾り。杖の先でコツリと小突かれた。


「魔物とはいえ、うら若き娘から言い寄られるのはまんざらでもあるまい?」


 言葉の意味が理解できず、思考が固まった。


「火遊びの代償は高くついたじゃないか? うん?」


「……何をおっしゃっているのか……」


 小バカにするような領主の顔。

 壁際でじっとひかえている使用人たちは心からの軽蔑をこめた冷ややかな視線で青年を見ている。

 何かとんでもない思い違いをされている。どうすれば事実をわかってもらえるだろうか。


 領主の合図。水差しを持った使用人がうやうやしくそれをさし出す。立ち上がった領主は銀の水差しを自ら手に取って中身をぜんぶ青年の頭にぶちまけた。ぬれた髪から水がぱたぱたしたたり落ちる。


「色男め。厄介ごとを引き起こしてくれたな」


 弁解しなくては。

 口を開いた途端に高価なクツで蹴りつけられる。


「お前のふるまいで私が不利益をこうむっている。利口なお前なら、その口から垂らして良い言葉が一つだけだとわかるな?」


 姿勢を正して深く深くひれ伏した。


「大変申し訳ございません」


 一切の敵意を感じさせず不要な卑屈さも見せない。この手の輩に怯えがバレてしまうとより状況が悪くなるのは、気弱だった幼少期に経験済みだ。


 領主の煮えたぎった腹も少しはおさまったようだ。

 状況を注意深く見計らい、青年は領主に気持ちよく話をさせながら一つの結論にむけてこっそりと誘導していく。

 青年はもう用済みで水車小屋には新たな主が必要であり、それこそが領主にとってより大きな利益を生む選択である、と。

 短い回答と相づちで青年は領主本人がそう判断するようにしむけた。

 後任をつとめる者が用意できたら仕事から解放してくれると領主は約束してくれた。




 あと少しの辛抱だ。この義務さえ果たせば、水の魔物から離れられる。

 そんな希望もすぐについえる。

 水の魔物を恐れて見習いたちはみんな一年足らずで水車小屋から逃げ出した。

 無駄な努力。無駄な努力。無駄な努力。


 逃げた見習いはこんなウワサをいいふらす。

 ――気をつけろ。あの水車小屋の親方は気難しい魔法使いだ。

 ――水の魔物を妻にむかえるつもりらしい。

 ――陰気な顔そのままの神経質でヤなヤツです。出てくる食事だけは最高でした。

 新しい見習いも、いつしかまったくこなくなった。




 月日と川は淡々と流れていく。一方向にすぎていく。

 精悍な青年の体からはだんだんと若さが去り、無力感とあきらめと疲れがずっと居座るようになってきた。


 パサつく髪の一房を節くれだった指にからめる。

 とうとう本物のおっさんになってしまった、といつぞやの少年の顔を思い出して小さく笑う。

 笑ったつもりでいたのに表情がちっとも動かなくなっていた。

 もう仕事と生命を維持する最低限の行動以外は、何もできていない。


 水の魔物の執着はあいかわらずだ。


 今日も今日とてぬれた服をへばりつけて水門を開けにいく憂鬱な道のり。

 いつも川から聞こえてくる幸せそうな女の忍び笑いに顔を背ける。


 何年も続いたくり返しの毎日と今日の小さなちがいは、茂みに群がる三羽のカラス。人の気配を感じとりカラスは近くの木に飛び去った。三つのとがったクチバシはずっとしげみにむけられている。


 用心深い視線でしげみを探る。

 見つけたのは、低木のかげで必死に身を隠す四匹の小さな命。それぞれ毛の色のちがう子ネコたちが身を寄せ合っている。そばに親ネコの姿はない。


「……」


 賢いカラスたちの恨みを長引かせないように威嚇も反撃もせず、ただ四匹をサッと服にくるんで足早にその場を立ち去った。いくつかの傷もお土産に。




 命を見守り育む大仕事は、魔術師と呼ばれ孤立した男の心を満たしてくれた。

 荒れ放題になっていた家を片づける。汚れたまま放置していた食器やナベを新しいものにとりかえる。子ネコが誤飲するかもしれない小さなゴミまで見逃さない。


 自分よりも弱く、自分よりも大きな可能性を持っている存在。そんな相手を世話している限り、とるに足らない無価値な自分にも生きる権利があるのだと錯覚できる。

 子ネコの世話は大変でそれゆえに気がまぎれる。ぽやぽやの毛玉たちが日に日にしなやかで美しいネコへと成長していく。そんな時間の流れを四匹と共有するのは孤独な男の心からのよろこびだった。


 男はネコたちに安全と食事と名前と愛を与えた。ネコの名前はフローにローテ、ミルとフラウア。毛の色はみんなちがうが手足の先が白いのはおそろいだ。かわいい。


 黒ネコのフローは利発で活発。冒険心豊かで、遠くまで旅に出るのが好き。

 茶色いトラ縞のローテは水車小屋のそばをうろついて、つかまえたネズミや虫をよく見せにくる。

 子ネコの時からすでにミルは大柄だった。その後もすくすく成長し、食べて寝るのが至福の一時。

 フラウア。この白く弱々しいネコはとても臆病で警戒心が強い。おそらく耳が聞こえておらず、安全なせまい場所がお気に入り。


 ネコたちとすごす日々は幸せだった。

 死んだ父があれだけ望んでいた跡取りをさずかることは、きっとこの先もない。

 つちかってきた知識と技術を引きつぐ者だって、あらわれはしないだろう。

 子どものころはわずらわしいと思うくらいに賑やかだった家族も、クシの歯が欠けるように一人一人といなくなった。

 そんな男がようやく手にした新しい家族。かけがえのない大切な存在。




 だから。

 ある雨の朝。

 玄関の前に。

 水びたしで。

 横たわる。

 微動だにしない。

 三つの毛の塊を見た時。

 男は水の魔物にあらがうのを止めた。


 無駄な努力。知恵と意志があれば必ず魔物をしりぞけられる。無駄な努力。無駄な努力。逃げるなんて情けない。無駄な努力。無駄な努力。無駄な努力。いかなる時も強く厳格で合理的な判断を下す人物でなくては。無駄な努力。無駄な努力。無駄な努力。無駄な努力。領主の許可なく仕事を放棄して姿を消すなんて無責任は許されない。無駄な努力。無駄な努力。無駄な努力。無駄な努力。無駄な努力。無駄な努力。


 運命にあらがうのは無意味だとようやく理解した。




 三匹の墓を作ったり、姿の見えないフラウアを探したり、自分の代わりが来るまで主が不在となる水車小屋の手入れをするうちに夜になった。日中降り続いた雨は止んで空には満月。

 むかうのは貯水池。ふだんよりも勢いが増した川が流れていく。湿った土の匂いが鼻につく。


 池の水面に寝そべる乙女の姿を月明りがてらしだす。上半身を少し起こしたうつ伏せで、片方の手は顔にそえられ、もう片方は指先を水中にひたしている。白いスカートから伸びる脚が時々ぱたぱたと上下した。


「ずいぶんまったんだからね? 私は出会ったころよりキレイになったのに、あなたはやつれちゃった。安心して。キライになったりしない。そんなあなたでも好きなの。来てくれてうれしい……。強くて優しくて、人間の世界に居場所がなくなった水車小屋の嫌われ者。かわいそうに……私だけはずっとあなたの味方だからね……」


 どうでもいい。


「あぁ、どうしましょう! 私の心臓(・・)の高鳴りがここまで伝わってくる(・・・・・・)わ! これで私たち、ようやくお似合いの二人になれる。今までつらかったでしょうね……。そんな日々ももうおしまい!」


 どうにでもなれ。


「ねぇ、親切な粉ひきさん。魔物だってもとは人間だったのよ。私のステキな花婿さん。私とそいとげるのにふさわしい体に作り変えてあげるからね……。大丈夫! きっと成功すると思うの!」


 これまでの人生。知識と技術に対するプライド。作り上げてきた人物像。なけなしの自尊心。

 そういったものが自分の肉体から暴力的に引きはがされる。

 痛い。

 耐えがたい激痛。どうでもよくなんてなかった。

 この体はもうダメだ。心だけどこかに逃げ出したい。だれにも気づかれたくない。

 脂汗をじりじり流す顔にべっとりとはりついた髪。それを愛おしげにとり払うその手が、本当に本当に気持ちが悪い。乳白色のキレイな長い爪。

 人間そっくりに見える乙女の体は生ぬるい水の感触がする。爪と歯だけは硬く鋭い。肉食の凶暴な虫みたいに。


 早く終わりますように。

 いつかは必ず終わるはず。

 こんなに血をうしなっては人間が生きていられるわけがない。


 終わらない。

 みじめな男を丸い月が酷薄に見下ろしている。


「横顔もかっこいい。耳の形が好き。鼻筋のラインもキレイよね。ずっと見てられる……。でもちょっとだけ鼻が高い気がするわ。今より低めにしましょうね」


 耳のふちをついとなぞられ、耳たぶを軽くつままれる。


「身長は合格として……昔より貧相になったその体型はどうにかしなくちゃね。目は何色が良いかしら? 私とおそろい? 対になるような別の色? それもステキ。それじゃ大変だとは思うけど……理想の姿になるまで頑張って再生し続けてね」


 先ほど男の髪を丁寧に払ってやり、恋人気取りで耳をなでたのと同じ手が。

 長い爪の生えた女の手が。

 しなやかな動きでまた(・・)一振りされた。


 剥離、再生。摘出、再生。分解、再生。調整、再生。ダメ出し、再生。なんだかちょっと細かいところが気に入らなくって、再生。


「よく頑張ったね……。私のためにムリしてくれたの? ……そんなに想ってくれるなんてうれしい! 大事なあなたの心臓……。私があずかってあげるね」


 女の手にあるのは淡いスミレ色をした細工物のようなハート。男の心臓だ。それはもはや血液を送り出す生物的な器官ではなくなり、不思議な力と魔物の精神が心臓に似た形をとっただけのものに変容していた。

 水の乙女の爪がギチギチと伸びる。

 

「……ごめんね。この先一生絶対に反撃できない(キライにならない)ように心臓をいじらせてね」


 申し訳なさそうな困り顔の笑顔でそう断りをいれる。返事なんておかまいなし。

 スミレ色の心臓に不可逆的な破壊が加えられた。




 望みをかなえた魔物の歓喜の瞬間。

 か細い白が飛びかかる。

 毛を逆立たせたフラウアが乙女の腕に喰らいつく。


 水の球がぱしゅんと弾けて、その奥に何か……爪と同じ色をした細長い……骨ではない組織。それが束の間露出した。


「やめてっ!!」


 魔物はフラウアの小さな体を容赦なく振り払う。


「……あ、あぁ、びっくりした……。いきなり襲ってくるなんてなんなの……。ひどい」


 被害者面で腕の具合を確かめる。すぐに水が集まって、元どおりへと修復された。そうやって少しばかり目をそらしたその間に運命の流れは大きく変わった。

 理想の花婿。弱らせた心臓。白いネコ。どれ一つとして見当たらない。




 満月の光で体はすぐに再生しても、壊れかけの心臓では思いどおりには逃げられない。

 ケガをしたフラウアを抱きかかえ、おそろしい魔物から逃れたい一心で発動させた魔法。そうしてネコといっしょに姿を消した。


 貯水池からも村からも離れた森の奥でフラウアの呼吸はだんだん弱くなっていく。ふつうの生きものはこんな大ケガを負えば死んでしまう。

 どんなに強く祈っても願ってみても、魔法の力で傷を癒すことはできなかった。

 命をよみがえらせるなんて奇跡も、起こせない。


 これで本当に一人ぼっちになってしまった。

 唯一残った自分でさえも受け入れがたいほどに気持ちが悪い。

 今の体は、水の乙女好みに仕立てられている。

 空を見上げる。そこにはまだ満月がある。




 今度こそ自分の心にしっくりくる体になった。

 とがり鼻にとがり耳。ちっぽけな体には不つりあいな大きすぎる異形の手足がついている。その細く長い指と指の間にあるのはなめらかな皮膜。水かきだ。その肌は血の気の失せたアイスグリーンの色あいで、恨みをはらんだ陰鬱な長髪がずろりと垂れ下がっていた。


挿絵(By みてみん)


 それは不気味で、奇抜で、滑稽な。

 心壊れた小鬼の姿。

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[良い点] まさかのシボッツ!?
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