45・思い出
父の酒びたりは村でも有名で、自分自身はつまらない人間だ。自分の妻になっても良いという女性なんていないだろう。
そんな青年の予測ははずれる。
婚姻の仲介を生きがいにしている村のおばさんに相談して一週間後。想像よりもはるかに多くの手が挙がったようだ。
水車大工の老人と共に開発した新型水車の性能を領主から認められた。村人からも好評だ。これで青年の価値が急上昇した。
厳格な堅物という人物像を演じながら年ごろの女性と親密で個人的な交流をする、なんて矛盾した器用なマネは青年にはできない。そういう点までも好意的に解釈されたようだ。浮ついたところがない信頼できる青年だと。
跡取りの話を持ち出してから父の酒癖が落ち着いてきているのも、要因の一つかもしれない。
女性たちから自分によせられた感情が愛ではないことを青年はよく理解していた。
家族を作り子をなすことを期待されているのは自分だけではない。たんにその相手として都合がよかったということにすぎない。問題ありの父の存在など、すべてにおいて優良な条件をそなえているわけではないが、娘を嫁がせる相手としてまずまず悪くはないだろうと。青年はほかの家々からそう判断された。それだけの話だ。
打算。保身。焦燥。義務。
仮に最初はそういった気持ちから結ばれた縁であっても、家族として共に暮らしていく大切な相手だ。ぜったいに守ろうと思った。
夕方に貯水池の水門を閉じにむかう。こうしておけば明日の朝に仕事をはじめる時にはたっぷり水を使うことができる。
この水門にもちょっとした改良をくわえたのだ。開閉に使うハンドルをより小さな力でも回せるようにした。こうするとかえって力の伝達効率は落ちてしまうのだが、なにせ休みの日以外は朝晩必ずこなす作業だ。多少時間がかかっても体への負担が少ない方が長期的には楽ができる。
水門を閉じ終えた時、貯水池の方から奇妙な気配を感じた。
池の奥。夏の赤い夕暮れの中。鏡面のような池の上。水に沈むことのない人影。
許しをこうごとくうなだれる髪の長い女性の姿があった。
魔物だ。
この世界の理に叛き異形と異能を得た存在。
生きた心地がしないまま、青年はおびえたそぶりは見せずに用心深く逃げる機会をうかがった。
「……助けて」
どんな恐ろしい呪いの言葉が飛んでくるのかと思えば、魔物が放ったのは助けを求める弱々しい声だった。
その体には細く赤い糸が痛々しく絡みついている。
魔物への恐怖心と良心のせめぎあい。
青年はナイフを取り出した。細い枝やツル草を断ち切れるぐらいの仕事用の小さな刃物。それを池から少し離れた木の根元におく。
「糸を切る道具はかしてやる。……この下には村がある。村人たちが魔物に気づけば大さわぎになるだろう。用が済んだらすぐに立ち去ることだ」
「あぁ……それじゃダメ……。私の力じゃこれはとけない。だれか親切な人に助けてもらうしかないの。助けて、お願い。金の戦斧も銀の剣も必要ないわ。その鉄のナイフで糸を断ち切ってくれるだけで良いの」
「動くな。俺が良いというまでそこにいろ」
水の乙女から目を放さずにナイフを回収。それからナイフをかまえたまま用心深く周囲の気配をさぐる。
鋭い目つきでそれらしく索敵のまねごとをしたが、青年には実際何もわからなかった。冷静沈着で威厳のあるたよれる男性を装っているだけで、中身はただの心配性の臆病者でしかない。
少なくとも素人に見破られるようなマヌケな潜伏者はいないようだ。
青年は水の魔物のケガを一瞥し、ため息をつく。
「……きなさい」
糸に縛られたぎこちない動きで水の乙女がゆっくりと近づいてくる。時々かすかなうめき声が聞こえた。
青年は険しい顔をしたまま池のふちまで足を進めていた。もう一歩ふみ出せば水に落ちてしまうほど。
今や手でさわれるほどの距離に魔物がいる。呪いの糸に束縛された水の乙女は頭をたれて救済があたえられるのを静かにまっている。
近くで見る魔物の体は悲痛なありさまだった。糸の下には血がにじんでいる。打ち身のアザやすり傷だらけ。下半身は異形。魚体ではなく、泥にまみれたよくわからない細長い塊。
おそろしいとは少しも思わなかったといえばウソになる。
それ以上に助けになりたいと思った。
青年は慎重にナイフの刃で糸を切っていく。作業の中でわずかにふれた魔物の肌は堅く冷えたロウか石けんのようだった。不気味さに思わず鳥肌がたつ。同時に、気味が悪いと感じてしまった罪の意識で一人気まずくなる。ついしかめた顔が水に映って魔物に見えていないようにと青年は祈った。
「……ありがとう。人からこんなに優しくしてもらったの、はじめて……」
「……」
青年はだまっている。むやみに耳障りの良い言葉をかけてはいけない。苦痛をとりのぞく手助けをするだけだ。
それでも無口な青年の手には、しいたげられた者への深いいたわりがこめられていた。
シボッツのネコたちはまだ戻らず、廃墟の村もナゾめいている。
川にいるクルガフィカとオヤツを食べたり、おしゃべりしたり、遊んだりしながら楽しい日々がすぎていく。
今日マカディオスたちは水着装備で川をおとずれた。
コミカルタッチのワニがかかれた黄緑のサーフパンツにバナナイエローの開襟シャツで、遊ぶ気満々のマカディオス。
水場の調査という名目をかかげてマジメぶりつつ、フリルいっぱいでパステルカラーのかわいい水着を妖精市場で時間をかけてえらんできたセティノア。
ダイナは水に入らず傍観者を決めこむつもりだ。うすく透ける生地のシャツとショートパンツで軽やかな夏の出で立ち。楽器を奏でる指先を守るため腰ベルトにはグローブホルダー。
魔女の屋敷にいるヨトゥクルにも声をかけたのだが、水着なんてムリ! を連呼されて断られてしまった。
クルガフィカが困惑気味に質問する。
「どうしたのそのかっこう……」
「クルガフィカといっしょに遊ぼうと思って! 今日は泳ぐぜ!」
「え? あぁ……っ、ダメダメ! あ、あっ、ちがうの、ごめんなさいっ! ダメっていうのはいっしょに遊ばないってことじゃなくて、この川ではぜったい泳いじゃダメってこと。すごく危ないの!」
おだやかに見える川でも命をうばいかねないおそろしいものなのだ。クルガフィカが真剣な声で伝えてくる。
「岸が砂浜になっているでしょう? 急に深くなるし、砂に足をとられて水底をけったりふんばったりもできないし、浅瀬の砂地に戻ろうとしても手足がふれた場所が次々にくずれていくの。助けて、なんて叫ぼうものなら肺まで水をすいこんで、息ができない激痛を味わいながら静かに静かにしずんでしまうのよ」
水に住む魔物がいうとイヤになまなましい。
「オレもダメ?」
「どんなに強くても、水の中で息ができなければ死んじゃうでしょう?」
クルガフィカは川の危険をあげていく。
川は海よりも体が浮きにくいこと。
一方に規則正しく流れが進んでいるように見えても、水面下では複雑に流れている場合もあること。
上流で雨がふれば急に水かさが増すこと。
「あの村の人たちもここで泳いだりはしなかったもの」
「クルガフィカは村に人がいた時代をしってんのか!?」
「ええ。だいぶ昔の話だけど。……ここにはたまにふらっと寄りたくなるのよね。百年に一度とか、それくらい」
クルガフィカはかなり長い時間を生き抜いてきた魔物らしい。
オモテ側は魔物にとって生きづらい場所なのに。
水を生活の場にしているクルガフィカなら、正答の教導者をさけやすいのかもしれないが。
「ここには特別な何かがあるということでぃすか?」
奇妙な祭りがおこなわれていただとか。
魔物の活力が高まるパワースポットだとか。
村の不思議に迫る手がかりを期待してセティノアが尋ねた。
「ええと……思い出の場所なの」
ひかえめな声でそう口にしたクルガフィカの頬と目元にほのかな桃色がさす。
その表情でセティノアとダイナは何かを察したようだ。
「そうでぃすか。クルガフィカにとって大切な場所なのでぃすね」
水の乙女は恥じらうようにやわらかくほほ笑んだ。
「ええ。けっきょく私の望みはかなわなかったけれど、忘れたくないステキな思い出……」
「ハワァーッ! 聞きたいでぃす!」
聞きたくありませーん。そんなのぜったいつまんない!
マカディオスは腹の底からそう思ったが、すなおに口にすればロクなことにはならないのはわかっていた。セティノアにきぃきぃ声で叱られ、ダイナはニヤついた顔でそれをながめるにちがいない。
仏頂面のお口チャックで腕組みをするのがマカディオスのささやかな反抗だった。
クルガフィカは昔の話をはじめる。
人間だったころから何かと誤解されてひどい目にあうことが多かった。ハッキリとしない言動で目の敵にされたかと思えば、一方的な好意にふりまわされてこわい思いをしたり。共同体の中で騒動が起きた時、おどおどとした態度を不審がられて濡れ衣を着せられたり。自分に罪がないと強く主張もできず、汚名をそそぐこともできないまま。
「どれも私の性格のせい……。自業自得、なんだけど」
そんなこんなが積み重なって、ついに命の危機にまでさらされた時、クルガフィカは魔物となる。
それでも自由にはなれなかった。彼女を苦しめてきた者の念が呪いと化して、赤い糸が肌に絡みつき身を引き裂く。
「その呪いをといてくれたのが親切な粉ひきさん。この上流にある池で出会ったの。たいしたお礼なんてできなくて、私にできるのはせいぜい魚をとどけるとかそんなささいなことで……。でも、贈りものを用意するその時間はすごく心が満たされたの」
水中に咲く白い藻の花みたいにクルガフィカの顔が小さな幸せでほころぶ。
マカディオスは奥歯にカメムシがはさまったような気分だ。
まーったくおもしろくない!
「フフ、歌の題材になりそうだね」
すぐにヘンテコな替え歌を作ってやる。ミミズとナメクジの最強決定戦の応援歌がいい。
「それじゃ水車や水門がまだ残っているのもクルガフィカのおかげなのでぃす? 助けてくれた粉ひきへの恩返しに、壊れねーよう魔法をかけたとか?」
ちょっとは興味のわく話題になりそうだ。
ふてくされていたマカディオスはしっかりと顔をあげて話を聞く。
「私にそんな力はないわ。そうね……そういわれてみると……。長いことたつのにちっとも壊れない。変よねぇ」
「ははーん。クルガフィカ、さてはあんまり深く物事を考えないタイプだね」
「はぁ、ナゾの解明は遠いでぃすの……」
がっくりとしたセティノアをクルガフィカが気遣う。
「あら……元気を出してね。私もよくわからないのだけれど、こんな風に思うの。魔法の力の源は心でしょう? どんな不思議なことにも、きっとだれかの想いが関係してるって」
マカディオスは想像してみた。
気の遠くなるような昔から大雨にも嵐にも耐え抜いて、夏の日差しと凍てつく冬に何度も何度も身を削られ、今もなお動き続ける水車のことを。
そこにはだれのどんな心がこめられているのだろうかと。




