40・哀歓悲喜の大演奏会
物悲しい音が鳴りひびく街で、次々に人が深い眠りに落ちている。苦しみから解放されたような穏やかな顔で安らかな寝息を立てている。ところかまわず、いたる場所で。
一度眠りに落ちた者は肩を叩いても、体をゆすっても、ほっぺをつねっても目を覚まさない。マカディオスもサソリ固めをしたりキャメルクラッチをかけてみたが、ムダだった。ダイナが紙で作ったコヨリを寝ている人の鼻にぐりんぐりん突っこんでかき回しても起きなかった。
「どうなってんだか、もう!」
マカディオスはダイナに見張りを頼み、建物の陰で鳥笛の中のセティノアに呼びかけた。
「セティノア、起きてるかっ?」
「大丈夫でぃすわ! 気を抜くとウトウトしてきますけど」
奇妙な音の影響を受けてはいるが、喫茶店でメロが感じた眠気よりは浅そうだ。
「この音楽に耳をかたむけていると、昔あったイヤなことがどんどん心に浮かんできて、元気がなくなってく気がします……。マカディオスとダイナは大丈夫なのでぃすか?」
「オレら二人ともへっちゃらだぜ! 喫茶店のマスターも平気だった。メロはかなり眠そうだったけど持ちこたえたぜ。街の人にも教導者にも、寝てる人もいりゃ起きてる人もいる」
「同じ音楽を聴いていても、人それぞれ眠気の強さが違うのでぃすね。セティはシボッツと違って魔法の分析なんて芸当はできゃーしません。なので感覚的な推測になりますが、これは心の元気さが低めの人をスヤァ……と安らかな眠りにいざなう魔法なんじゃねーでぃしょうか」
この魔法で眠った人たちをどうやっても起こすことはできなかった。もしもずっと目覚めないままだとしたら……。
「考えを聞かせてくれてありがとうな。ちょいとこの演奏を止めてもらいにいくぜ」
「そういうことならセティも外に出ています。この先絶対、厄介なことが起きそうでぃすから」
自力で動ける人たちは街から逃げ出そうとしていた。マカディオスたち三人は人の流れに逆らって音が聞こえてくる方向に足を向ける。
三人のだれも口にしないが、異変の原因はヨトゥクルの暴走だと直感していた。
魔法を止めるためにヨトゥクルの命をうばう……? そんなのはイヤだ。さけたい選択だ。
ヨトゥクルを落ち着かせ、魔法をとめる。これだ、そうしたい。魔法で眠っていた人たちも目を覚まして元どおりに、我に返ったヨトゥクルを魔物が暮らしやすいウラ側へと案内する。そうだ、これでいこう。マカディオスはそう決めた。
若い家族連れはオムツや哺乳瓶を詰め込んだ大荷物と子どもを抱えてドタバタと逃げていく。
非常事態に血が騒いだのか率先して人を手助けしている人もいる。ちっとも眠くなさそう。
今にも足を止めそうな生気の薄い大人を父親らしきヨボヨボの老人が必死に腕を引っぱり連れて行こうとして、転倒。眠りに落ちた大きな子どもの隣で打ちひしがれる父も、やがてすべてに観念して身を横たえた。
フラフラとした足どりの教導者がだれにともなく呼びかける。
「魔物化した人間は社会全体の害でしかない。期待されている役目を果たさないどころか、ほかの人間の足まで引っ張る! 身勝手な出来損ないのせいで、マトモな人間が道連れにされるなんてことがゆるされるわけがない」
760aの住民の数人が何か言いたげな顔でこの言葉を聞いていた。
「眠った者たちはだれもも目を覚まさない。死をふりまくつもりか? ……死にたいのなら、まわりを巻きこまずに一人で勝手に死んでくれ!!!」
そのとおりだとうなづく者もいた。本当にいい迷惑だと同調する者もいた。
何人かは思うところのある顔で静かに首を横にふる。無精ヒゲに部屋着姿で古びた楽器ケースだけ持ち出した老人が、へへっと乾いた笑いを浮かべてつぶやく。
「あーあー、気持ちはわかるが、んなこと叫んだって良いこと一つもないだろうによ。んなこと言ったら、人を苦しめて喜ぶバカはますます人を憎んで悪さをするさ。ギリギリで踏みとどまってる危なっかしいバカの背中を押しちまう。素直で優しいバカは勝手に思い詰めるしよ。あーあー、しょうもないしょうもない」
広場に近づくにつれ、すれ違う人の数は減っていく。周囲にはもはや動く人影はなく、甘美な眠りに逆らえなかった人々が倒れふしているだけだ。
そして不吉な灰色のモヤが増えてくる。壁や街路樹にへばりつくようにただようそれは、ヨトゥクルの頭部をおおっていたヒツジ状のモヤによく似ている。
地面をゆっくりと這うように流れるモヤを小柄なセティノアは吸いこんでしまった。
「ヴェ……。これはマズいでぃす……」
「どうした?」
モヤを吸ったセティノアは、まるで何日も徹夜を続けた時のような頭痛、吐き気、めまいに襲われる。思考力はガクッと落ちて動作もおぼつかない。モヤのない場所で一休みして、セティノアはマカディオスの肩に乗って移動することに。
ダイナが手でパタパタあおぐとモヤは散っていった。
「このモヤ、空気の流れの影響を受けるみたいだね。風むきには気をつけとこうか」
760aの住民にとって名誉と成功の象徴の一つ、中央広場の立派な野外ステージ。自然の雲よりもずっと低い位置に、灰色の奇妙なヒツジ雲がもこもことわき出していた。ヴァイオリンの旋律はそこからひびいてくるようだ。
マカディオスが目をこらすと、雲の奥に犬のようでもあり人のようでもあるシルエットが見える。ヨトゥクルは胎児のように丸まって眠っている。
「ヨトゥクル……」
マカディオスの口からこぼれた呼びかけに、とうぜん返事はなかった。
ふがいない自分。とどかない希望。おそろしい世間。さけがたい破滅。
ヨトゥクルはただ休みたかった。目を閉じて、何も苦しまずに眠りたい。心乱れる夢を見ることなく、他人に乗りうつることもない、ごく普通の眠りを欲していた。そしてそのまま、二度と目が覚めなければ最高だ。そう思ってしまった。
まどろみの中にあるヨトゥクルの意識は、人々を安らかな眠りにさそう音楽を街中にひびかせていることなどつゆ知らず。
魔力がこもったヴァイオリンの音色はヨトゥクルと同じ思いを持つ者を救済する。このまま生き続けるのが苦しいと思う人に優しい世界を見せてあげている。
マカディオスたちはどうすれば良いか迷った。
眠っている相手を説得して落ち着かせることはできないし、魔法で眠らされた人々のようすからして外的な刺激でヨトゥクルを起こすのはまず不可能だろう。
ヨトゥクルをウラの世界に連れて行こうにも不可能だ。セティノアと同行者が接触している状態で魔法陣に入らなければ転移はできない。まずは雲の中からヨトゥクルを引きずり出さなければ。
ほかにとれる解決策は魔法の大本であるヨトゥクルを倒すこと。魔力を帯びたヒツジ雲の中で浮かんでいるが、マカディオスの強肩なら充分に投擲の圏内だ。そこの地面に転がる紳士のステッキを槍投げの要領で飛ばせば、きっとヨトゥクルの心臓を一撃で貫ける。街路樹を豪快に引き抜いて武器にしたって良い。
「おーい!!! 寝てる場合じゃねえぞ! 起きろーっ!」
だがマカディオスがヨトゥクルに投げかけたのは言葉だった。
「マカディオス……。気持ちはわかりますが、いくら大声を出したところでヨトゥクルが目覚めるとは……」
沈痛な面持ちでつぶやいたセティノアは、嘆き悲しむようなヴァイオリンの音色の中で、ふとあることに思い至る。
「……精神に影響をおよぼす音の魔法。外部に干渉している以上、外部からも干渉し返せる……?」
ヨトゥクルに対して音を通じて介入できるのではないか。セティノアがつぶやいた仮説にマカディオスは喰いついた。
「よっしゃ! やってみようぜ」
「ちょうど760aで一番巨大な楽器もすぐそこにあるしね」
モヤの影響さえどうにかできれば、パイプオルガンの演奏台にたどり着ける。街の中では二度と楽器を弾かないと決めていたダイナが折れた。
「二人とも! これは想像の域を出ねーのでぃすよ! もしセティが間違っていたら……」
「そんときゃオレといっしょにダメだったーってうぉんうぉん泣くのにつきあってくれよな!」
マカディオスは立ちこめるモヤにむかって掌底を突き出す。鼓膜を低く震わせる音。風圧。一直線に空気が晴れる。マカディオスが作った安全な道をダイナとセティノアがかけていく。演奏台を目指して。
モヤにぼんやりと浮かんだ無数の顔が一斉にダイナを凝視する。這いよるように近づくモヤをマカディオスは優雅なスピンで蹴散らした。物悲しいヴァイオリンの音楽にあわせて、マカディオスの手先や表情も悲哀を帯びた美しさになるよう気を使っている。この沈痛な音楽には上品で洗練された踊りが似合う。
ヴァイオリンの旋律にあわせてダイナがパイプオルガンを鳴らす。重厚で存在感のある音が加わった。
「うわっ、大きな音でぃすの……。これで眠りの音楽をかき消してヨトゥクルを起こすというわけでぃすね?」
「いんやー」
演奏の手と足を止めずにダイナが答えた。
ヨトゥクルが無意識に吐き出している彼の音楽。それをより大きな音でなかったことにしたところで、ダイナには何かが解決するとは思えない。
単調な音にほかの音を寄りそわせて一つの音楽として調和させる。そうして永遠の眠りの音楽を別物に変えてしまう。それがダイナのねらい。
モヤがステージの方にむかわないようマカディオスは風を巻き起こして踊り続ける。息切れもせず体幹はしっかりと伸び、足はもつれず手はしなやかだ。
そんなマカディオスが踊りを止めたのは疲れたからではなく人の気配を感じ取ったからだ。迷いがないが用心深い足どりでだれかが近づいてくる。
「マカディオス。やっぱりここにいたのか」
イズムだった。彼もまたヨトゥクルの存在をしっている。危険を承知で見に来てくれた。ヴァイオリンの音にパイプオルガンの音色がくわわったことで、広場にだれかいるとふんだのだろう。
ステージ上のダイナの背中を見てイズムはその意図を理解した。目をふせながら頭と足をゆらして音楽の流れを把握する。
イズムがいつも持ち歩いているドラムスティックで近くの建物の雨どいを軽快に叩く。緑青がふいた銅製の雨どいは、雨ふりの休日の子どもの地団駄みたいな音を立てる。
鉄製のフェンスを叩けば、エサをついばみながらチョコチョコ飛び歩く小鳥の足音が聞こえるようだった。
{……わぁ。せっかく心配してきてみれば、なんつー酔狂なヤツら……。ホント何してんの?}
メロの声だ。もう眠たげな感じは少しもしない。髪形と服装が違う瓜二つの女性もいっしょだ。おっとりとした表情でふんわりとしたポニーテールをゆったこの人は、メロの双子の姉フレーゼ。眠りの音楽で街が混乱したことで、教導者のもとから連れ出すことができたのだろう。
メロの手にはフライパンとナベのフタ。頭にはブリキのバケツ。ちゃっかり武装してきている。
「いいもの持ってきてくれた。かして」
{これ、私のじゃなくておじいさんの喫茶店からのかりものなわけ。こんな非常事態だからわたすけど、丁寧にあつかってよね}
メロはブツクサ文句を言いながらイズムに金物類を提供した。
{アンタたちがとんでもなくバカなことやろうとしてるの、丸わかりなんだけど}
そう言ったメロは、隣に立つ双子の姉フレーゼの方をそろりとうかがった。
「いいよ、メロちゃん。みんなと協力したいんでしょ?」
{……まあね}
合図らしい合図もなしで、二人まったく同じタイミングで即興のハミングをそえる。双子歌手の息は驚異的なまでにぴったりだ。フレーゼの肉声とメロの機械音声がからみあう新感覚の重唱が、心地良く耳をくすぐる。
声をそろえて歌う双子の手は、どちらからともなくしっかりと繋がれていた。
鮮やかなマーチングフラッグが魔法のモヤをふり払う。広場にやってきたのは大勢の中高年たちだ。みんな楽器や旗をたずさえている。お腹に抱えるドラム。肩から下げる木琴、鉄琴。トランペットにユーフォニアム。巨大な貝のようなスーザフォン。
マーチングバンドの列でサクソフォンを吹くモニクとマカディオスの視線があった。
演奏を聞きつけて、街のあちらこちらから参加者が増えていく。
部屋着姿の無精ヒゲおじさんが酸いも甘いも噛みしめた味わい深い顔でギターを弾く。上品に着飾ったおばさんがぽってりとした色白の指で竪ハープをかなでる。アゴゴベルをリズミカルに叩きながら、仲間たちと飛び跳ねてモヤを吹き飛ばす手伝いをする若者。メロとフリーゼのそばでやけに気合の入ったダンスに没頭する者たちも……。
音楽は、時に苦しい。
すぐに思いどおりの音を出せるわけじゃない。
実力をつけるため、何かを犠牲にして練習に打ちこむ。
まわりとくらべて惨めになったり、傲慢に人を見下したり。
投げ出したくなるような失敗もある。
自分や自分が作り出す音に、なんの価値もないように思える夜もある。
ノドをからして叫んだ渾身の歌だって、気が遠くなるような練習を重ねて弾いたあの曲も、空気に溶けて消えていく。だれかの心を震わせることもなく。
ここにあつまってきたのは、それでも表現としての音楽をすてきれずにいるどこまでもあきらめの悪い者たちだ。
憎き魔物を倒すために演奏している者はだれもいない。
魔物に変わるほどの苦悩におちいった仲間が、取り返しのつかない過ちを犯してしまう前になんとか喰い止めたい。ただそう思っている。
広場上空のモヤはだんだんと薄くなり、それまで宙に浮いていたヨトゥクルの体が急に地面へと引きよせられる。
「おおっと! 地面よりもオレの腕の中がオススメだぜ」
マカディオスが軽々とヨトゥクルをキャッチすれば、われんばかりの大歓声があがる。
眠っていた街の人たちも起きはじめたようだ。ということは、正答の教導者たちも眠りから覚めているはず。このままここに留まっていては面倒なことになるといち早く気づいたのはセティノアだった。
「ヒィイイ……ッ! い、以上で演奏は終了いたしました。みなさまっ、本日はまことにありがとうございましたー!!!」
あわてて転移陣をかいた紙を取り出すと、ヨトゥクルを抱えたマカディオスをステージの上に呼びよせて、気取ったお辞儀をしているダイナを引っ張り、みんないっしょに一目散に魔法陣の中へと飛びこんだ。
人混みをかき分けながら遅れてやってきた正答の教導者は、ステージの上に残された不審な紙を回収しようと手を伸ばす。
「あっ」
その手はむなしく空を切る。爽快な初夏の風が薄っぺらい紙をかっさらっていく。雲もモヤもない、まぶしい青空へと。
主不在の魔女の屋敷。たくさんある空き部屋の一つにヨトゥクルを寝かせる。気力と体力を使い果たし、ぐったりとしている。今は休息が必要だろう。
「おやすみ」
小さなテーブルの上に水差しとコップそれから簡単に状況を説明するメモを残して、マカディオスは静かにドアを閉じて立ち去った。
ヨトゥクルから頼まれていたのに広場のオブジェに結びつけることなく手元に残った青いビーズ。マカディオスはそれを申しわけなさそうにポケットにしまいこんだ。
廊下で二匹のネコと出くわす。シボッツの飼いネコ、ローテとミルは一足先にこっちに戻ってきていた。シボッツにはほかにもネコがいたはずだ。いずれ会うことになるだろうか。
落ち着いたらまたシボッツとウィッテンペンを探しにオモテの探検にむかうつもりだ。また二人に会いたい。それがマカディオスの願いだ。
マカディオスはお世話になったネコたちに感謝の気持ちをこめて抱っこしようとしたのだが、ローテはするりと逃げてしまった。
「そりゃあないぜ!」
逃げ遅れたミルの灰色の毛皮に顔をうずめて、ローテにそっけなくされた悲しみをモフモフと癒す。
ある一室からセティノアとダイナの話し声が聞こえてくる。
「とっさにこっちに連れてきちまいましたが、こっそりとオモテに帰すことだってできるんでぃすよ?」
「いやー。帰してもらったところで正答の教導者にとっ捕まって、こってり絞られちゃうよ。そんなの悲惨すぎる!!! お先真っ暗じゃないか!!! 絶対ヤダ!!! 助けて!!! 私、この家の子になる!!!」
「ヒギャァッ!? 泣き叫びながらスカートにしがみつかねーでもらえます!?」
「うん、ごめん。あと現実的な話、大家さんが私の荷物を処分する前に大事なものを取りに行きたい。大事なバンドネオンとか、お気に入りのヒールとか、いつも使ってる化粧品とか」
「……はぁ」
セティノアが大きくため息をついた。
マカディオスは大切に保管していたジャンボパフェの予約券を取り出して眺めている。結局今回もパフェを食べ損ねてしまった。
けれどもそれほどガッカリはしていない。チケットの裏には、モニクからのメッセージが追加されている。眠りの音楽が鳴る中、喫茶店に避難した時に書いてくれたものだ。
幸運を祈る言葉と、特例で期間無制限のスペシャルチケットに変更するという記載。
人間は儚い存在だ。この予約券は本当の意味では無制限ではない。そんなことはマカディオスにもわかっている。
だけど本当に。真実の話。永遠を手にしている気持ちにもなるのだ。




