36・夢に破れ、夢を見る
ダイナは湿ったタオルを洗濯もののカゴにぽいっと放りこんだ。
せま苦しいキッチンに立つと、マグカップに純ココアの粉と砂糖とお湯をぶちこんでココアを作ってくれた。
「ほれ。好きじゃろうココア」
なぜかいきなりの老人口調でマグカップを差し出す。
ダイナは特に深い意味もなくナゾのノリで接してくることがある。反応に迷ったらべつにスルーしても大丈夫。ノリが悪いだなんて責めたりしない。
今のマカディオスだって普通にココアを受け取った。
「本降りになる前に帰ってこられて良かったね。昨日はカルボナーラだったから、今日のパスタはミートソースにしよう。最初セティノアは食事の時も姿を見せてくれなかったけど、このところはいっしょにご飯食べるようになったよね。遠慮してるのか食べる量はちょびっとだけど。マカディオス、セティノアの好物って知ってる?」
ダイナは。
しょうもないことがツボに入ってよく笑う。
自分にそっけないセティノアのことも気にかけている。
手間いらずの料理が好きで、いっしょに食べると楽しくておいしい。
ダイナは。
音楽の才能をムダにしているらしい。
わざわざ人気のない場所に行って楽器を弾き、街の中ではずっと演奏してない。
ウラや魔物に強い関心を持っていて、マカディオスとセティノアを街に招き入れた。
「ダイナはこの街で……」
「うん?」
途中で言葉につまる。
手の中のマグカップの感触を確かめる。
本人が言わないことに触れる。ピリピリとした緊迫感。
この話題を切り出した後、前のようにダイナと楽しくすごせるのかというぼんやりとした恐怖。
「どうやら私の有名エピソードを話す時がきたようだね」
ダイナの反応は拍子抜けするほどあっけらかんとしたものだった。
「たいしたことじゃない。私は音楽家を目指すのを早めにリタイアしただけ。勝手に期待をよせた人たちはそれがすごく許せないみたいだけど」
オモテの空気をマカディオスもだんだんと理解してきている。オモテの人間は、世の中から求められる役割を果たすことを何よりも重んじる。そういう空気の中で生まれて暮らして死んでいく。
期待される役割は個人の気まぐれで簡単に投げ出せるようなものではない。
「……何があったんだ?」
「んー? そうだねぇ」
ダイナには兄がいた。
名家の期待を一身に背負った兄が。
幼いダイナがイタズラを叱られて泣いている時に、ぬいぐるみを持ってきて元気づけてくれる兄だった。よその家のオレンジが食べたくて勝手に庭に忍びこみ、その家の犬にほえられ追いかけ回されていたところを助けに来てくれた兄だ。学校の友だち同士での一番好きな音楽グループの話題から口ゲンカとなり、さらにクラス規模の乱闘にまで発展。その騒動で先生と親に雷を落とされてへこんでいた時も、兄はこっそり自分のオヤツをわけてくれた。
「ダイナって問題児じゃねえか?」
「ンフフ。どれも輝かしい思い出だね」
成長したダイナは音楽に対して比類なき才能を見せはじめる。
音感、センス、指の可動域。そういった細かな才能にも恵まれていたが何よりも最大の才能は、多くの人間にとって退屈で苦痛にすら感じられる反復練習さえ遊び感覚で熱中できることだった。
塗り絵が大好きな三歳児がずっとクレヨンを離さないがごとく、ダイナはひたすら鍵盤の前に座って喜んでいた。
ダイナにとってオルガンもピアノも最愛のオモチャだった。
ダイナの才能に兄は追いたてられた。
質の上でも時間の上でも、猛練習を自分に課すようになっていく。
ダイナと違い、それは楽しみよりも苦しさが勝っていた。
兄が小さいころからお世話になっていた温和な指導者では生ぬるいと決別してしまい、きびしい指導で有名な先生に教えを乞うた。
「それがさぁ、ある日突然私は一人っ子になっちゃったんだよ。困ったよね。昨日まではピンピンしてたのにね」
マカディオスは、だんだんとダイナのつかみどころのなさがつかめてきた。この人は、どれだけ悲しいことでもさらりと口にしてしまえる。でもそれは、悲しくないだとか平気だとかなんとも感じていない、というわけではないこともわかってきた。
兄が命を落としたのは、新しい指導者のムチャなしごきが遠因だった。
基礎体力をつけるため運動のノルマが課せられた。体力作りを練習に組みこんだこと自体はあながち間違いというわけでもない。運動不足の体では演奏にも支障をきたす。何かの目標にむかう時、体力が充実しているというのは想像以上に大きなアドバンテージなのだ。
しかしその内容はあまりにも非合理で過酷だった。悪い方面にふりかざされた精神論と努力至上主義。実際の効果よりもどれだけの苦痛に耐えたかを重んじる評価体制。
いかなる事情でも休むことがゆるされない長距離の走りこみも練習メニューの一つだった。兄は炎天下で意識を失い倒れこみ、そのまま息を引き取った。胆汁が大量にまじった緑のゲロを口から垂らして。
「いやぁ、まいったよね。親や兄さんの友だちは悲しんでた。悲しんでたのに、次は私が本気で頑張る番だって言うんだ。兄さんの悲願を叶えるためにも、ってさ」
つかみどころのない穏やかな表情のままでダイナがつぶやく。
「わけわからん! って思ったんだ! 今だってそう感じてる! この街というか、オモテの世界全部がしょせんハリボテで、そこで生きるみんながすんごく大切にしてるものが滑稽なにせものにしか見えなくなった」
兄の死後、ダイナは街の中では演奏しなくなった。
優れた音楽家という役割にも一切興味がなくなった。
質素な生活が送れるだけの稼ぎを得て、細々とした暮らしを続けながら、この世界から自分を切り離したいと願っている。
「私は弱っちいから体一つで人間社会から脱出して生きる勇気もない。不満を抱えているくせにオモテの群れの中から出ていくこともなく、すみっこでみみっちく生きてるんだ」
一部の住人から後ろ指をさされても、怒りもせず甘んじて受け入れている。
「いっそ魔物になれたらいいのに。どうして私は魔物になれないんだろう」
部屋に沈黙が訪れた。
雨音がやけに大きく聞こえる。
「ダイナ……夢遊病事件を調べててわかったことがある」
眠っている間、何者かに行動を乗っ取られたと思しきディゴロが見た壁と天井の特徴。
そして夜に聞こえてくる酔っ払いの歌声。
それをダイナに伝えた。
「フフ、それって私の部屋みたい!」
ダイナは笑みを浮かべてとたんに活き活きしはじめた。
「私が寝ている間に街の人と入れかわってる……。そういう可能性がありそうだね! でも、私には他人の体で動いてる記憶がないんだよ」
「無意識のまま魔法の力を使ってるとか? でもまあ、これもあくまで可能性の一つってヤツだけどよ」
眠りと関係が深い能力だ。力を使っている本人も睡眠中で自覚がないということもありうるだろう。
「マカディオス! 私が魔物かどうか確かめてほしい! 今すぐ!」
「ムチャいうな」
満月の晩にケガのようすを観察するか、正答の教導者が使う空の魔封器があればわかるのかもしれないが、どちらも物騒なので却下である。どのみち今すぐはムリな方法だ。
「ではこうしよう! 私が寝てる間、何が起きているのか観察してほしい!」
いうが早いか、ダイナはベッドにするーんと入りこんだ。
なおマカディオスの寝る場所は部屋のすみに作ってある。タオルケットとクッションで大きな鳥の巣のようなスペースを作り上げた。
セティノアは小さな鳥笛にこもりながら快適にすごしている。
「ンフフ……。言っておくけど、私は気がかりなことがあるとわりと寝つきが悪くなる!」
鳥笛からセティノアが姿を見せた。
「それではセティがとっておきの退屈な話をしてやりましょうか? すでにほろびた王国の長き歴史の物語を」
「わー、眠くなる話だー!」
こうして、セティノアお姉ちゃんによる残念なダイナお姉さんの寝かしつけ作戦がはじまった。
「マカディオス」
ささやき声で呼びかけられた気がして、覆面の奥で目を開ける。ぼんやりとした視界に映るのは、うす暗くなった室内とカーテンで閉ざされた窓。簡素なベッドの上ではセティノアが困り顔で座っていた。渋々といった表情でダイナに膝枕を提供している。
「マカディオスまで寝ちゃってどーするのでぃす?」
セティノアが退屈な歴史の話をする間、マカディオスも眠りこけていたらしい。自分から調べたり実験するのは好きだが、一方的に話を聞くだけのお勉強はどうも眠くなってしまう。
「なんで膝枕してんだ?」
「ダイナが強引に頼んできたからにきまってるでぃしょう!」
セティノアはダイナのふざけたノリが苦手だ。どう反応したものかとすごく気を回している。てきとうにあわせるなり受け流しておけば良いのだが、必要以上に神経をすり減らしているようだ。
「この人とは気があいそうにありませんね。……まぁ、悪い人でねーのはセティだってわかっていますが」
寝ているダイナに異変がないか二人で見ていたが、それらしき兆候はない。すぴすぴと安らかに眠っているだけ。
ダイナの眠りをジャマしないよう、ひそやかな声でセティノアにたずねた。
「ダイナが魔物なのか?」
「どうでしょうね」
人間が魔物となる条件はあいまいでばくぜんとしている。個人の経験や心情に大きく左右されるので、ウラの住民たちも正確には理解していない。
ただ、傾向として言えるのは――。
人が作り出した世界の輪から、好むと好まざると外れてしまった者。人の世との断絶。孤独。
今の自分をすて去りたい、抜け出したい、乗りこえたいという様々な形での自己否定と変化願望。
そして、心臓を塗りつぶすような強い感情。
「でも本当に人それぞれなんでぃすよ。色んな条件に当てはまっても死ぬまで魔物化しねー人もいますし、そんなことで魔物になったの? っておどろいちゃうような人もいますし」
マカディオスは無言で機械の尻尾をゆらめかせた。自分と関わった魔物たちを思い出す。
宝箱の中で百年隠れひそみ、空間の魔法をあつかうセティノア。
人の姿と立場を維持してオモテの世界にとどまり、ほかの魔物を罰して殺戮を楽しんでいた人狼のユーゴ。
オモテから迷いこみ、マカディオスをウソであざむいた少女。魔物となってマニピュレーターの動力源にされたエインセル。
強くて楽しくて頼りになる牙の魔女ウィッテンペン。
心配性で口うるさいところもあるけれど、マカディオスのことを信頼して見守ってくれていた小鬼のシボッツ。
また二人に会いたい。無事でいてほしい。この街にいるんだろうか。せめてネコたちとはまた合流したい。シボッツがお世話していたあのネコたちも魔物なんだろうか? ちょっと違う気がする。しゃべらないし、行動や習性からして元人間というより本物のネコっぽい。
そういえば、ほかにも出会っていた魔物がいた。
あまりに強大な存在で、短時間遭遇しただけなので意識から抜け落ちていた。
矯正学舎を襲撃した白い大きな竜。あの竜も魔物なのだろうか。
いつの間にか雨は止んでいた。
外は暗くなったが、まだ名物酔っ払いの声が聞こえてくるほど夜はふけていない。
コツリ。
かすかに。
窓の方で物音。
ビクリと硬直するセティノアを身ぶりで落ち着かせ、マカディオスはこっそりと窓べに近づいた。ごく軽いものが窓に投げられた音のように聞こえた。砂利や青い小さな木の実など、窓に直撃してもガラスがわれないていどの軽くて小さなもの。
カーテンの隙間から慎重に外をうかがう。
街灯のおぼろげな光の中、一人の少年が窓を見上げている。あせったようすで手をふって、何か伝えたいことがありそうだ。
「イズムじゃねえか。どうしたよ」
静かに窓を開けて、マカディオスも手をあげて応じる。
「良かった、家ここであってた……。あの、ちょっと俺の知りあい、ようすがおかしい。マカディオスが調べてるアレかも」
「今行く。場所はどこだ?」
「東地区の家。グループのパーティ会場みたいな。案内する。急いで」
声のボリュームを落としたやりとりだったが、ダイナが身じろぎをして目を覚ました。まだちょっとぼんやりとしている。
「ううー……。どしたの?」
「ダイナにはセティから事情を話しておきます。マカディオスは行ってき……ンギャーッ!?」
うとうとしているダイナがセティノアの小さな体を抱えて二度寝の態勢に入った。
「助けた方が良いか?」
「だ、大事な手がかりが得られるかどうかの瀬戸際でぃすの……。ここはセティにかまわずに……ノワァーッ!?」
ダイナの寝返りでセティノアが深く抱きこまれる。
バタバタと騒々しくしてしまったが、隣室からの抗議は一度もなかった。




