31・道しるべはネコの尻尾
拷問の傷が残る魔女の左手が、我が身を愛おしげにかき抱く。コウモリの皮膜にもキノコの傘にも似たおぞましいスカートごしに太ももをなで上げて、腰骨に触れたところで薄っぺらい胴をななめに横断。右肩にとまった左手は細い首をさすり、右の頬を楽しげに包んだ。すべすべした頬の手触りを楽しむ。
その間、小鬼の特徴を残した異形の右手は力を抜いて自然に下げられている。
ただ魔女の左手はしつこかった。とがった耳の外側のラインを人さし指でなぞる。右耳全体をぐにぐにと揉みくちゃにされる。
魔女の力加減は完璧でべつに痛くもないのだが、これでは周りのようすに注意が配れなくなる。小鬼の右手はそっと、だが断固とした態度で左手の戯れを追いはらった。
そして水かきのあるその手で、か弱い保護対象のシワシワの手をにぎる。幼児と手をつなぐかのように。
あからさまな反抗こそしなかったが老女の肌には不気味なものへの嫌悪感が鳥肌となって出ていたし、その目は手を引き抜く機会をうかがっている。
人目を避けながら転々と、妖姫は人間の老女を連れ歩く。
少し前に木こりの家族がユーゴにねらわれた。
外からは薪置き小屋にしか見えなかったあの建物は、かつての母屋だった。
木こりが新しく住まいを建てた際、古い家に老婆の居場所を残しつつ他の空間を物置へと転用したのだ。食事などは新宅で家族といっしょにとっており、食器棚には老婆が愛用していた年季の入ったカップが置かれていた。
人狼の襲撃時、老婆がいたのは古い方の家。新宅での惨劇に気づきながら、タンスの中でじっと気配を殺して隠れひそむしかなかった。そうしてユーゴがふりまいた恐ろしい暴力と悪意から逃れたのだ。魔物が去った後も、恐怖で外に出ることもできずただ震えていた。
それを見つけたのが妖姫だ。
深く刻まれたシワに涙をため、とっくの昔に亡くなっただろう「お母さん」に助けを求める老婆を妖姫はその腕を広げそっと抱いた。
嗚咽をこらえて体を震わせていた無力な存在。その涙をふいて、頭をなでて、肩を抱きしめて、食べものを与え、脅威から守る。
そうすることが妖姫の片割れである小鬼の欠けた心を満たしていたのに。
ここ数日、どうも保護した老婆のようすが変なのだ。
おびえと困惑の表情のまま身を固くした老婆は、もう童女のように泣いたりはしない。
木こり一家を殺しあわせて最後の一人をむさぼったあの人狼。ソイツがまたやってくるんじゃないかと恐れて、妖姫のスカートをにぎりしめたりもしない。
怖い怖いと延々とくり返しながら、すがりついて抱擁を求めることもない。
凄惨な事件のショックで一時は幼児のようにおびえきっていた老婆だが、だんだんと冷静さを取り戻しつつあった。
妖姫のことを魔物だと正しく認識し、警戒を強めている。
平静をよそおいながらこちらの一挙手一投足に油断なく注意をくばるようになった老婆に、妖姫はその淡いスミレ色の右目をむけた。
この子はもう自分の助けなんて必要としていない。
もう親子ごっこにはつきあってくれない。
そう。ならば仕方がない。残念だが潮時だ。
ようやく二人きりになれたと思ったのに、あんな足手まといの重荷をひろってきてしまうのにはあきれる。しなくてもいい苦労を背負いこむ悪癖はなかなか矯正されない。
まあいい。すぎたことだ。
惨劇の跡地ではじまったくだらないままごと遊びには、先ほど終止符が打たれたのだから。
これで邪魔者がいなくなった。
融合している小鬼に思念が共有されることのない自己領域で、魔女は本音を露呈した。
妖姫の表層行動の権限はシボッツに。
深層意識はウィッテンペンの管轄だ。
シボッツに負担をかけるような記憶はウィッテンペンが封じこめている。
ずっと昔、オモテで生きていた一人の人間だった頃の過去。
彼がウラに落ちた原因でもある、水辺の魔性から受けた傷。
正答の教導者に襲撃を受けた日、小鬼の家で起きた出来事。
世話をしなくては、と家族愛をそそぐ存在。マカディオス。
シボッツの飼いネコたちがしつこくつきまとってきてわずらわしい。記憶は封じても、親しげにすりよってくるネコをシボッツは可愛がる。本当に憎たらしい。
表層のシボッツに呼びかけて、彼のオバケネコとはかかわらないようにしてもらった。ネコが苦手だとかてきとうな理由をでっちあげて。
ネコが苦手なのは本当だ。シボッツが勝手に誤解したように、べつに鋭い爪やフーッという威嚇に恐怖心を持っているわけではないが。
そもそもウィッテンペンは犬派。
しかし犬ならなんでも好きなわけではない。むしろネコよりも犬に対しての方が見る目が厳しいともいえる。飼い主にしたがわない駄犬は嫌いだ。ビシッと訓練の入った犬を見かけると、うんうん感心、とうなづきたくなる。
シボッツを守る番犬だという自負がウィッテンペンにはある。
長きにわたる待てに耐えて、数々の手助けをしてやり、やっと飼い主を独り占めできる機会をつかんだのだ。
この楽しいお散歩タイムをぶちこわすヤツは、だれであろうと容赦しない。
マカディオスとセティノアは世界のウラ側に戻ってきたが、元の暮らしには戻れなかった。
魔女の屋敷にむかうが、友人宅警備員をしていた魔女フィーヘンによればウィッテンペンもその小鬼も帰ってきていないという。
客人用の一部屋で、眼鏡をかけた物静かな魔女はぶ厚い本のページをめくり続ける。フィーヘンの顔は氷に閉じこめられた花のようだ。その表情は動かない。
「いっしょに夕飯食べるか? 何が好き?」
「いらない。時々お茶が飲めれば満足」
ひたすら部屋で読書に没頭してキッチンにもリビングにも顔を出さないフィーヘンに、マカディオスとセティノアはハーブティーを入れてもっていくことにした。夜に飲むなら、紅茶やコーヒーよりもこっちの方が良いだろう。
ウィッテンペンが調合したハーブティーもだんだん少なくなってきている。体が弱くて咳の出やすいシボッツのために、魔女は森で薬草をつんでお茶やシロップ漬けやジャムをよく作っていた。
「何? ああ、お茶……。ありがとう」
フィーヘンの意識がまた書物へ戻ろうとして、ほんの少しだけマカディオスとセティノアにより道していった。
「あなたたちはウィッテンペンの……どういう立場? 弟子? 子分?」
セティノアがはっきりとした返事ができないでいるうちに、マカディオスが迷いなく答える。
「オレらは家族だよ」
「……一部の魔物は人間だった時の名残からか、義理の家族をつのって群れたりするらしい。ウィッテンペンはそういうタイプじゃないと思ってた」
「ふーん、友だちの意外な一面ってやつか。オレもほかの人から見たウィッテンペンがどんな魔女なのか気になるぜ」
フィーヘンは無表情のままジロリと目だけを動かしてマカディオスを見つめてきた。眼鏡の奥で光るその瞳がまぶたの帳に隠される。
「……私もあなたたちもウィッテンペンのすべてをしるわけじゃないものね」
フィーヘンはまた本の中へと意識をしずみこませる。
今度はシボッツの知りあいに会おうとした。けれど困ったことにシボッツと個人的な交流があったという魔物が見つからない。
マカディオスとセティノアは途方にくれながら森の中を歩く。森といってもこのあたりには魔物の住処が距離を置いて点在しており、すごしやすいよう手をくわえられた環境だ。ふみしめられた小道だってできている。
森の小道をゆっくり進む。はっきりした目的があるわけではない。なすすべもなく屋敷でじっとしているのに耐えられなかっただけだ。
春の植物が発するむわりとした湿った臭気がノドの奥にへばりつく。カラスノエンドウにびっしりとたかるアブラムシに嫌気がさす。普段は野草も虫も好きなのに。
マカディオスが何かの気配を感じて立ち止まる。
よたよたとおぼつかない足どりで危なっかしく歩く物音。そういえば前に一度遭遇したのもこの辺りだ。あれは月夜の晩だったけど。
「セティノア、あっちから人が近づいてくる。森の爺さんだぜ」
「しってる人でぃすの?」
「おう。格好良い木の大蛇とか出せる人!」
「魔法を見せてもらうくらい仲が良いのでぃすね」
「ううん! こっちの話を聞かねえで、よくわかんねえこと言いながら襲ってくる爺さんだ。シボッツとは一応なんか話してたけどな。オレだってうまくやれるぜ、きっと!」
止めようと伸ばされたセティノアの手はむなしく宙を切り、マカディオスは体操の手本のような宙返りを決めて老人の前方に着地した。大胆かつ華麗。
そんな派手な登場にも、森の老人は目立った反応はしめさない。ぼんやりしている。
「こんにちは! えー、本日はお日柄もよきにはからえ! あの、前に一度会いました、よな?」
「こんにちは。見知らぬ者よ」
マカディオスは首をかしげた。人違いではないはずだ。でも、セティノアが見ているのにカエルグミを吐き出さない。少なくとも老人本人にはウソという自覚はないようだ。前にあんな揉め事があったのに、忘れてしまうなんてことあるんだろうか?
おじいさんを問いつめようとしたマカディオスにセティノアがそっと触れた。視線をむけると、魔物の娘は何も言わずにただ小さく首を横にふる。その顔には思いやりともの悲しさが入り混じっていた。
セティノアが聞き取りやすい声で丁寧におじいさんに話しかける。
そうしてじっくり時間をかけてつかんだ情報は、この人もシボッツの友だちではないということだった。
その代わり、おじいさんは聞いてもいないことを教えてくれた。
「はじまりの呼吸が起きるあの瞬間まで、ここはまさに地獄だった。無限の沈没。永劫に続く窒息の苦痛。死でもさえもここからは解放してくれない。世界のウラ側は元来、太陽も風も大地もない空間なのだ」
一方的に話を切り上げて立ち去ろうとすれば森の老人は不機嫌になりそうだし、どうせ急いだところですることもない。相づちを打ってマジメに話を聞いている雰囲気を一生懸命出すセティノアの横で、マカディオスは枝を片手に地面にラクガキをしていた。大イタチ親分VSゴリランティウス五世。
「人の世で居場所を認められない者たちは世界のウラ側へと追いやられた。残忍に人を殺めた者。酒を飲んでケンカばかりする乱暴者。ガンコな年寄り。世話する者がいない病人。産み落とされたのに誰も育てる者がいない赤ん坊。そして、ある臨月の女が落ちてきた日にウラは激変をむかえる」
わからない単語をセティノアにたずねる。
「臨月の人って? 三日月や満月もいたりする?」
「もうすぐ赤ちゃんが産まれそうな人のことでぃす」
「無限の窒息が続く空間に、血にまみれた赤い命の産声がひびいたのだ。そしてワシは気づく。相変わらず何もない場所だが、息ができるようになっていると」
はじまりの呼吸。
それ以来、赤子が落ちてくるたびにウラの世界は少しずつ変化していった。命の産声で光がさし、新たな声で大地が盛り上がり、またべつの声で海が満たされる。
こうして何もなかった地獄は少しずつ豊かな場所になっていった。
「最近の魔物はこういったウラの成り立ちもしらんのだからな……」
森の老人はしゃべり疲れたのか、しゃがみこんで目を閉じてうつらうつらしはじめる。
その隙に二人は小声であいさつして立ち去った。
「……放っておいて大丈夫だったんでぃしょうか? お外でお昼寝しちゃうなんて、ネコみたいに自由なおじいさんでぃすね」
ちょっと心配そうに後ろをふり返りながらつぶやくセティノア。
ネコ。その言葉はマカディオスの頭にひらめきをもらたした。
「シボッツの一番の友だちって、ネコだったんじゃねえの?」
「マ、マカディオス! なんつーことを……」
セティノアは気まずそうにあたふたする。ネコはかわいい。ネコは好きだ。でもネコしか友だちがいないのはさみしいことで、それを指摘するのは無神経な攻撃である。セティノアはそう感じているみたいだ。
彼女の感覚では、マカディオスがシボッツのせまい交友関係をののしったように聞こえたのだろう。当然マカディオスにそんな悪意はない。
「べつにいいじゃねえか。友だちがネコでもボールでも愛と勇気でも」
マカディオスは本気でそう思っている。カエルグミだって吐き出さない。
シボッツの周りには彼を手助けするネコが何匹がいた。魔物のようにしゃべることはできないが、なかなか利口なそぶりを見せるネコたちだ。
「合流できたら何か手がかりが得られるかもしれませんね。でも、あのネコたちもどこにいるのか……」
「とりあえず小鬼の家の跡地でワナでもしかけようぜ! セティノアをつかまえた時みたいによ!」
「……」
屋敷で秘密のいそうろう暮らしを決めこんでいた時、マカディオスとの捕獲騒動を思い返してセティノアはびみょうな表情を浮かべた。
まったく手がかりがない現状で、ワラ一本よりもすがってみたいネコの尻尾。
マカディオスはネコが好きそうなせまい箱を。セティノアはササミのオヤツを持っていく。
だが捕まえるまでもなく、すでにネコたちはそこで待っていた。姿を見せたのは二匹。ローテと呼ばれていた茶トラに、ミルという名の太った灰色のネコ。
ほかにも飼いネコがいたはずだ。黒ネコのフローは外を旅するのが好きで、もともとあまり家には居つかない。もう一匹、影の薄い小さなネコもいたような、いないような……。
「シボッツの居場所をしってるか?」
「お前たち、セティたちを手助けしてくれたらおいしいオヤツを贈呈するでぃすよ」
ミルとローテは光る肉球の足跡を地面に残した。
「すげえ! キレイ!」
「肉球可愛いでぃすの」
それが何かのメッセージだとは二人は気づかない。ネコとシボッツ本人でなければわからないし、魔女に記憶を封じられた状態の妖姫にも読み解けない。
大喜びの二人とは対照的にネコたちは落胆したようなそぶりを見せた。ミルがのっそり立ち上がり、ローテが先導するように歩きだす。
ネコたちを見失わないようにその後を追う。
ある地点までつくと二匹のネコは鼻をひくひく動かした。爪を出した前足で見えない何かにバリバリと爪を立てる。空間にほつれが生じる。亀裂の先には森とは違う光景が広がっていた。
一本道が伸びる荒野。遠く道の先には密集した建物のシルエットが見える。
「どうやらオモテ側のようでぃすね」
慎重にようすをうかがうセティノアの横をすりぬけて、ミルがのっしのっしと進んでいく。閉じてしまう前に早くおいで、とでもいうようにこちらを見てからローテも空間の裂け目に入る。
「イエーイ! めっちゃ頼りになる!」
「よしよし、仕事ができるキャッツでぃす」
調子よくおだてながら子供たちもネコの後を追った。
これからはじまるのは、バラバラになった家族を取り戻すための冒険。シボッツが可愛がっていたネコたちだってまぎれもなく家族の一員だ。




