3・めぐりあうは人の縁
魔法で熱されたオーブンの中でクッキーが甘くふくらむ。紅茶の茶葉を入れたクッキーは魔女ウィッテンペンのお気に入りだ。小さなすり鉢で丁寧に茶葉を粉砕するのがおいしさのポイント。
ドアのベルが鳴るよりも先にシボッツは来訪者の気配を察していた。よくきこえる耳と、魔法のゆらぎによって。
「ようこそ」
魔女は小鬼がドアを開けるのをお行儀よくまっていた。家の主が招き入れてくれれば、勝手しったるようすで魔女は小鬼のすみかにするりとふみこむ。つつましやかで少しきゅうくつな、あたたかで落ち着ける小さな家。アーチ型の廊下がどこにつうじているのかもわかっている。
ウィッテンペンは背が高い。小鬼のシボッツとは大人と子どもくらいの体格差がある。この場にはいないが、マカディオスとシボッツとにいたってはまるでライオンとネズミ。
小鬼がゆるやかにふりむくと魔女と目があう。長いまつ毛と化粧でふちどられたピンク色の瞳。
魔女が息を吸う音が聞こえた。深く、肺に、いきわたらせている。
「いい匂いがする」
「クッキーを焼いている」
「ここはいつきてもいい匂いがするんだよー」
それはきっと、ウィッテンペンの家は掃除がずさんで空気がよどんでいるからほかの場所が心地よく感じられるだけだろう、とノドまで出かかった言葉をシボッツは飲みこんだ。ケンカを売るために呼んだわけではない。
「私の一番好きなもの」
「焼き上がるまでもう少しかかる」
「いいよ。今さら少しまつぐらいどうってことない」
居間のカーテンはわけあってひどいありさまなので、台所兼食堂のテーブルにウィッテンペンをご案内。
小鬼はイスに腰かける魔女にあらためて意識をむける。ウィッテンペンの長い黒髪はサラリと流れる夜の闇。爪と唇には深い赤。化粧とオシャレでいくら優美な偽装をほどこしても、野生のケモノにつうじる底しれぬ生命力がじわりとにじみ出す。その表情には余裕と自信が笑みとなってあらわれている。
たとえば、自分がほほ笑んでキスすることが相手にとってごほうびになると思っていた強気の美人。そういう顔立ちだ。
すっかり見なれたこの顔を最初に見た時、小鬼はとても平静ではいられなかった。思考がとまった頭で、しゃべることも声を出すこともできず、ただ息をひそめて時間がすぎていくのをまつしかなかった。
今はなんとも思わない、ほとんど。長い歳月がそうしてくれた。小鬼と魔女は友だちだ。少なくとも、二人の関係をそう表現することについてお互い合意している。
ひっくり返しておいた砂時計の最後の一粒が落ちきった。オーブンからクッキーをとり出すころあいだ。シボッツはおぼつかないようすでイスからおりてテーブルに背をむけた。小柄で虚弱なゴブリンおじさんの動きは、時に危なっかしくて見るものをハラハラさせる。
マカディオスやウィッテンペンの体格にあわせて、小鬼の体ではもてあますサイズの家具をわざわざ用意していた。
オーブンの前で作業する無防備な後ろ姿に、からみつくような視線がじっとそそがれていることを小鬼はしらない。
魔女においしいお茶と好物を献上したところでシボッツは本題を切り出した。
「心配なんだ。アイウェンが厄介なヤツらの怒りを買っているようで……。人間の王子と竜の婚姻なんて正答の教導者がみとめるわけがない」
正答の教導者。その名前にウィッテンペンも眉をしかめた。
人はだれしも物語をかせられている。勇敢な騎士であれ。勤勉なパン屋であれ。心優しき乙女であれ。自分にあたえられた物語をまっとうせよ。それがオモテの世界のおきて。
それでも役目がはたせないものは出てくる。手におえない偉大な物語に押しつぶされたり。違う物語を歩みたいと分不相応な夢をえがいたり。端役すらも演じきれない不器用さをかかえていたり。
物語からの脱落者をへらすべく、人々を教えみちびく集団が正答の教導者だ。みんなが物語をこなせるように手助けする。
ただ、いくらおぜん立てしてやってもどうにもならないこともある。物語からこぼれ落ちたものはオモテの世界に居場所がない。努力のたりない才能なし。きらわれものの役立たず。ウラぶれた住人がオモテにとどまらないよう目を光らせるのも正答の教導者の大事な仕事。
アイウェンとイフィディアナのむすびつきは、正答の教導者が律義に守ってきた秩序をおびやかすには充分だった。
「これからヤツらが何をしかけてくるのか……。おそろしくて気が気じゃない」
骨ばったシボッツの細い指が不安でわななく。死にかけのクモのようだった。
クッキーを口に放りこんだウィッテンペンが快活に笑う。
「なるほど、なるほど。私がここに呼ばれた理由がわかったよ。オモテに殴りこんで教導者の拠点をパーッと燃やして派手なたき火で一晩中ダンスパーティしたいんだよね。楽しそう。朝までいっしょに踊ろうね」
「ちがう。そんなのダメだ。ちっとも楽しくない」
ウィッテンペンの自由な発想力にシボッツはあこがれているところもあるのだが、これに賛同するわけにはいかない。
最高のパーティになるはずのアイディアにまったをかけられたウィッテンペンは、わかりやすくふてくされた。赤い唇をとがらせる。
「だよねー。わかってた。どうせマカくんにさしむけられた刺客がいるから、私にやっつけてほしいとかそんなところでしょ」
「いや。俺のしるかぎり教導者がマカディオスの存在に気づいたようすはない。この場所も特定されてないはず。……というかウィッテンにそんな物騒なことをたのむ気はないから、そこは安心してほしい」
つらい過去を少しも感じさせないようにふるまっているが、ウィッテンペンはオモテ側でひどい迫害にあっていたことをシボッツはしっている。長いドレスにかくされているのは消えることのない傷跡。その引きつれた古傷は今も魔女の体に残されているはずだ。そんなひどい目にあった人に危険な仕事を押しつけるなんて、シボッツにはできない。
もっともウィッテンペンの方はというと、そういった配慮がまったくピンときていないようだ。ふしぎそうな、つまらなさそうな表情で口をむにむにと動かしている。
あでやかな色の唇から捕食者を思わせるするどい牙がのぞく。小鬼はちょっとだけゾクッとした。
「じゃあ、教導者のせいでマカくんの親御さんがすごくピンチになってるから、それをどうにかするぞーって話?」
「いや。教導者は竜を恐れて直接的な手出しを躊躇している」
ウィッテンペンがシュッと挙手した。
「はい! 今のところ具体的な問題は何もなし! って理解であってる?」
「問題ないわけがあるかっ! すでに災いの種がまかれている! 今は何もおきていなくても、いずれ最悪の事態になるかもしれない!」
早口の大声は体に負担がかかった。シボッツは呼吸をととのえながらヘロヘロとイスにもたれる。
「はぁ……急にまくしたててごめん」
「気にしないでー。しーちゃんがこわがりなのはわかってるから。よーくわかってる」
「いや。会話する態度としてよくなかった。あんな風に感情的になるなんて、わるいお手本になってしまう。マカディオスの前ではちゃんとしないと……」
身近な大人の日頃の言動から子どもはふるまいを学んでいくのだから。
「そういうもんかなー。じゃ、私の前ならいーよ。どうせわるい大人なんだから。怒ってても泣いてても、どれだけみっともなくたって、しーちゃんが感情的になってるとこを見るのはいいものだからね」
ウィッテンペンがクッキーをつまむ。まだ温かなクッキーは、ほろりとやさしく口の中でくずれていく。茶葉の香りがさわやかに鼻にぬけていき、いくつでも食べられそうな後味を残した。クッキーをのみこんだウィッテンペンのノドから魔女らしい笑い声があふれ出す。
「ふひ……っ。まったく損な性格だよね。その目はいつだって未来におきる不幸をずーっとさがしてて、頭の中では過去にあったわるいことをあきもせずにふりかえってるんだから。私にはわからないし興味もないものを追いかけてるんだね。ねえ、それっておもしろい?」
苦虫をかみつぶした顔でいるシボッツを嬉々とした表情でながめ、ウィッテンペンはつづける。
「まだおきてもいない災難に必死に抵抗してる君を見るのは、少しはおもしろいかな。うん、おもしろい。楽しい気分になる。その姿を特等席で見物させてくれるんなら協力してあげてもいいよ。君のつまらないお願いを一生懸命きいたげる。おおせのままに」
「……一応ありがとう」
とても複雑。
「それで、まだ芽を出してもいない災いの種にどう対処しようっていうのかな?」
「マカディオスがアイウェンと竜の子どもだと正答の教導者にしられないようにする。状況を理解できるようになるまでは、本人にもひみつにしておかなくては。ウィッテンにも協力してほしい」
「なるほどー。私を呼んだのは、考えなしの魔女がよけいなお話をマカくんにうっかりしゃべらないようにクギを刺すためかー」
「ウィッテン」
「なにかな?」
その秀麗な笑顔はもはや高圧的でさえあった。野性みにあふれる臓物色の釣り目が小鬼の姿をとらえている。
「あなたのことをそんな風には思ってない。そう誤解させたのなら、ちゃんと謝る……」
シボッツのしおらしくふせられた顔が遠慮がちに上げられる。幽けきスミレ色の目玉の奥に魔女の姿がしずみこむ。
「あなたは俺とはちがう視点でものごとをしっかり見ている人だ。俺にはぜったい出せないような考えをしめしてくれて、いつも驚かされてる。楽しみながら知識を追求する姿勢がステキだなと思っているし、あなたにはたくさん助けてもらっていて、すごく感謝してる」
小鬼の顔を凝視する魔女の双眸にやどっていた、じっとりとした凶暴性がその勢いを弱めていく。
「……ふー」
ふいっと目をそらし、無表情で大きな大きなため息。そして普段どおりの笑みが魔女の顔に戻る。手にとったクッキーを半分にわりながら何事もなかったかのようにウィッテンペンがたずねる。
「マカくんはどうしてるの?」
「自分の部屋で遊んでる」
話しあいの場に当の本人は蚊帳の外。
大人がこみ入った話をする席に、子どもがひょっこり顔を出すことがないように。
ひみつの話をする間おとなしくしてまっててもらえるよう、シボッツは新しいオモチャを一つマカディオスにあげた。ハンドグリップ。握力をきたえる器具だ。マカディオスは体を鍛えるのが好きだ。生まれつきあんなにマッチョなのに。
マカディオスの部屋のドアの前には、オバケネコの一匹、灰色太っちょのミルを見張りにつけている。見張りといってもミルのことだから寝そべってくつろいでいるだけだと思うが、さすがにマカディオスがどこかにいこうとすれば気づく。
仮にネコの目をかいくぐったとしても、家の周囲にはりめぐらせた感知用の結界に引っかからずに移動できるわけがない。術者のシボッツが眠ったり出かけている時でも、この結界は魔力を持つものの出入りを見逃さない。
あとでクッキーをあげるからしばらく部屋の中でおとなしく遊んでいるように。というのがシボッツのいいつけだ。
マカディオスも最初のうちはすなおにしたがっていた。ハンドグリップをにぎってヒマつぶし。しかし新しいオモチャはすぐに壊れてしまった。正しい使い方でにぎっていただけなのに!
退屈におそわれる。
マカディオスは窓を開けて外にでた。なにかに気づかれたようすはないし、なにも異変はおきなかった。
早春の森はひそやかな命の息吹でみちている。枯草色の地面には小さな萌黄色がチラホラと。足の裏につたわる大地の感触をマカディオスはあきることなく堪能する。指の間をくすぐる新芽の感触にケタケタ笑いころげる。ただ生きているだけでむしょうに愉快爽快な午後だった。
青白い光を放ちながら羽虫妖精の一団が飛んでいく。紳士の帽子と革製の仮面をつけた奇怪な鳥はよい香りがする草花をついばんではクチバシ部分にためている。どちらも特にマカディオスを気にとめることもない。それが逆に、ここにいてとうぜんの森の一員だとみとめてもらえているようでうれしくなる。
腹筋をふくらませて深く息をすうとどこからともなく甘い香りがただよってきた。匂いの先を追うと咲きはじめた沈丁花のしげみがある。遠目にはイチゴとホイップクリームにも見える、幸せな気持ちになれる花。
マカディオスは高らかに大腿四頭筋を上げ、ルンルン気分でスキップしながら沈丁花のしげみに顔をグイッと近づける。
花と葉の奥の暗がりにおびえた緑の目があった。
「ひっ! たっ、たすけ……、助けて!!」
「わかった。オレにまかせな」
手にしたカギつきの日記帳を盾にして身をかばう少女のしぐさは、どうか危害をくわえないでいう意味だったが、自分が怖がられているなんてみじんも思っていないマカディオスにはつたわらなかった。
ぶ厚い大胸筋の奥にはおだやかで力強い愛がみちみちている。たよれる人物に見せたくて、ここぞとばかりにムキリと筋肉に力を入れてマカディオスが思う最高にかっこいいポーズを披露した。
沈丁花の影で少女が身じろぎする。リボンでおさえつけられたつややかな茶色の巻き毛がゆれる。ほっそりとした体つきだ。きっと筋トレをする習慣がないのだろう。
「ええと……。あなた、私のこと助けてくれるの?」
「そうしてほしいんなら助けになるぜ。オレはマカディオス。今日の朝ごはんはササミとブロッコリーのソテーだった」
ムダにサービス精神を発揮して心底どうでもいい個人情報を自己紹介のオマケにそえる。
少女の顔からおびえの色がうすまった。横目でマカディオスの挙動を油断なく観察しながら、自分の身を守るようにかかげていた日記帳をゆっくりとおろしていく。
「そう、なの? ……ここはどこ?」
「オレんちの近く!」
この回答は期待にそわなかったらしい。少女の眉毛が弱々しく下がる。
「私、家に帰りたい。あなたが帰り道を教えてくれるなら、すごく助かるの」
「いいぜ。どっからきた?」
あっちから? こっちから? と四方八方とついでに上下を指さしてみるが、とほうにくれたようすで少女は首を横にふるばかり。
「わからない。こっちが聞きたいくらい。私はただ、いつもみたいにかくれ家で日記を……ものをしまうのにもっと安全な場所をさがして町はずれを歩いてて……。気づいた時にはまわりの景色がかわってた」
「ふーん。なるほどな」
マカディオスは腕ぐみをしながらうんうんとうなずく。
「気づいた時にはそこの花が咲いてるしげみにいたってことか?」
「ううん、ちがう。最初からそこにいたわけじゃないよ。こわくなって逃げこんだの。だってここにはよくわからない変な生きものがいっぱいいるから……」
「変な生きもの!? オレも見たかった!!」
あなたもその一員でしょう? といいたげな目がマカディオスにむけられる。
「ここはウラ側なの? 私はウラに迷いこんじゃったの?」
マカディオスはきょとんとするしかなかった。そのようすを見て少女が説明をつけくわえる。
「えぇ……ウソ。あなたってこんなこともしらないの……? ウラっていうのはね……。オモテには存在しちゃいけないものたちがくらしてる場所」
「わかんねえな。ここはたぶん……森ってとこだぜ! まちがいねえ」
「ええ、そう……」
気のぬけた相づちをぼんやりと返したきり、少女はふさぎこんでしまった。
困っているようだしなんとか元気づけたい。マカディオスはそう思った。力になりたい。
「手がかりがあるとすりゃあ最初の場所か。その気づいたらいた場所ってのに引き返してしらべるぞ。何かわかるかもしれねえ」
筋肉ゴリ盛りの不審な半裸マンにしては多少はまともなことをいうなぁ、などととっても失礼なことを考えながら少女はうなずいた。
「うん、そうするのがよさそう。方向としてはあっちだとは思うけど、しらない森の中だしこまかい位置まではちょっと自信がないの……」
「なんとかなんだろ。いこうぜ」
ずんずんと森を進んでいくマカディオスの足どりには根拠のない自信があふれていた。
少女がふと気づいたらいた場所。そこを特定するのはなかなかむずかしい。わかっているのは不確かでばくぜんとしたおよその位置だけ。何か目印になるようなものもない。少女の口数が少なくなってきた。
「なあ。ここだけ地面の感じがちがう」
素足で歩いていたマカディオスは奇妙な点に気づけた。見た目はほかのやわらかな新芽の草地と同じなのに、あきらかに感触がおかしいエリアがある。チクチクするこの感じは草が枯れているのだろうか。
見えない枯草とみずみずしい若草の間には、何かがポツポツといびつな列をなしている。やわらかくて小さくてほのかに湿りけがある……。そんな特徴を持つものは何か、マカディオスは想像してみた。
「ヤバいぞ……オレ、ウンコふんだかもしれん」
「え……、ウソ、ヤダぁ……。近づかないでね?」
マカディオスがはじめて人の冷たさを実感した瞬間だった。
「オレみたいになりたくなけりゃあ、お前はこのあたりをとびこえてけよ」
木の枝をひろって危険地帯を少女にしめす。
「とびこえる……って私が入るの? まだこれがどういうものかよくわからなくてこわいんだけど……」
「オレが見えない枯草のとこに入っても特に妙なことはおきないらしいってのはわかった。次はそっちが入ってみてくれ。何がおきるか、おきないか。しらべるぞ」
少女はしばらく首をふるふると横にふっていたが、そうしていてもらちがあかないことはわかっていた。
「……安全だといいんだけど」
少女は日記帳を胸の前でかかえなおす。そして汚いものをふまないように大げさによけながら、隠された枯れた草地へ足をふみ入れる。
マカディオスの視界から少女の姿が消えた。
「お、おっ! どうなった!?」
はるか遠いひびきをおびた少女の声が、すぐ近くからかえってくる。
「大丈夫。もどれたみたい」
「そりゃよかった!」
これで一安心だ。
「またなっ。遊びにこいよ」
「それは……どうなのかな? とりあえずおつかれさま、マカディオス。助かったよ。それじゃ……」
少女ははぐらかす。こんな場所に二度ときたくはない。そんな本音を気弱そうな声にひめて、少女は二つの世界をつなぎあわせたひずみに背をむけてはなれていく。
名前もわからないまま去っていったあの子の声はもう聞こえない。
マカディオスはウンコと思しきものをふんだ足をキレイにするため、自分も超特急で家に帰ることにした。心の中は人助けができて満足な気持ちでいっぱいだった。