1・はじまりは竜の卵
むかしむかしからつづけてきた子守仕事はもうおしまい。
完全なる自由。何にもしばられることなく飲む紅茶の味は格別だ。色づく木々が作り出したこもれびの下、こじゃれた敷物を広げシボッツはくつろいでいた。
とがり帽子にとがり耳。ちっぽけな体には不つりあいな大きすぎる異形の手足がついている。その細く長い指と指の間にあるのはなめらかな皮膜。水かきだ。その肌はすずしげなアイスグリーンの色あいで、綿雲のようなメルヘンチックロングヘアがふわふわなびく。
不気味で、奇抜で、滑稽な。でもどこかその歪さと儚さがからみあう不器量の中に、針の先ほどの閑麗が残されている。
そのいでたちのファンシーさからは想像がつかないが、この小鬼はもうそれなりにいい歳をした男性だ。おじさんである。体がガチガチにかたく慢性的な肩こりになやまされていて一晩寝ても昨日のつかれがとれない、まごうことなきおじさんであった。
小食のわりにシボッツは料理を作るのが好きだ。籐あみ細工のピクニックバスケットに入れてもってきたのは、蒸し鶏とベビーリーフをはさんだバゲットやリンゴとチーズを乗せたカナッペ。デザート用のブドウが数粒。小さなケトルに紅茶のカップ。細い鎖つきの茶こしに一人分の茶葉を入れて、紅茶を楽しむ。
世界のウラ側のかたすみにこの森はあった。オモテでえらそうな顔をしているヤツらの影はどこにもない。無貌の作家にかせられた物語をまっとうする、まっとうな人々。オモテの住民はそれがご自慢ときている。物語から脱落してウラへと追いやられたあぶれものなんかとは立場がちがうというわけだ。
気楽な飼いネコさながらにシボッツはあくびを一つ。小さな小さな口だった。秋の森にひびく小鳥の声に耳をかたむけ、ゆったりとした気持ちで視線をめぐらせる。目についた大きな松ぼっくりをいくつかひろった。これを家の窓べにでもかざろうか。植木鉢の土の上におくのもわるくない。松の種子がついているものはたくさん集めて魔女にあげよう、薬の材料になったはずだから。
キノコでできた新しい住まいはまだ殺風景だ。
そこで自分一人だけでくらしている。
一人きりで。
「はぁ……」
ため息がこぼれる。とたんに目にうつるものすべてが色あせて見えた。赤や黄色にそまった木々も、カケスの青い羽も、ウキウキ気分で作ってきたごちそうも。
「いや。俺はあたえられた自由をよろこばなくちゃいけない」
小さな声で自分にいいきかせる。
「これがアイウェンからのおくりものなんだからな」
小鬼のシボッツが守護した最後の子がアイウェン王子。アイウェンは小鬼を長年の仕事からときはなった。
「竜め!」
思い出にひたっていたシボッツのか細いノドからうらみの声が飛びだす。
若者となったアイウェンは竜と恋に落ちた。それもよりによって魔性のものが生きるウラの世でもとびきり悪名高いイフィディアナと。
「あの竜ときたら傲慢で残忍で! 腹の奥で何を考えているのかわかりゃしない!」
キィキィと怒りちらす小鬼にあきれはてたのか、森の小鳥たちがいっせいに飛びたった。ドングリかじりにいそしんでいたリスも尻尾をまいて森の奥。軽快な足どりでケモノ道を歩いていたキツネはあわれな一鳴きを残し逃げていく。恐れおののく不安げなクマの声がどこからともなくとどろいた。
「何事だ?」
どうもようすが変だ。動物たちはべつにシボッツなんかを怖がっているわけではなさそうだ。こんなちっぽけな小鬼が怒ったところでどうってことはない。動物たちがおびえている本当の相手はもっと恐ろしく、残忍で、傲慢なだれか。
突然の強風が吹きつける。業火を思わせる落ち葉のうずまき。今にも空へと舞い上がりそうなピクニックシートを全力で押さえつけ、食器やバスケットを必死にかかえる。
が、ダメだった。風に体を持ち上げられ、もみくちゃにされ、地面に放り出された。残念。何もかもが台なし。
「会えてよかった。ごきげんよう」
上品でおだやかで、それなのにゾッとするような声がひびく。圧倒的な強者はそこにいるだけで弱者の足をすくませる。
風でまき上げられた落ち葉がおさまったその先には、白い竜の姿があった。のどかな秋の森は彼女には似あわない。あたたかな命の灯を無情にうばいつくしていく、雪のつもる険しい山がぴったりだ。
「イフィディアナ。どうしてここに……」
「風や雲にあなたの居場所をたずねながらここまできたのよ。ああ、あなたのことをペラペラしゃべったからといって怒らないであげてね。風や雲だってしかたがなかったのよ。きっと素直に教えないと何をされるかわからないと思って、すごく怖かったのでしょうね。かわいそうに」
一年ほど前にアイウェンとイフィディアナの結婚式があった。きらびやかな品々があつめられた竜の穴ぐらが会場だ。竜と若者の愛の証人たちは、ものいわぬ宝ばかり。これでもかと宝箱につめこまれた金貨の山やめずらしい形のひしゃげ真珠のコレクションや流れ星から作ったナイフといった竜の財宝。式の客で生きているものはシボッツ一人だけだ。それもアイウェンのことが心配だったからで、シボッツだって心から二人の愛を応援しているわけではない。
オモテとウラの世界のだれからも祝福されない結婚式で、アイウェンとイフィディアナはむすばれた。
「これをね、アイウェンの子守鬼だったあなたにプレゼントしようと思って。竜の卵はお好きかしら?」
竜のするどい指先が虚空に魔法の印をえがくと、籐のゆりかごに寝かされた卵がにょきりとあらわれる。卵の段階ですでにシボッツより大きくて重そうだ。卵が安定するようにしかれた真新しい白い布団からは親の愛情が感じられた。それがかんちがいでなければ。
「……はぁ?」
まるでみんながほしがる話題の手土産でもわたすみたいに卵をシボッツの方へさし出している。卵を産んだ主のうすいほほ笑みからはその真意がうかがいしれない。それでなくとも竜の表情なんてものは読みにくいのだ。
「どういうつもりだ」
ちょうど台所の卵をきらしていたところだが、いくらなんでもこれを受けとるわけにはいかない。
「あら。私もムリにあなたに押しつける気はないのよ。そこは安心してちょうだいね」
きらめく白いウロコにおおわれた竜は優雅にほほ笑んだ。口元からチラリと牙がのぞく。この口はシボッツがしぶしぶ焼き上げたウェディングケーキだけでなく、あらゆる命をかみくだいて暗い臓腑へぐちゃりめちゃりと落としこんできたはずだ。
「受けとってもらえないならいいの。あなたは何も気にすることはないし。この卵のゆくえなら心配ないわ」
「そうしてくれ」
アイウェンはともかくイフィディアナとは深くかかわりたくない。
「ええ。私の血肉から生じたものは、私の血肉へ還しましょうね」
「……おくりものはたしかに俺が受けとった」
手を伸ばしてゆりかごを引きよせる。
「これからこの卵は俺の保護下だ。お前じゃない」
やせぎすの体でするりとまわりこんで卵と竜の間に入る。
「返せといったって返さない」
大きく開いた顎はしずかに閉ざされ、卵にせまっていた冥府の門もそれと同時にふさがった。
「まあまあ。すっかり気に入っちゃったの。なかよしさんね。私の用事はこれですんだわ。それじゃあごきげんよう、ちっぽけな小鬼さん」
身勝手きわまりない竜のふるまいに頭に血が上りそうになる。それをシボッツはおさえこんだ。くいしばった歯に痛みが走る。
「アイウェンはどうしてる? 無事なのか?」
飛びたとうと広げた翼手をたたむこともなく竜は答える。
「そうね。大変そうではあるけれど。でもきっと大丈夫。やりたいことをやってるわ」
さらなる追及をまつことなくイフィディアナは力強く飛翔した。
「……竜め!」
顔をしかめてそう吐きすてる。ついでに、まき上げられて口に入ってきた葉っぱも。
空を見上げても竜の影は見当たらない。もう遠くまでいってしまった。
やりきれない思いで卵にそっと手をおく。ざらりとした頑丈な岩を思わせる手ざわりだった。
子守鬼。シボッツは長い間、人間の子どもたちの成長と安全を見守ってきた魔物だ。
どこかのおばあちゃんが農作業のあいまにせっせと作ったような古くてダサいタペストリーにひそんでいた。素朴な農家や孤児院の壁になら、そのタペストリーはきっとよくなじんだことだろう。
だがそれはりっぱなお城の壁にかざられていた。歴代の王さまたちの審美眼がことごとく独特だったわけではない。小鬼がすみついたこのタペストリーは家の子どもをひそかに守ってくれるという魔法の逸品だった。王さまの世継ぎともなればとびきり大事にされるし、ことさら狙われもする。
こんな風に魔性のたぐいをふうじた道具はオモテの住人に重宝された。炎よりもずっと安全であつかいやすい照明器具だとか、真冬の寒さをたもちつづける保存箱だとか、そういったものは便利な生活に欠かせない。
たいていの場合、魔封の道具にとらわれた魔物はもうおしまいだ。自分の意思で休むことも逃げることもできずにひたすらこき使われる。絶望の日々が悲惨な結末にむかってすぎさっていくのを見送るだけ。
だが道具にされたほかの魔性たちとちがって、タペストリーの中のシボッツには自由があった。無数の糸で織られた柔らかな飾り布は魔物を宿す住処であって、魔物をガチガチに捕まえて封印しておくほどの拘束力はない。魔物を閉じこめるというより、ここにいてほしいという優しい気持ちで織られた布だったから。
子どもたちに命の危機がないよう気をくばり、たいくつそうならば遊んでやって、時にものごとの道理ってものを教えてやる。それがシボッツの仕事で、アイウェン王子は最後に世話をすることになった子どもだった。
ほとんどのオモテ人はウラ人のことなんて大切にしない。さげすんだり、そもそも気にもとめていなかったり、ああはなりたくはないものだとイヤがったり。いや、人だなんて思っていないだろう。魔物と呼ばれるのだから。魔物がオモテの世界で歓迎されるとしたら、便利な道具としておとなしくふうじられている時ぐらいのものだ。
シボッツが子どもたちに声や姿をハッキリあらわしてやるのは期間限定のサービスだ。まだ大人みたいにしっかりしたおしゃべりはできなくて、その小さな頭の中では現実と空想と大好きなお話と昨晩見た夢が手をとりあってめちゃくちゃなダンスをしているころ限定。
そんな子どもだって成長する。子どもの頭の中が理路整然としてくるにつれて、小鬼の声や姿はうすれていく。そういう風に調整している。隠ぺいの術はシボッツが一番得意とする魔法だ。大人になる前にわすれてもらうぐらいがちょうどよい。
そこにアイウェンという例外があらわれた。アイウェンはハイハイをしだす前からどこか不思議な子どもだった。両の目でまわりを注意ぶかく観察しているような赤んぼう。その目は大人になってもとがり帽子の小鬼の姿をうつしつづけた。オモテのほかの大人たちよりも聡明で善良で勇敢なアイウェン。
この世界で、彼は特別な存在だ。そう思わせる何かを持っている。
そんな子守鬼といえども竜の卵を世話するのははじめてだった。ましてやオモテ側の王子の父とウラ側の竜の母を持つ卵なんて前代未聞だ。どんな本を探してみたってどうすればいいかは書いてない。未知の課題にはしらべる力だけでは太刀打ちできない。
けれども考える力と適切に助けを求める力があれば、何をしたらいいかわかることもある。シボッツの友だちはそう多くはないが、幸運にもその厳選された交友関係の中には生きものにくわしい魔女がいた。クモの巣を包帯にする方法をしっていて、生きものの死骸やフンからたくさんの情報を読みとれるすごい人だ。シボッツにはちょっと理解がおよばない世界だが、彼女が自然の知識にくわしいことはまちがいない。
魔女の手を借りてシボッツは卵がのびのび成長できる環境を確保した。
温度と湿度の管理が重要だった。煮えたぎる大釜のあるキッチンのかたすみが卵の定位置。
魔女は丈夫で幸運な子になるようにと願いをこめて、長生きしたヘビのぬけ殻やりっぱなシカの角なんかを大釜に入れたりもした。
小鬼は夜になったらコケであんだ布団を卵にかけてやる。絵本の読みきかせも欠かせない。
そうこうするうちに秋は深まり冬がきて、家のそばのアカシアの黄色く小さな花がぽこぽこと咲きはじめたころ。
卵の中からガンゴンと何かがあばれる音がするではないか。シボッツと魔女が見守る中で卵に大きなヒビが走る。
「がんばれ。もう一息だ。我が家にお前をむかえ入れる準備はできているぞ」
ぶ厚い卵の殻が内側から突きやぶられる。常識はずれの怪力だった。まだちぎれかけで残っている柔軟で頑丈な竜の卵の薄皮をめりめりと引きさいて、その子は世界に顔を出す。
「……デカイな」
「……そうだね」
魔女にマカディオスと名づけられたその子は産まれたてだというのにずいぶんと大きい。卵が大きいのだから、そりゃ大きな赤んぼうが出てくるだろうとは予想できた。ただ、マカディオスはそんな小鬼と魔女の予想を上まわってきたのだ。
産まれた時点でいかつく育った人間の大男くらいの体格をほこっていた。その筋肉は強靭でしなやかでぶ厚い。さっきやぶられた竜の卵よりもはるかにタフでパワフルなボディだ。
少し面くらったがシボッツはすぐに気をとりなおしてアイウェンの息子を歓迎する。
「この世界にようこそ、マカディオス」
マカディオスの頬がふくらんだかと思うと、まだ胃袋に残っていた卵の液体をごっぼんべちゃぁと床に吐き出した。赤んぼうが吐き戻すなんてのはよくあることなのでシボッツは動じなかった。けして硬直していたわけではない。
「おう、よろしくな」
口元を手で乱雑にふきとって、竜の卵から産まれたばかりのマカディオスは気さくに流ちょうにあいさつした。