花の乙女
「ルイサ」
ルイサの部屋のドアが、外から慌ただしくノックされた。
兄の声だ。
「入っても良いか」
「どうぞ」
こちらも慌ただしく身支度を整えながら、ルイサは答えた。
「あまりお相手はできませぬが」
「構わぬ」
ドアが開いて、ユリウスが顔を覗かせた。
「準備はどうだ」
「もう間もなく」
ルイサは鏡の前で耳に当てていたイヤリングを下ろした。
これは少し派手過ぎる。
「コキアスさまは」
「今、カタリーナが相手をしてくれている」
ユリウスは自分の妻の名を口にした。
「父上と母上への挨拶はもう終わったが、カタリーナならばシエラのことで話題も色々とあるゆえ、心配するな」
確かに、隣国シエラから嫁いできたカタリーナであれば、故郷の騎士に聞きたいこともあるだろう。ルイサは頷く。
「義姉上がお相手をなさってくださっているのなら、大丈夫でございますわね」
「うむ」
頷きつつ、ユリウスは少し心配そうに顔を曇らせる。
「とはいえ、あまり待たせるのも無作法だぞ」
「分かっております」
ルイサは鏡から目を離さず、頷く。
「だから、急いでおりますでしょう」
ルイサがまたイヤリングを耳から下ろしたのを見て、ユリウスは遠慮がちに口を挟む。
「どちらでも同じに見えるが」
「兄上にはそうでございましょうけれど」
次のイヤリングを耳に当てながら、ルイサは言った。
「コキアスさまはきっと同じには見えぬお方かと」
「む」
ユリウスは顎を引いた。
「まあ、それはな。そうかもしれぬ」
ルイサがここまで準備にばたばたしているのには、わけがあった。
数度の手紙のやり取りを経て、コキアスとルイサが初めて顔を合わせるのはナーセリで開催される武術大会になるであろうと、当人たちも周囲も、誰もがそう思っていた。
しかし、コキアスが全く別の案件でナーセリを訪問する使者団の一人に選ばれたことで、事情が変わった。
武術大会よりも数か月早いが、それではこの機会に顔を合わせてみては、ということになり、シエラへの帰国の前日にコキアスがユリウス邸を訪問することが決まったのだ。
ところが、使者の都合で彼らの帰国が一日早まってしまった。だがコキアスはこの機会を逃すつもりはなかった。不躾は承知で、ユリウスに急遽、一日前倒しでの訪問を打診してきた。
コキアスの訪問は翌日のことと、のんびり花壇の世話をしていたルイサは、今日これからコキアスが来るという突然の知らせに仰天した。
家族総出で時間を繋いでいる間に、ルイサは急いで身を清め、装いを改めた。
だが、イヤリングがどうしても決まらなかった。
「コキアスさまは、絵にも音楽にも造詣の深い方でございますゆえ」
ルイサは言った。
「色彩の感覚にも優れていらっしゃることと存じます。ああ、垢抜けぬ女だ、とがっかりさせてしまいたくないのです」
「コキアス殿はそのような男ではないぞ」
「分かっております」
ルイサはさっき下ろしたイヤリングをまた手に取る。
「これは私の中の問題でございます」
そう。たとえコキアスが笑顔で誉めてくれようとも、異国からわざわざ会いに出向いてくれた騎士の前に不本意な姿のままで出ることは、ルイサ自身が許せなかった。
美しいものを知る人の前には、精一杯己が美しいと信じる姿で立ちたかった。
ああ、兄上がコキアスさまのように繊細な感覚をお持ちであったなら。
ルイサは、鏡台の前に並べられたイヤリングを呆れたように見ているユリウスにちらりと目を向けた。
相談もできましょうけれど。
どれでもよい。
兄はそう答えるに決まっている。
武骨な兄のことを尊敬しているが、こういうときは全く役に立たないこともよく知っている。
それでもルイサは藁にもすがる気持ちで聞いてみた。
「兄上は、どれが良いと思いますか」
「一番軽いものが良かろう」
ユリウスの答えは明快だった。
「そのほうがそなたの耳が痛くなるまい」
気遣いをするところを間違えている。
このあたり、義姉上にもっときちんと教育していただかなくては。
そんなことを考えながら、ルイサは小さく頷くとまた鏡に向き直った。
「そうだ。コキアス殿は、な」
遠慮がちにユリウスは言った。
「実際に目にした我が家の花壇に感心していた。そなたから直接、花壇の花々について伺いたい、と言っていたぞ」
「左様でございますか」
そっけなく頷きながら、それでもルイサの胸は高鳴った。
今まで、華やかな花壇をお義理のように誉めてくれる男はたくさんいたが、わざわざ直接ルイサから花について聞きたい、などと言ってくれた男は一人もなかった。
ユリウスの友人の騎士リランなどは、「あの中に食える花はあるのか」と聞いてきたほどだ。
やっぱり、コキアスさまは他の騎士様たちとは違うお方なのだ。
「花壇のことなら、カタリーナもある程度の説明ができようが、それでは意味がないと思ってな」
ユリウスは言った。
「後で、二人で庭を散策して、説明して差し上げるとよい」
「ええ」
答えながら、ルイサは思わず兄の顔を見た。
「どうした」
ユリウスが訝しげな顔をする。
庭。
兄のその言葉に、ひらめくものがあった。
ルイサはイヤリングの一つを手に取った。
兄もたまには役に立つことがあるものだ。
「これにいたします」
ルイサは言った。
「大変、お待たせいたしました」
その言葉とともに入ってきた女性を見て、コキアスは思わず立ち上がった。
それまで彼と話をしていた同郷のカタリーナが、その様子を見て穏やかに微笑む。
コキアスは挨拶も忘れて、その姿に見とれた。
ルイサは、美しかった。
カタリーナも無論、美しかったが、ルイサの美しさはそれとは別種のものだった。
違う花なのだ。
コキアスはそう思った。
目の前に現れた健康的な美しさを持つ女性から、目を離せなかった。
ルイサの後から入ってきたユリウスが、コキアスの様子を見てカタリーナに目をやり、微笑む。カタリーナも笑顔で夫に小さく頷いた。
「ユリウスの妹の、ルイサと申します」
ルイサが言った。
「こうしてお目にかかれて、光栄でございます。コキアスさま」
その言葉に、コキアスは我に返った。
「シエラのコキアスです」
コキアスは言った。
「それは私も同じです、ルイサ殿。お会いできて光栄です」
しばらくの歓談の後、そのあまりに緊張した様子を見るに見かねたユリウス夫妻に、半ば強引に二人きりでの庭への散策に出されたコキアスは、ルイサから花壇の花々の説明を聞くうちにようやく自分のペースを取り戻した。
美しい花に囲まれていると、肩の力が抜け、本当の自分を取り戻せるようであった。
それとともに、ルイサの美しさに呑まれて先ほどまで目に入らなかったものも見えてきた。
「ここに咲いているアカソユは、本当はあと数日したら満開になるのですが」
「ええ。ですが今でも十分に美しい。赤い小さな花弁が本当に可憐です」
ルイサの説明にそう答えながら、コキアスはそっと彼女の横顔を見た。
小さな宝石の付いたイヤリングが、日の光を受けてきらめいていた。
それを見てコキアスは、ああ、と思った。
そうであったか。なるほど、ようやく分かった。
「ルイサ殿の兄君は」
コキアスは言った。
「ルイサ殿のことを、いつも誉めておいででした」
急に自分の話をされ、ルイサは戸惑ったように花壇から顔を上げ、コキアスを見た。
ルイサにとってコキアスの外貌は、ルイサが手紙から想像したような、繊細な感性に溢れた詩人のようではなかった。
それはそうだ、とルイサは己の思い込みを恥じた。
やはり、コキアスも騎士であった。
きりりと締まった表情。鍛えられた身体。きびきびとした身のこなし。
仮に彼が、私は剣以外に興味はありませぬ、と口にしたとしても、そうでございましょう、と納得できるだけの、騎士らしい風格を備えた美丈夫だった。
それゆえルイサは手紙との落差に戸惑い、花壇を案内しながらもどこか半信半疑だった。
この方は本当に私の話に興味を持っていらっしゃるのだろうか。
実はもう退屈なさっているのではないだろうか。
だから、突然にそんな話を始めたコキアスの意図が分からなかった。
「そうですか、兄が」
ルイサはそう言った。
「さぞおかしな話をされたことでしょう。お恥ずかしい」
「いいえ」
コキアスは首を振った。
「兄君は、ルイサ殿のことをいつも、妹はナツミズタチアオイの花のようだとおっしゃっておいででした」
「ナツミズタチアオイ、ですか」
ルイサは目を瞬かせた。
名前の通り、夏を鮮やかな青で彩るその花は、まだこの季節の花壇の色彩の中にはなかった。
そういえば、とルイサは思い出す。
兄は花壇の話をするとき、いつもナツミズタチアオイの名を出す。
それ以外に花の名前を知らないのだ。
だからだろう。妹はナツミズタチアオイのようだ、などと、とってつけたようなことを。
「兄は、それ以外の花の名をよく知らないのです」
恥ずかしそうに、ルイサは言った。
「それで、そんなことを」
「ユリウス殿の真意は、私ごときには想像が及びませぬが」
コキアスはそう前置きし、それからルイサをまっすぐに、しっかりと見た。
眩しい光の中に立つ、美しい女性の姿を。
「今こうして貴女にお会いして、私はユリウス殿のその言葉に深く納得いたしました。貴女の凛とした立ち姿。それに」
そう言って右手をそっと挙げてルイサの耳に輝くイヤリングを示す。
「そのイヤリング。室内でも大層お美しいと思っておりましたが、それは最初から、庭を案内してくださるおつもりで選ばれたものではありませんか」
その通りだった。
「はい」
ルイサは頷く。コキアスは微笑んだ。
「日の光を受けたそのイヤリングは、屋内で見た時よりも数段美しかった。それが貴女の耳できらめくさまが、夏の朝露の中でまっすぐに凛と立つナツミズタチアオイを思わせました。今は夏ではないし、貴女の服が青色というわけでもないのに」
コキアスは感嘆のため息をついた。
「それでも貴女には、気高い夏の花の風情があった。私にそう感じさせるだけの魅力が」
羨ましい。
コキアスは心底、そう思った。
ラクレウス。ユリウス。己が憧れた騎士達の姿が脳裏をよぎる。
ルイサは、道は違えど彼らと同じものを持つ人間なのだ。
「私のように、必死に己を律してそれらしく見せている人間とは違う。貴女はごく自然にそのような風格をお持ちのお方だ」
「そのような、もったいないお言葉」
ルイサは慌てて首を振ろうとして、コキアスの真摯な目の奥に宿るものに気付いた。
そして、理解した。
ああ、この方は。
ルイサが目にし、コキアス自らも口にした、彼の騎士らしい振る舞い、態度。
その奥に隠している繊細な感性が、ルイサには分かった。
必死で、騎士であろうとしている。
兄やリラン殿のような生粋の騎士でいなければならぬと、繊細な心を押し隠して、常に己を鼓舞されているのだ。
自らも騎士の妹であるだけに、その切なさがルイサの胸に迫った。
そんな繊細な心で、何人もの仲間の騎士が命を落とした魔人たちとのあの恐ろしい戦いを、この方は一体どのように生き抜いてこられたのか。
それを思うと、胸が詰まった。
同情心、というのともまた違う。
それはある種の共鳴のような感覚であった。
目の前の騎士に対する親愛の情が、ルイサの胸に湧き上がった。
「コキアスさま」
ルイサは言った。
「わたくし、今日はお時間の許す限り、自分の好きなことをコキアスさまにお話しするつもりでおります」
そう言って、勝気な目で微笑む。
「ですから、コキアスさまにもご自身が好きなもののお話をしていただきたいのでございます」
「好きなものの話を」
コキアスはルイサの言葉を繰り返した。
「さて、うまく話せるかどうか。貴女への手紙には偉そうに色々と書きましたが」
コキアスは照れたように笑った。
「なにぶん、そういうことを誰かに話した経験がほとんどありませぬゆえ」
「お伺いいたします」
ルイサも微笑んだ。
「それでも足りないようであれば、またお手紙で」
「ああ。それは素晴らしい」
コキアスは真面目な顔で頷いた。
「ルイサ殿。貴女にお会いできて本当に良かった」
心から、コキアスはそう言った。
「一目見たいと願っていた貴女のお美しい姿を目にすることができて、こうして話を」
することができて、と続けようとして、コキアスは目を見張った。
お美しい姿、というコキアスの言葉に、ルイサの顔が真っ赤に染まったからだ。
ああ、ナツミズタチアオイがアカソユになってしまった。
とっさにそんなことを考えた自分の滑稽さに、コキアスは口元を緩めた。
そして、思いがけずうぶなところを見せたルイサのことが愛おしくてたまらなくなった。
「話したいことがたくさんあります」
コキアスは言った。
「さて、何から話せばよいのやら」
「何からでも」
まだ赤い頬のままで、ルイサが言った。
「お聞きいたします」
「ああ、それでは」
不意に思い付いて、コキアスは懐から小さな笛を取り出した。
「言葉の前に、まずはシエラの調べを一曲」
「まあ」
ルイサは目を見張った。
「ぜひ」
「それでは」
笛を口に当てようとして、コキアスはふと眼下の可憐な花々の陰に、丈の低い草が伸び始めているのに気付いた。
それは、ナツミズタチアオイであった。
おお。
コキアスは微笑んだ。
しっかりと伸びよ。
そう、心の中で呼びかける。
夏、武術大会の選手として再びナーセリを訪れるときには。
コキアスは思った。
きっとここでまた、美しいナツミズタチアオイと出会えるのだろう。