花の騎士
騎士コキアスが、自分がことのほか音楽を好む人間だということに気付いたのは、いつのことであったろうか。
おそらくそれとはっきり自覚したのは、幼少の折、夏のある日に、何をするでもなく外にたたずんでいた時のことだ。
鳥が鳴いていた。
コキアスは、その鳴き声の中に、自分の心を弾ませる旋律が隠されていることに気付いた。
なんと。鳥は、歌を歌っていたのか。
その気付きが、おそらくは音楽への目覚めだったのではないか。
尚武の国シエラの、騎士の家系に生まれたコキアスは、自分が騎士となることに何の疑問も抱いていなかったし、己の命を王のため、民のために捧げることにも微塵もためらいはなかった。
けれど、騎士としての職務がそのまま生き方に直結している多くの騎士たち――眠り、食べ、恋をするのと同じように、ごく自然に己を鍛え、剣を振る、それが日常の一部である男たち――と比べると、自分は騎士にあまり向いた人間とは言えぬ、と気付いてもいた。
美しい夕焼けや、野を埋め尽くす一面の花々。
そうした美しい景色を目にするたび、コキアスの心は涙がこぼれんばかりに震えた。
剣の稽古の合間に剣と同じほどの熱心さで習得した笛で、コキアスはその感動を旋律にした。
けれど、自分のそういった感受性が、騎士達の間では侮られることを、コキアスは知っていた。
だから、己のそういった側面を惰弱なものと疎んでいたし、周囲には極力悟られぬように隠してもいた。
若い騎士たちの間でもっぱら話題となるのは、剣と魔人、それから女性についてであった。
コキアスにとっては、己が斬った魔人のことなど一刻も早く頭から追い出して美しい音楽で心を休めたいと思うことも度々であったが、周囲の騎士たちは己が斬った魔人の話を肴に酒を飲む方を好んだ。
コキアスも騎士としてその席に加わるのだが、早く切り上げたいという気持ちが顔に出てしまうこともあった。
他の騎士たちは、同じような話を飽きることなくいつまでも繰り返し、実に愉しそうに笑っているというのに、自分は同じように愉しいと思うことができぬ。
それは騎士の家系に生まれ育ったコキアスにとっては、歯がゆくも疎ましい性分であった。
「コキアス。自分が斬った魔人について後から何度も反芻してみて、戦い方はあれでよかったのか、もっと良い戦い方があったのではないかと吟味しつくさねば、成長できぬぞ。そんなことでは、いずれ必ず魔人に敗れることになろう」
コキアスの気持ちを見抜いた先輩騎士に、そう諭されたこともあった。
騎士の家に生まれたからとて、騎士に向いているとは限らぬ、とコキアスは思った。
義務として、責務として取り組む者は、それを日常の一部として取り組む者には決して勝つことができぬ。
それはコキアスが他の騎士たちの生き方に触れるたび、痛感していることでもあった。
それでも、彼が武術大会の選手に選抜される優れた騎士となり、度重なる魔人との戦いにも生き残ってこれたのは、父祖から受け継いだ騎士としての才能と、生来の真面目さで取り組んだ鍛錬のおかげであった。
だがコキアスは、そんな自分のことを認められずにいた。
なんと美しい騎士だ。
コキアスが感嘆とともに見つめたのは、隣国ナーセリからやってきた騎士ユリウスであった。
コキアスが騎士の鑑として仰いでいたのは、シエラ第一の騎士ラクレウスであったが、ユリウスの立ち居振る舞いはラクレウスよりもなお洗練されて見えた。
すらりとした長身、抑制された言動。一度はラクレウスをも破ったというすさまじい剣技。
そういった外的なものもそうだが、コキアスが憧れてやまぬ、そして自分には決して持つことのできぬ騎士の精神性が結晶となって人の形をとったかのような人物であった。
騎士となるために生まれた男というものがいるならば、こういう男のことなのだろう、とコキアスは羨望とともにユリウスを眺めた。
だから、そんなユリウスに、彼によく似た妹がいると聞いたときは、胸が高鳴った。
他の騎士の手前、調子を合わせてあけすけに女性の話をすることはあったが、彼らの話に出てくる女性たちは、コキアスを惹き付けはしなかった。
けれど、ユリウスが淡々と語る、彼の妹ルイサの話は、コキアスの心を躍らせた。
「ルイサは花が好きなのだ」
とユリウスは言った。
「毎日毎日、花壇の世話ばかりしている。花が好きすぎて、使用人からその仕事を奪ってしまったほどだ」
「女性とは花が好きなものですからな」
同僚のロサムがそう言って分かったように頷く横で、コキアスはどうにか興奮を押し隠そうとした。
ユリウスに似た、健康的なすらりとした美しい女性が、美しい花壇の前に立つ姿は、まるで一幅の絵画のように思えた。
会ってみたい。ルイサ殿という方に。
そう思った。
だが時代は、騎士であるコキアスに、いつまでもそんな甘い懸想に耽らせてはくれなかった。
魔王の出現。
“北風”と名付けられたその強大な魔王を討つための討伐隊に選ばれたコキアスは、尊敬するラクレウスらとともに闇のような瘴気の中を一路、進んだ。
時を同じくして、隣国ナーセリにも“詩人”と名付けられた魔王が現れていた。
人の世の存亡をかけた戦いであった。
だが、シエラでの戦いの結果は悲惨なものとなった。
参戦した騎士のほとんどが命を落とし、ラクレウスが全霊を尽くして魔王を討ちとったものの、逆に自らが瘴気に呑まれ、魔人と化してしまったのだ。
魔王をも凌ぐ力を持った魔騎士の誕生。
一人生き残ったコキアスは、その絶望的な報告を王にせねばならなかった。
私のせいだ。
コキアスは思った。
音楽や花などに心を奪われていたせいで、魔王討伐の力となることができなかった。
圧倒的な力を持つラクレウスがいてくれるから、何とかなるであろうと勝手に思い込んでいた。
もしも自分が他の騎士と同じように、その身も、心までも一振りの剣のように鍛え上げていたならば。
そうすれば、魔王ともっと対等に渡り合うことができただろう。ラクレウスが瘴気に呑まれることもなかったはずだ。
コキアスは、己の来し方を悔いた。
騎士としての責務を全うするためには、花も音楽も要らぬ。
ただ、剣を。強き心を。
シエラを救うためにやって来たユリウスは、久しぶりにコキアスと再会し、彼の変わりように目を見張った。
彼は己を捨てて、純粋な「シエラの騎士」になろうとしていた。
ユリウスの剣が魔騎士ラクレウスを打ち砕き、ラクレウスはコキアスに第一の騎士となれと言い遺して逝った。
人の世の存亡をかけた戦いは終わった。
だが、その場にいた三人の騎士、ユリウスとコキアスとリランは全員が傷つき、そこから動くこともできなかった。
「こういう時は、じたばたしても仕方あるまい」
一番年長の、ナーセリの騎士リランが言った。
リランがラクレウスに斬られた胸の傷は深くはなかったが、出血は止まっていなかった。しかしリランは無造作に包帯を巻いただけでもう気にする素振りも見せなかった。
「腰をやられた。もう立ち上がれぬ」
そう言って、ごろりと横になる。
「だがこのまま眠れば、もう俺は目覚めぬ気がする。話でもするか」
「うむ」
戦いの一番の殊勲者である、ナーセリ第一の騎士ユリウスも、満身創痍で座り込んだまま立ち上がれぬようであった。
「救援隊が駆けつけてくれるとは思うが、そうすぐには来るまい。ここまで来たら、三人で生きて帰らねばな」
「ええ」
コキアスは頷いた。
彼もまた、ラクレウスの攻撃によって全身の骨がきしむほどの重傷を負っていた。
それでも、彼はこの場にただ一人残ったシエラの騎士として、目を閉じるわけにはいかなかった。
「そうですな。ユリウス殿、リラン殿、何か話をしましょう」
まずはリランが中心になって、魔人と戦ってきたその豊富な経験を語った。
まさに今の今まで、命懸けの戦いをしていたというのに、まだ戦いの話をするその神経の図太さにコキアスは驚いた。
コキアスは、己の全霊をかけた壮絶な戦いが終わった今、美しい景色や美しい音楽に触れたくてたまらなかった。現実を離れ、そういうもので心を少しでも癒したかった。
だがユリウスも穏やかな表情で、剣について静かに、熱く語った。
リランがそれに愉しそうに相槌を打つ。
つまるところ、この男たちは、剣がどうしようもなく好きなのだ。
騎士として求められる、厳しい鍛錬や魔人との戦い、そういうものを義務ではなく日常の一つとしてこなすことができる男たちなのだ。
そう考えると、コキアスの口は自然重くなった。
ラクレウスには、お前にシエラ第一の騎士を託す、と言われた。
だがそれは今この場にシエラの騎士が自分しかいなかったからであろう。
自分にはどうあがいても、逆立ちしてもこの男たちのようにはなれぬ。
そう考えていた時だった。
「コキアス殿は」
不意に、ユリウスがそう話を向けてきた。
「こういう話があまりお好きでないようだ」
「いえ」
慌ててコキアスは首を振る。
「そのようなことは」
「よいのだ、分かる」
ユリウスは穏やかにそう言った。
「私が剣の話をしているときのルイサと同じ目をしていたのでな」
「ふはは」
リランが豪快に笑った後で、自分の胸を押さえて低く呻いた。
「あまり笑わせるな、ユリウス。だが、なるほど。貴公の妹御とは、言い得て妙だ。コキアス殿は剣ではなく花の方がお好きかな」
心の見透かされたうえで揶揄されている気がして、コキアスはその言葉を否定した。
「いえ、私とてシエラの騎士。花などは決して」
「コキアス殿」
ユリウスは静かに言った。
「貴公は勇敢な騎士だ。そこに疑問の余地などない。それは、私もリランもよく知っている」
ユリウスのコキアスを見る目は優しかった。
「我らは剣しか知らぬゆえ、剣の話をしているまでのこと。花が好きならば花のことを、絵が好きならば絵のことを話せばよい。我らはそれを傾聴しよう」
そう言うと、リランに顔を向ける。
「リラン。貴公もそうであろう」
「無論よ」
リランは頷く。
「ラクレウス殿も言っていたように、貴公はもうシエラ第一の騎士だ。俺は他国の騎士なれど、その評価に異存はない。ならば、酒でも女でも、花でも音楽でも、己の好きなものを騎士の嗜みだと堂々と言えばよい」
「いえ、私は……」
リランの言いぶりに苦笑し、コキアスはそれでも己がかつて斬った魔人の話をしようとした。
だが、戦いに疲れ果てた心には、何体も斬ってきたはずの魔人の姿はもはや一体も浮かんでこなかった。
それほどまでに、彼の心は美しいものへの渇望に似た安らぎを求めていた。
コキアスはしばらくためらった後、困惑した微笑を浮かべた。
「やはり、花の話をしてもよろしいでしょうか」
その言葉に、ユリウスとリランは笑顔で頷いた。