リズ王女
ユトダイン王国の人口はここ数十年で爆発的な増加を見せていた。つい三十年前まで3500万人程であった総人口数は今や約5000万人を超え、今も尚増加を続けている。ヘルト帝国やルネスタン共和国といった一億人超の人口を誇る超大国には未だ及ばぬものの、増加率においてはそれら大国を遥かに凌ぐと言えるだろう。
こうした急激な人口増加の背景には、王国における軍事力・経済力の著しい成長があった。ユトダイン王都銀行は今や世界三大銀行の一角を占めるほどまでに成長している。ルネスタンの首都テオドナ、ヘルトの首都ヴォロフスクに並び、王都は世界で最も巨大な金融市場の一つへと変貌していたのである。
軍事、外交、国際政治の壇上でも、我が王国は大なる発言力を有していた。ヘルト帝国・ルネスタン共和国・サルデーニャ王国・サマンダル帝国。以上四つの巨大国家と肩を並べる我がユトダイン王国は、既に五大国の一員として世界情勢を動かす立場にあったのだ。
その輝かしい王国の王女。そうだ、リズは単なる一小国の王族なんかじゃない。世界で最も強大な軍事力を持ち、世界で最も豊かな国の一つ、ユトダイン王国の王女なのである。そして、俺はその王国の元首相、ニック・ロビンソンの息子なのであった。
……いいや、俺の事情など大した話ではない。リズの境遇は単に王女であるという以外にも、多くの微妙なる問題をはらんでいるのだから。
リズの母、即ちユトダイン王国の王妃であるアナスタシアは、実は元々この国の人間ではない。これは王国民にとっても周知の事実であるのだが、彼女は隣国ヘルト帝国の元皇女なのである。
今からおそよ30年ほど前のことだ。ユトダイン王国との同盟強化の為に、皇女アナスタシアは我が国の王室へと嫁いできたのた。ヘルトの皇女とユトダイン王子の結婚。今や珍しくなった政略結婚というやつである。二人の結婚はまさに、両国を繋ぐ希望の架け橋であった。
やがて二人の間に女の子が誕生した。それがリズであった……。
出産の報は両国民を歓喜の渦に引きずり込んだ。王都市街は紙吹雪に包まれ、大国の結束は更なる進展を遂げたのだ。リズの存在は平和の象徴となり、その後も両国民の精神的支柱であり続けた。
全国民から愛され、祝福され、そして大いなる希望を民にもたらす平和の女神。公式の場で見せる緊張気味な様子も、家族と過ごす無邪気な笑顔も、王学院の運動会で徒競走に全力を注ぐ姿も、全てが新聞雑誌の記事となり、隠し撮りの写真が掲載される度に世間を賑わせる。王室はリズのアイドル化を憂いたが、彼女の大衆人気は過熱する一方であった。露店では彼女のプロマイドを売る者まで現れ、女学生は有名俳優や文化人、或いは貴族家の息子のプロマイドと一緒に、リズの顔写真を購入して自室に置くのだと言う。また男子学生は仲間内の悪ふざけで、或いは彼女の美貌に恋焦がれる純粋な青年が、引き出しに仕舞い込んだ彼女の写真を取り出しては見詰め、ため息を吐き、軽くキスをする。
つい昨年も、ヘルト帝国貴族の御曹司と親しげに談笑するリズの姿が新聞に掲載され、大いに物議を醸したことがあった。他にもルネスタンの海軍将校やサルデーニャの資産家の息子など、リズに思いを寄せる男の存在は世界中で後を絶たない。新興帝国サマンダルの皇族が、熱烈な愛を綴ったラブレターを送って来たのもつい半年前の話である。どうやらリズの母、アナスタシア王妃は娘の自由恋愛を認めているようで、気になる人がいれば自由に付き合っても良いと語っているらしいが……。そうした王妃の放任主義的な教育方針が、加熱する報道合戦の一因でもあると言えるだろう。
……幸いなことに、これまで俺の名は殆どマスメディアに取り上げられてこなかった。レオン・ロビンソンの名が報じられるとすれば、その多くは俺の不良学生ぶりであったり、社会に適合できないダメ息子としての一面ばかりである。偉大な総理大臣の息子は退学を繰り返す親不孝者であり、父ニック・ロビンソンの才覚を受け継ぐことが出来なかったのだと。そしてあのリリアンを母に持ちながら、俺は軍人としての才能にも乏しかった。「天才の子が必ずしも天才であるとは限らない」。こうした心無い記事を書き立てられる度に、俺は心底苦しい思いをしてきたのである。当然、リズ王女の恋人候補に俺の名が挙げられることなど、これまで一度たりともありはしなかった……。
だが近年、あれだけ国中を騒がせたリズ報道は鳴りを潜めていた。2606年から始まった恐慌の嵐。それは瞬く間に全世界を巻き込み、やがて我が王国にも絶望の時代が訪れたのである。街は失業者で溢れ返った。明日には自身の生活を失うかもしれない。そんな絶望的状況に追い込まれた市民たちにとって、王室の日常などという話題は心底どうでも良い、実に些末なニュースであった。大強気相場は崩壊した。投資家は借金のかたに家を売り、かつての工場労働者達は炊き出しを求めて路地に列を作る。
そして同時に、とうの昔に消え失せていたかに思われていた、革命運動の兆しが見え隠れし始めた。未だ市民より圧倒的人気を誇るリズの存在であったが、ここ最近は彼女の安全を脅かすかのような言説も少しずつ現れるようになっていた……。
「参ったなリズ……。流石に今回ばっかりは、兄さんに殺されかねないよ……」
リズの来訪に驚き、そして神妙な表情を見せながら項垂れるのは、この国の摂政であり王位継承権を有する次期国王、ランカスター王太子その人であった。ちなみに彼はリズの父、即ちジェームス国王の実の弟である。リズから見れば叔父にあたる人物だ。
「ランカスター叔父様、今日はいつもみたいな家出と違うの。叔父様にいろいろ聞きたいことがあって」
「……ああ、そのようだね」
ランカスターの鋭い視線に捕捉され、俺は思わずその場で硬直してしまった。恐らく彼は俺の事を知っている。まあ当然のことであろう。この男は、俺の親父と友人関係にあったのだから。しかし……。
「レオンか、大きくなったな。リリアンは元気かい?」
父の葬儀にも現れなかった目の前の男は、その話題には一切触れようともせず、何故か母の近況について尋ねてくるのであった。葬儀に参加しなかった後ろめたさを感じているのか、それとも父のことなど最初から気にも留めていないのか。その心情は測りかねる……。また同時に、彼の質問があまりに無神経なものに思われて、俺は胸の底からふつふつと苛立ちがこみ上げるのを感じるのであった。
「母のことですか? 元気なわけないでしょう?」
「そうか。……お父さんの件は……私も心より残念に思っている。……まさか君がここに来るとは思ってもみなかった」
果たして本心からそう思っているのか。今こうして対面してみて、何となく母の言っていたことが理解できたような気がしていた。この男、ランカスター王太子からは、何か不気味なオーラを感じるのだ。言葉では形容し難い、何とも言えぬ奇妙な違和感を覚えるのである。
「叔父様、私の質問に答えて。叔父様はダンバース家と親しかったみたいだけど……」
「リズ!!」
執務室にランカスターの声が響き渡る。リズは驚いて後ずさり、彼の発する並々ならぬ異様な空気感に顔を引き攣らせた。そういえば彼女は、ランカスターのことを優しい人だと語っていたが。こうした反応を示されるのは初めてだったのだろうか。今にも泣きだしそうな表情で俺の後ろに回り込み、震える手で背中にしがみつくリズ。
「王太子殿下……。その反応、やっぱり何か知ってますね? それも余程話せない重大な何かを……」
トムは緊張で汗を滴らせながら、精いっぱいの作り笑いを浮かべてランカスターと対峙した。するとランカスターは不意に背を向け、自身のデスクに置かれた電話の受話器を手に取った。
「もしもし。私だ、ランカスターだ。兄さんに伝えてくれ。リズ王女がうちの宮殿に来てる」
……こいつ、やりやがった。電話の相手は恐らく王宮職員だ。俺は慌てて周囲を見回した。
付近に護衛の姿は無い。こうなったら今すぐここを出て、どこか遠くに身を隠す他無いだろう。
やはり母の言う通りであった。「ランカスターは信用ならない男である」と、母がいつもそう語っていたことを思い出す。この男を信用したのが間違いだったのだ……。
しかし次の瞬間、ランカスターは口元に指を当てて俺たちに静止を促した。そして受話器を片手に、再び話を続ける。
「……ああ、しっかり監視もつけてる。ちょっと説教したらすぐに従ってくれたよ。今は私の部屋で大人しく座ってるから。……いや、流石にダレンまで寄こさなくても。うん、心配いらないさ。……それじゃあ」
受話器を置いたランカスターは再びこちらに向き直った。彼の表情には明らかに焦りが見える。
「リズ、さっきは怒鳴ってすまなかった。それにステラも……」
「……えっ? ええっ? どうして私の名前を?」
王太子に名を呼ばれたステラは動揺して、どぎまぎしながらそう訊ね返した。するとランカスターはため息を吐き、苦し気な表情を見せながらこう答えるのであった。
「君もある程度知っているんだろう。だからここに来た。違うか?」




