王太子
恐らくユトダイン王国民で、リリアン・ロビンソンの名を知らぬ者は殆どいないだろう。ニック・ロビンソン元首相の妻にして、彼の活動を陰から支え続けた理想の女性。その立ち振る舞いは多くの王国民を虜にしてきたという。ニックの死から約一か月、不運にも未亡人となった彼女を慕う王国民は未だ後を絶たない。
そんな女性を母に持った俺であるが、彼女の王室衛兵時代の話は今尚詳しく聞くことが出来ていない。父と結婚する前、リリアン・フレッチャーであった時代のことは、これまでほぼ何も聞かされてこなかったのだ。
そう、母リリアンは、元々この国の王太子妃の側近衛兵であった。現王妃アナスタシアが王太子妃であった時代のことである。側近衛兵とは王室一家を護衛する兵士のことで、軍で最も戦闘に長けた人物が選ばれる。母は若干15歳で側近衛兵に選出された天才であった。王国史上二番目に若い側近の誕生に、当時王国民は大いに沸き立ったという。
父と結婚するまで、母リリアンはその殆どを王太子宮殿で過ごした。いわば王太子宮殿は、母にとって実家も同然の場所である。その宮殿に、俺は今、とうとう足を踏み入れようとしているのであった。
「かつて国王陛下と王妃殿下が過ごした宮殿だ。今は、ランカスター王太子が暮らしている……」
そう言って、トムはごくりと生唾を飲み込んだ。ランカスター王太子。現国王ジェームスの弟であり、国王を裏から支える男。
国王の子は、今俺の隣に佇むリズ一人のみである。つまるところ王と后の間には息子がいない。リズが男なら問題無かったのだが……女の子だから、国王にはなれない。その為王位継承権は今のところ、王の弟であるランカスターが有しているのであった。
「リズ、本当に大丈夫なのか?」
「うん。ランカスター叔父様なら、きっと私たちに協力してくれるはずよ」
「……ならいいんだけど」
理由は分からないが、母はランカスターを嫌っているようであった。彼の名を聞くといつも怪訝な顔をして、あの男は信用ならないと愚痴をこぼす。そんな母の姿を何度か見ていた俺は、同じく摂政ランカスターという人物を快く思っていなかった。
しかしランカスター王太子に対する直接の印象は存在しない。どうやら幼少期に一度会ったことがあるようだが、記憶は無かった。もし今から宮殿に乗り込んで会うことができたなら、これが初対面になると言っても差し支えないだろう。
外門に近付くと、護衛の男が目の間に立ちはだかった。するとリズは平静を装って、目深に被っていた帽子のつばを軽く上げ、自らの顔を護衛の男に見せつける。
「リズよ。久しぶりねジョン」
「……驚きました。殿下、こんなところで一体何を? 失踪の報はこちらにも入っておりますぞ」
護衛の男は眉間に皺を寄せ、俺たちの姿を見回した。しかしそんな男の様子を無視して、リズは小声で次のように続ける。
「叔父様に会いたいの。通してくれないかしら」
「……全く。今度という今度は知りませんよ? 責任は全部王太子に押し付けて貰わないと」
「勝手に忍び込んだことにしてもらって構わないわ」
「……分かりました」
男は呆れた表情で頷き、外門のカギを開け俺たちを中へ招き入れた。彼の口ぶりから察するに、リズは以前もランカスター王太子を訪ねて来たことがあるのだろう。改めて、リズが王族の人間であることを認識させられるのであった。
「……すげえな……顔パスかよ」
「叔父様は優しい人よ。私の勝手な行動も全部受け入れてくれるの。まあ、その度にお父様から物凄く叱られてるらしいけど」
「優しい人、ねえ……」
母はランカスターを嫌っていたが、亡き父は彼と親密な仲であったらしい。事実ランカスター王太子と父は、共同で本までも出している。二人は仕事仲間であり、かつ仲の良い友人でもあったのだ。ただ、そこまでの仲でありながら、ランカスターは父の葬儀に姿を見せなかった。確かに彼は公の舞台に殆ど現れないことで知られていたが、せめて友人であったという父の葬儀ぐらい、顔を出してくれても良かったのではないか。
広大な庭園を抜け、俺たちはようやく宮殿内に足を踏み入れた。かつて母が暮らした場所。そして、初めて父と出会ったこの場所へやって来たのには訳がある。俺の後ろに続くステラの衝撃的な告白が、俺たちをこの地へ導いたのであった。
「産まれて間もなく亡くなったマーガレット・ダンバースの子供……。一体誰が父親だったのか、今でも謎とされていますが……」
ステラの母はダンバース家の使用人であり、当主のマーガレットから最も信頼されていた召使いでもあった。そして、マーガレットの出産に立ち会った数少ない人物の一人でもあった。
「当時お忍びで、よくダンバース邸を訪れていたのが……ランカスター王太子であったと……。そしてマーガレット様は……」
俺だけでなく、長らく出版報道の業界に身を置いていたトムでさえ、この衝撃の事実に驚愕していた。王位継承権を持つ男でありながら、ランカスターには女性の気配が一切無かった。業界では『彼の恋愛対象は男なのではないか』とまで囁かれるほどに、これまで見事なまでに女の影が浮上しなかったのだ。
この話を聞いたリズは決心したように立ち上がり、すぐさま王太子宮殿へ向かおうと提案した。そして今目の前を歩く彼女は、迷いなき足取りで宮殿を突き進み、王太子が控えていると思われる執務室へと向かうのであった。




