錯綜
「学校はどうするんだ?」
巨大な旅行トランクを広げ、ワンルームの片隅に居城を築き始めるリズに対して、俺は率直な疑問を投げかけた。彼女は現在、王侯貴族専用学校の女子王学院中学科に通っているはずだ。
「今は夏休みでしょ? 何言ってるの?」
「あー、そういやそうか……」
約半年前に退学してから久しく学校生活というものに触れていなかった為、夏休みの存在をすっかり失念していた。今日は8月2日。学生たちは煩わしい勉学から解放され、ひと時の開放的な夏を謳歌するのである。正直、今の俺にとっては毎日が夏休みのようなものなので、8月の訪れにあの頃の高揚感を覚えることなどない。アパートの最上階は激しい日光に晒される為、うだるような暑さが部屋中を覆いつくすのだ。
「つーか、どうしてこの部屋が分かったんだ?」
「貴方のお母様に聞いたのよ。この前のお葬式で」
「ああ、そうだったんだ……」
「お母様心配してたわよ? 今は夏休みだからいいけど。学校始まってもさ、無理しなくていいんじゃないかって」
「え? いや学校は……。聞いてないのか?」
「何を?」
さては母さん、俺の為に嘘をついていたな。不思議そうにこちらを見据える彼女の姿が目に入り、俺は恥ずかしさのあまり赤面した。学校を中退し、まともに働かず王都でフラフラ遊び回っていた二歳年上の幼馴染。その事実を自らの口から打ち明けるのは大いに気が引ける。
「まあ、色々それなりにやってるよ」
彼女の疑問に明確な回答を示すことは出来なかった。何とも情けない発言である。しかしながら、こうしたその場しのぎの返答に対しても、彼女は大した興味を寄せる様子もなく淡々と築城に勤しんでいる。
「なら良かった。とりあえず夏の間はお世話になるつもりだから、よろしくね?」
「……いや、いやいやいや。色々マズい気がするんだけど」
王女の失踪を黙って見過ごす人間が、果たして宮中に存在するだろうか。彼女は家出と語っていたが、庶民の娘が行方を眩ますのとは訳が違う。
「……駄目かな?」
「ダメと言うか……ねえ? 君は王室の長女なんだし……。いくら幼馴染とはいえ、君を匿ったらどんな事態に発展するやら……」
駄目に決まっているだろう。彼女も彼女で一体何を考えているんだ……。
「レオン、貴方しか頼れる人がいないの。私はこれ以上あの宮殿に居たくない。本当に吐き気がするわ。まさかお父様が……」
そう言ってリズは顔を曇らせ、嫌悪の感情をその表情で露わにするのであった。
リズの父親といえばすなわち、この国の王、ジェームス国王のことである。彼は俺の父と古くからの友人であり、父の葬儀に参列した数少ない同志の一人でもあった。俺とリズが幼馴染であるのも、双方の父親が親友同士であった為である。特に夏の休暇。ちょうど今現在のような、うだるような夏の日差しの下で、俺たち家族と国王一家は毎年のようにサリムの保養地へと出掛けていたのだ。あの頃はリズと会えるのが楽しみで、夏の訪れが待ち遠しかったものである。
「……何があったんだ?」
するとリズはキッとこちらに向き直り、真剣なまなざしで俺を見据えた。その瞳には覚悟の炎が燃え滾っていた。二つ下の少女の並々ならぬ表情に、俺は思わず息を呑み、彼女の瞳を真っすぐに見詰め返すことしか出来なかった。
「私はただ親子喧嘩をしてここに来たわけじゃないの。どうしても、確かめなきゃいけないことがあるのよ……」
「それは……どんな……」
「国家の重大事件に発展しかねない大問題よ」
いやいや。この状況が既に国家の重大問題ではなかろうか。一国の王女が無職同然の男と同棲だなんて、マスメディアの目に留まれば事件どころの騒ぎじゃ済まないだろう。今すぐ王宮に連絡して、彼女の保護を要請するべきである。
しかし……。
「俺は何をすればいいんだ?」
彼女に協力したかった。ただそれだけなのだ。先に待つのは実に恐ろしい結末かもしれない。だがしかし、俺は彼女の力になりたかった。そして彼女はこちらに向けて、俺が思い描いていた通りの、あのとびっきりの笑顔を見せるのであった。
「協力してくれるの!?」
「ああ。良く分からないけど、この際どうなったっていいさ」
今の俺に失うものなど何もない。怖いものなど何一つありはしない。……と言ったら嘘になるが、俺は、この笑顔が見たかったのだろうか。
昔からリズは無邪気で無鉄砲で、何をしでかすか全く予想のつかぬ子であった。思い返せば十歳の頃だったか。彼女から王宮を抜け出して、王都の繁華街を見に行こうと提案されたことがあったのだが、あの時も俺は、今のように大きな不安を抱きながらも、彼女と共に手を取り合って宮殿を後にしたのであった。結局繁華街に着く前に王室衛兵に捕まって、後にこっぴどく叱られたものであったが、あの時の高揚と同じような感覚を、今の俺もはっきりと感じているのだろう。
「色々説明したいところだけど、まずはこの手紙を読んでほしいの」
リズはそう言って一通の便箋を手渡した。宛先はジェームス国王、つまり彼女の父親となっている。しかし郵便局の消印が見当たらない。恐らく何らかの方法で、直接国王へ届けられたものなのだろう。
だが最も俺の目を引いたのは差出人の名であった。詳しいことは覚えていないが、その名には確かに聞き覚えがあったのだ。何かの拍子に父が語っていたような、或いは母が口にしていたような気もする。いやそうでなくとも、この名を見て何も思い当たるところの無い人間は、王国中を探しても滅多に見つけられないことだろう。
『マーガレット・ダンバース』
貴族制の廃止が叫ばれる昨今。ダンバース公爵家と言えば、俺たちの暮らすユトダイン王国で最も大きな影響力を有する一大貴族である。その筆頭であるマーガレット・ダンバースは、故チャーリー・ダンバースの一人娘としてダンバース家を束ねる一族の長であった。
そして、俺はリズの明かそうとする重大問題の内容をある程度予測できてしまっていた。文筆を生業とし、ある程度出版業界との関りを有する俺にとって、マーガレット・ダンバースとジェームス国王にまつわるゴシップは珍しい話でもなかったのだ。
しかしリズの口から出た台詞は、俺の想定を遥かに上回るものであった。それは彼女が幼い故か、それとも元来有する正義感から来るものか。彼女の発言に、流石にそんなはずは無いだろうと一笑しかけたが、またも彼女の真剣なまなざしを見た俺は、ただ低く唸ることしか出来なかったのである。
「多分私はお母様の娘じゃない……。私のお母様はアナスタシア王妃じゃなくて、マーガレット・ダンバースなの……」
そんな筈はないだろう。可能性は極めて低いと言わざるを得ない。いったい彼女が何をもってこの結論に至ったのか。問いただしたいことは山ほどあるのだが、彼女は本気であるようだ。
「……確かめたいんだな?」
「うん……絶対に……」
彼女はこくりと頷いた。俺は無意識に彼女の小さな手を握っていた。何かが始まろうとしている。得体の知れぬ高揚が俺を支配する。それは野次馬精神とも異なる、冒険の始まりに胸を躍らせるかのような感情の高ぶりであった。




