随想録11 追跡者
―――世情とは、移ろいやすいものである。
六月に入ると、あれほど世間を騒がせたマックス・ヘンデル事件の報道も下火になっていた。
国王グスタフも王妃ディネルースも無事であったうえに、最終的には大逆罪の扱いとされた同事件の審理は非公開であったので、オルクセン国内主要各紙も他の出来事を一面で取り扱うことが増え、ひとびとの噂の関心も離れていったのだ。
そもそもこの年は、何かと耳目を集める出来事が多かった。
二月、歴代最長の在位を誇った聖星教教皇逝去。
これは星欧各国と―――とくにグスタフとは揉め事の多かった人物で、長年の対立関係に大きな変化を迎えたことを意味する。代わって、融和的な新教皇が選出されたから尚のことだ。
四月には、あのヴィルトシュヴァイン会議があった。
その影響と注目度は、改めて述べるまでもない。
ついで五月三日に開廷した、エルフィンドにおける“戦争犯罪者”への特別法廷。
これは暫定政府が組織した「戦争及び他種族迫害に関する責任を調査する一五名委員会」が起訴を勧告した第一次及び第二次収監者に対するもので、同月六日には罪状認否が、その後も断続的に審理が行われていて、オルクセン報道各紙も特派員の伝える記事を次々に載せた。
三一日には、アルビオン海峡で凄惨な海難事故が起きた。
キャメロット海軍の装甲艦アレクサンドリナ号と二等巡洋艦ピナフォア号が衝突して、三一七名の同国海軍将校及び下士卒が亡くなったのだ。これはキャメロット海軍史上、平時におけるものとしては最悪の事故で、グスタフ王を始め各国首脳をして弔意の表明に至らしめている―――
マックス・ヘンデル事件は、国王と王妃が巻き込まれたというのでしばしば話題に蘇りはしたが、もう市民の興味や噂は日々の新たな対象を求めていたのは確かだ。
そのような移ろいやすい、飽きっぽいといってもいい世間の裏で、ヴィルトシュヴァイン刑事警察刑事部長カール・ローマンは、ずっと「謎の男」を追っていた。
「こいつは、何処かが奇妙だ・・・」
ローマンをまず驚かせたのは、広範な調査によってもついに対象が発見できなかったことだ。市内各所にあるホテルや宿屋には、例の男はいない、ということになる。
「もう、逃げてしまったんじゃありませんかね?」
若いマルヒは、市街域外へか、あるいは国外への逃亡を疑った。
「・・・どうだろうかな」
ローマンが気にかかったのは、この謎の男に漂う、何かを―――それはおそらくローマンの見るところ何らかの重大犯罪に違いない何かを、念入りに計画している様子でありながら、あちこちに漂う、ちぐはぐさなのだ。
ヴィルトシュヴァインの警察網に、痕跡もひっかからない手際の良さは認める。おそらく入念に準備をしてのことなのだろう。
だが。
―――なぜ荷物を放置した。
―――なぜ偽造旅券を残した。
―――なぜ料金を踏み倒すようなかたちで逃げた。
―――なぜケースに鍵をかけなかった。
杜撰だとしか思えない。
別の偽造旅券を用意しているにせよ、己の計画に自信を持っているにせよ、そのような真似の数々をやらなければ警察に疑われなどしなかっただろうし、もっと時間を稼げたであろう。
例えば、だが。
当日でも前日のうちにでもいい、料金をちゃんと精算し、ホテル・ヴァーグナーをチェックアウトして、荷物も全て携えて移動してしまえば。偽造旅券は燃やすか、何処かの屑籠か、川にでも捨ててしまえば。
少なくとも、身元の照会までには至らなかったはずなのだ。
そんな誰でも思いつくようなことをやらず、わざわざ己が首を絞めているようにしか思えない。
単純に済むことを、意味もなく小難しくこね回しているような。そのような掴みどころの無さがあった。
「・・・何なのだろうな、こいつは」
ローマンがオフィスにしている部屋には、立て続けにタバコを吸ったので猛烈な紫煙が漂っている。
彼もマルヒも、かなりの愛煙家だったからやむを得ない。
ローマンが、安いが強いゴールデンフレーダーマウスに火を点ければ、マルヒもまた洒落者らしく、キャメロット産のアルカディアというシャグタバコを紙に巻きはじめた。
ふたりとも喉はいがらっぽく、頭痛がした。
コボルト族シェパード種のマルヒは、そのすらりとした鼻筋を少しばかり蠢かせてから立ち上がり、換気のために窓を開けた。
煙が流れ、薄暗かった部屋に光柱が差し込んだようになる。
何処の国の何処の警察でもそうだが、刑事のオフィスなど狭く、冴えないものだ。雑然としていると言ってもいい。
ローマンの部屋も例外ではなかった。
彼の執務卓。助手のマルヒの机。過去に担当した捜査資料のつまった書類棚―――
ヴィルトシュヴァイン警察の建物は古い城塞を再利用したものだったから、扉や白漆喰の壁といった造りばかりは立派だ。石壁にタペストリーのひとつでも掛かっていればまだ雰囲気があったのだろうが、近代改修工事の際に無理矢理通した照明用の電気配線と蒸気ラジエーター暖房用の配管が走っているだけである。
しかしこの「冴えない部屋」が、首都ヴィルトシュヴァインの治安を守っている紛れもない中枢のひとつなのだと、マルヒは己を慰める。
「コーヒー、淹れさせましょうか」
「うん」
事態が大きく進展を見せたのは、六月一〇日月曜のことだった。
あのホテル・ヴァーグナーを訪ねてきた「自称貿易商」のキャメロット人の男が、あるじ夫妻の機転と協力も得て、諦めずに巡回を念入りにしていた上級巡査ブーフヘルツに捕まったのである。任意同行を求められ、踵を返して逃げようとしたことが返って拘束の理由になった。
連行されたケーニヒスガルテン地区署で、配属の刑事は非常に上手い方法を使った。
「それで、金髪のあいつにどんな美味い話を持ってきたんだい?」
カマをかけたのである。
「・・・いいぜ、何が聞きたいんだ?」
ひっそりと息を飲む刑事の前で、この自称貿易商ロナルド・アステアは二時間かけて供述した。
調書は直ちに刑事警察本部へと届けられて、ローマンのもとに回覧された。
彼はそれを一読し、茫然とし、煙草をもみ消してからもう一度読み、
「・・・・・・これは、いかん。マルヒ、私は総監のところへ行ってくる」
告げた。
「本名、エドワード・ロンズデール。貿易商。若いころは大陸相手に色々と仄暗い商売もやっていたようですが、最終的にはキャメロット産カットパイルの高級ラグカーペットを旧エルフィンドへと輸入する、真っ当な現地商会を営んでいた男です」
ヴィルトシュヴァイン刑事警察総監ウェーバーの報告に、内務省会議室に集合した国王警護及び治安維持関係者たちは耳を傾けていた。
既に、六月一三日の午後になっている。
これは当時の通信能力からすれば、あるいは記録の類が全て手書きの書類で成されていたことを思えば、裏取りに要した時間としては致し方のないことである。
エルフィンドという一言に、場は騒めく。
まあ続きを聞き給えといった仕草で内務大臣ボーニンは軽く片手をあげ、ウェーバーに促した。彼は頷き、
「キャメロット公使館及び我が半島占領軍総司令部への問い合わせによれば、ロンズデールが商会を開いていた場所は北部ノアトゥン港。そこで白エルフ族の伴侶を得てもいた、と。そのため開戦後も残留。しかし・・・」
「・・・艦砲射撃か。エルフィンド戦役末期の」
国家憲兵隊長官ディートリヒが、呻いた。
「はい。どうも、攻撃からは無事逃げ延びたようです。しかしあの一連の砲撃では現地の白銀樹にも被害が出たのは皆さん御承知の通りで、彼の細君は・・・」
失輝死した、というのだ。
ボーニン大将は、出席者たちが再び騒めくなか、ウェーバーを通じて提出されたローマン警視の報告書をフォルダから取り出した。部数を限った複写が取られ、皆にも配布されている。
「ローマン警視は、このロンズデールが国王陛下への邪悪な企みを抱いて潜伏している可能性を疑っている。そして形跡の数々から、どうも正常な判断能力を失っている可能性が高い、とも。そして私は、この報告は信じるに値すると思っている」
復讐を狙っている―――とは、オルクセンの中枢に座る者としても臣下としての立場からもボーニンには口に出来なかったが、座の者たちには充分に通じた。
皆、この会議に言わばオブザーバーとして出席を許され、最下座に着いている首都刑事警察の冴えない警視を見やり、目を伏せた。
「ともかく。もう一度、徹底的に市内を捜索することですな―――」
ディートリヒ大将が見解を述べた。
「ホテル、宿屋、料理宿屋。相手の容姿容貌もこれだけ分かっているのだ、さほど難しいことではないように思う。たいへんな数の捜査陣を必要とすることだが」
このオーク族の牡は、政治的にソフィスティケイトされた慎重な言い回しで、国家憲兵隊も投入すべきだと滲ませた。
オルクセンの平時おいては、警察力が足らぬとなった場合、あくまでその備えとして国家憲兵隊を治安維持に使うことが出来る。だがこれには法的な制限があった。地方自治体首長もしくは警察自身が出動を要請するか、内務大臣の命令か、国王グスタフの勅命が必要だ。
出席者は誰ひとりとして彼の言葉の意味を誤解しなかった。
例えばこの場には、アンファウグリア旅団長アルディス・ファロスリエン少将と、国王警護隊リトヴァミア・フェアグリン大尉がいたが、誰も彼女たちを捜査に投入しようなどといった考えは持たなかった。
彼女たちは、役割が違う。
国王警護の任から離れるわけにはいかず、これは誰しもが納得するところだ。
だとすれば、新たに投入できる捜査陣とは国家憲兵隊を指すことは自明の理である。
「むろん、国家憲兵隊にも出てもらう―――」
ボーニンは頷いた。
「陸軍記念日まで、あと五日しかない」
―――キャメロット連合王国首都ログレス。
この人間族諸国家最大級の都市、栄えある大キャメロットの中心にして、世界の金融及び貿易中枢の一角に、ブルックフィールド街と呼ばれている区画がある。
いわゆる高級住宅街で、ログレスでもっとも地価が高いのもこの辺りだ。
レストラン、高級品店舗といったものの他に、各国公使館のうち幾つかもあり、この街の南側にある国会議事堂や女王の住まう宮殿などとも連絡交通のやりやすい場所だ。
キャメロット首相ビーコンズフィールドは、この街のタイバーンレーン九七番地に私邸を構えていた。
日々の政務の殆どをこの場所でやっている。
のちの時代、キャメロット政府中枢といえば誰しもが想像するブラウニング街一〇番地は、既に首相公邸として利用された歴史も政府所有物件としても存在していたが、このころは治安も地盤も悪いというので歴代首相の多くはこれを嫌い、住んでいない。
誰も彼もがそれよりも立派で適度な広さを持つ私邸をログレスに所有していたから、そちらを公務にも使っている。ビーコンズフィールドもそのひとりだ。
オルクセンの治安関係者が焦慮と危機感に満ちた会合をやった日の夜、このキャメロット首相の館に、外務大臣、内務大臣、ログレス警視庁警視総監、彼らの補佐役などが集まった。
このなかでまだ若い外務大臣秘書パーシー・フェルプスは、仕えているホールドハースト卿の甥でもあるというので、末席ですらないが参加を許された身であった。
「いいか、パーシー。今夜見たことは口外するなよ」
伯父からは、事前にそればかりは注意されている。
だがきっとお前の将来にとって役に立つ、とくに私なぞより首相を見ていろ、国を治めるとはどういうことかわかる、と。
秘密会議が始まったとき、彼はちょっとばかり驚いた。
議事堂の一角にオフィスを持ち、外務省を始め、幾つかの官庁で会計検査役をやっている男も出席していたのだ。独特の明るく灰色をした瞳で、内省の深そうな外見をした巨躯に見覚えがあった。確か、何か風変りな連中ばかり集まっているクラブを運営しているとか。
―――どうしてここに?
しかもその男の席順はずっと高いところにあり、なんと警視総監より上座だった。一介の、会計監査役が。
主要出席者―――とくに首相と外相は、彼のことを「M」と呼んでいた。どうもファーストネームに由来するらしいが、フェルプスにはよく分からない。
疑念が去らぬうちに、伯父の外務大臣が中心になって皆に説明した議題も、フェルプスには一驚の価値があった。
「・・・つまり、キャメロット人がオルクセン王の暗殺を企てている可能性が高い、と?」
説明が終わってから、内務大臣が訊ねた。
「そう―――」
ホールドハーストは頷いた。
「オルクセン政府から、はっきりとそう言ってきたわけじゃない。だが照会のあった人物の経歴を見るに、彼らがどんな懸念を抱いているかは明白だよ、これは」
かの国の首都に偽造旅券を使って滞在し、「消えた男」。
照会が駐箚公使館を通じて行われてきた以上、報告はすぐに外務省にも届いた。
そうして回答のために旅券局が調べあげた経歴を見れば、これはもうキャメロット側からしてもオルクセン刑事警察がどのような疑いを抱いているかは誰の目にも分かる。
「由々しき事態だ―――」
それまで沈黙していた首相が、重々しく口を開いた。
みな、彼に注目した。
この奇抜なファッションセンスと、もじゃもじゃ頭の黒髪で知られるキャメロット首相は、市井からも人気のある作家上がりであるという点で、ライヴァルであり前任者である野党党首と経歴を同じくする。
だが彼らには決定的な違いがあり、前任者が宗教的道徳観を中心に据えた理想主義者であるのに対し、ビーコンズフィールドは紛れもない現実主義者だ。
ホールドハーストのような、本来なら党内上の対立関係だった者を片腕にして腹心とした手腕を見てもわかる。
―――その点において、首相はむしろオルクセンの国王と似ている。
と、フェルプスは思う。
貴族ではなく、庶民の出。
政策の一部も相似形を描いていて、保守系の代表でありながら内政では福祉政策や公衆衛生対策を重んじ、労働問題でも先駆的だ。
外交関係上も両者の波長は合うようであり、ヴィルトシュヴァイン会議における密かな協力も記憶に新しい。
彼らがこれほど結びついてしまった理由については、諸説ある。
首相には、かつて喘息の持病があり、たいへん苦しんでいた。これにオルクセン王が、エリクシエル剤と、人間族における適切な用法容量を私信に記して密かに贈り、あっという間に完治させてしまったというもの。
またあるいはこの際、ビーコンズフィールドが約三〇年前に貧困層を想って刊行した著作に、サインが欲しいと願い出た手紙が添えられていたというもの―――
これが両者の「誠実な友好関係」の始まりだったとされているが、フェルプスが伯父から耳にしたところでは、どうも実際には異なるらしい。
ビーコンズフィールドがいまの第二次政権を組閣した直後にあたる約三年前、エッセウス運河の株式をグロワールの裏をかいて大量買収し、キャメロットの勢力圏とした際、オルクセン国王は当時の駐箚公使アストンを通じて「適切なときに適切な行動をされた」、「地裂海に秩序を齎す」と、強い支持をした。これは列商諸国中、最初の支持だった。
この外交関係上の実利こそが、現実主義者同士であった首相とオルクセン王を結びつけたのだ、と。
もちろん、両者は互いの国益を代表する立場であったから、外交関係の何もかもが上手くいっているわけではない。
とくに近年は、キャメロット国内の農作物が天候不順によって収穫不足続きに陥ってから、安価で農法にも輸送手段にも保存技術にも優れているオルクセン産農産物がどしどしと入ってくるようになっていて、これがキャメロット国内の農業従事者失業率を高めている―――
首相は皆の前で二の句を継がず、また沈黙していた。何か迷っている様子だったが、やがて意を決したようで、告げた。
「いま、この時期。もし我がキャメロットの人間が、オルクセン王及びその周囲に何らかの危害を加えるようなことがあれば。それは我がキャメロットの国益上、決してプラスにはならない。このエドワード・ロンズデールなる者の情報を徹底的に調べ上げ、オルクセン側の当局に伝えるのだ―――」
彼はそこで警視総監に対し、全ての権限を与えるから機動的で専門の捜査班を作り上げ、ことに当たるよう指示した。
そしてMと呼ばれる男を見やった。
「これでオルクセン当局は、ロンズデールを捕捉できるだろうか?」
「・・・難しいかもしれませんな」
男は巨躯の肩をちょっとすくめてから、意見を述べた。
「彼らには、元より我ら人間族の見分けがつきにくいのです。我らもまた、彼らオーク族の識別がつけにくいように―――」
男は容赦なかった。
「ですが、我らが不測の事態を防ぐため最大限の努力を払ったことを、彼らもまた承知するでしょう。仮に、事態が最悪の結果を迎えたとしても。首相が目論んでおられるのも、言わばその辺りの保険の意味でありましょう?」
ビーコンズフィールドは、ちょっと傷ついたような顔をした。
「酷いな。最大の理由は、オルクセン国王が私にとって掛け替えのない友人であるからだぞ。これは我が名誉にかけ明言しておく。だが―――」
彼は頷いた。
「君の言は正しい。それが政治であり、外交というものだ。嫌で、嫌でたまらなくなるが。では諸君、仕事にかかってくれたまえ。君たちも自ら好んでそんな世界に飛び込んでいるような、私と同じ愚か者なのだ。この苦しみから逃れることなど出来はしないよ」
セバスチャン・モラン、ウィルヘルム・フォン・クラムと次々に変名を変えていた男―――エドワード・ロンズデールは、いまだホテル・ヴァインモナトにいた。
毎日堂々と一階の豪華な附属レストランに降り、昼食と夕食を心ゆくまで楽しんでいた。
彼は若いころ、ずっと長い間そんな生活に憧れていた。
大学時代までは恵まれていたと思う。
身内のつまらぬ失敗で生家が没落したときも、己が才覚で世に出てやろうとあまり深刻には捉えなかった。
それまでちやほやしていた連中が、蜘蛛の子を散らすようにそっぽを向いた様子には、世とはそんなものなのだと勉強もさせてもらったと思っている。
だから、どれほど蔑まれるような真似だろうが、やれる限りのことはやってきた。
金とは有り難いものだ。
金があれば、誰もが寄ってくる。そして金のないときに離れていく者に、友や愛すべきような価値のある者はいないのだと教えてもくれる。
―――そして。こうやって身元を装うことが出来る。
ロンズデールはこのとき、ログレスの一級の仕立屋や帽子屋、靴屋で用意した襟付きフロックコート、ズボン、トップハット、シャツ、靴といった姿を連日やっていた。
ざっとオルクセン貨幣にして八〇〇ラング。キャメロットでいえば八〇クィド。
中級官吏の年収ほどにも相当した。
この時代、既製服の商いはまだ誕生したばかりであり、古着屋のほうが幅を利かせているくらいで、それらは粗末であるか一回り流行遅れであって、まったく庶民のもの、労働者階級のものだ。
コートやスーツの種類ひとつにも、ドレスコードに応じた「格」がある。
例えばツイードの上下などは、おおよそ上流にある者が公式行事の場に着ていくものではないとされていた。
これらは社会習慣の一部であり、公共のマナーでもあった。
つまり、どれほどの位階にある貴族であるとか、何処そこの企業の代表や地主であるといった名乗りをやらなくとも、服装や生地を見れば相手の地位が周囲からもおおよそ「わかった」。仕立の服が着られる者と、そうでない者の間に、巨大な壁のような、れっきとした差が存在したのだ。
そしてこれは庶民の地位向上著しい、オルクセンにおいてさえ例外ではなかった。
熟練した街頭の呼売商が、客の服装から相手の職業を推測してみせたように。これは何の不思議でも魔術でもない、当たり前のことであったのだ。
「桃の氷菓、女王風でございます」
「ありがとう」
しかも一度旅券の掲示を受けたホテルの誰もが―――ボーイも、フロントも、支配人も、彼を本物の外交官だと信じ切っていた。疑うという発想さえ持ち合わせていなかった、とも言える。
ホテル・ヴァインモナトには二度憲兵隊がやってきたが、彼らも同様だった。
キャメロット政府幹部たちが指摘したように、根本的にはまるで種族の異なる彼らには人間族の見分けがつきにくい。
かつてあのディネルース・アンダリエルでさえ、オーク族の識別をまるでやれなかったように。
そのオーク族からすれば、人間族で幾ら背の高い者がいようとそれは己たちより小柄で、やせっぽちで、みな似たような顔形をしているように見えた。
髪の色や、目の色、鼻、唇といった特徴をじっくりと眺めて、ようやく見分けをつけることが出来る。旅券に記された背丈など、靴の高さで多少は前後するのだから、身体測定でもやらない限り役にも立たない。
彼らと幾らか付き合いのあったロンズデールは、それを良く心得ていた。
だから、まずホテル・ヴァーグナーにいたときとは服装を変えている。これは犯行計画のためでもあったが、階級そのものを変え、国籍を変え、そして人相まで変えていた。
彼はホテルを移るとき、付け髭をつけていた。
ログレスで自宅のフラットに閉じこもっているころ、伸びきった髪に始末をつけるとき、理髪屋で分けてもらい、製作したものだ。
ちゃんとアスカニア風の口髭になっている。
人間同士でさえ、髭の有無はおおきく印象を変えてしまう。これを帯びれば、魔種族からすれば最早「まるで別人」であった。
ロンズデールは、レストランの窓からホテルの正面を見やった。
フュクシュテルン大通りの、並の街路ほどもある舗道に、大勢の職人たちがやってきて木製の仮設雛壇を組み立ている。
―――叙勲式の会場となる場所だ。
当日は、オルクセン軍の将軍、佐官、各国の公使館員などが臨席する。そしてその前で、閲兵式直後のオルクセン王が年間功労者に勲章を授けるのだ。
ロンズデールは、満足気な顔をした。
「美味い氷菓だ・・・」
―――六月一七日月曜。陸軍記念日前日。
「・・・駄目だ。見つからん」
内務大臣ボーニンに呼び出され、上官のウェーバーとともにやってきたローマン警視は、この普段は豪放磊落な大臣の沈痛しきった声を聞いた。
「憲兵隊の連中は、キャメロット人はおろか、主要区にいる人間族たちを全て一覧まで作成して確認したが。まず、エドワード・ロンズデール名義の者はひとりもおらん」
「・・・・・・・」
「現時点で首都内に在住、滞在している人間族は約八〇〇〇名。うち、身体的特徴の一致する者だけで約一六〇名。だが各国公使館曰く、偽名を使っている奴など誰一人いない。皆、旅券に怪しいところはないのだ」
「確認作業は、一人残らず、ですか?」
「ああ。いや、もちろん各国公使館など外交筋は除くが」
「・・・・・・」
このときはローマンでさえ、まさか件の男が外交官に化けているなどとは咄嗟には思いつかなかった。
また偽造旅券を使っているのだろう、そしてその偽名は何処かに実在する人物になっているのだろうと推測した。
だとすれば相手が実際に旅券を申請したことのある者であれは「本物」として各国外務省の記録には存在するし、セバスチャン・モランのようにはっきりと別方面にいると判る者でもなれければ、偽物を発見することは困難だ。
以前と違って随分と煩くなってきたとはいえ、旅券という制度はまだまだ未発達でもある。何処の国でも、とくに星欧内なら「大陸を旅行する者」で済ませてしまうような代物なのだから、詳細を追えないという点では、どうにもならない―――
ローマンはこれら点を指摘し、
「・・・陛下は、なんと?」
訊ねた。
「臨御の御意思は確固たるものだよ」
「・・・・・・・」
ローマンは嘆息した。
オルクセンの治安関係者に残された手段は、さしあたって現地警備を増やすことだけだ。
大臣も既にその結論に達していたらしい。
「沿道には、国家憲兵隊と第一師団の兵、そして警官の配置を多めにして観客を制御する。とくに人間族の動向には注意を払うようにと通達も出す。人間族の公式招待者には、胸にリボンを配ることにした」
「・・・・・・」
「アンファウグリア旅団は、陛下には無許可で配員を増やすつもりだそうだ。私が責任を持つといって、これには同意をした。周辺警護は、国王警護隊と、巨狼族二頭が当たる」
「・・・・・・」
「わざわざ呼んだのは他でもない。どうかひとつ君たち刑事部も、明日は会場を見て回り、刑事ならではの勘というやつで怪しい男がいないかどうか、気を配ってくれたまえ」
「・・・・・・わかりました」
翌朝、早朝。
広大なケーニヒスガーデンの一角に、まだ夜も明けぬ前から各衛戍地を出発した、第一擲弾兵師団、第一重砲連隊、そしてアンファウグリア旅団の将兵が集合を始めた。
擲弾兵、砲兵、騎兵、工兵、輜重兵、野戦病院隊、軍楽隊―――
朝日が昇ると、一兵に至るまで磨き上げた皮革装備が、銃剣が、鞘が、バックルが、軍用兜などが陽光を反射して煌めく。
小休止、談笑する将兵らの背後には小銃を三丁一組で叉銃したものが、まるで無数にあった。
魁偉な砲の重々しい姿があり、美しく逞しい軍馬たちの姿がある。
やがて彼らは、将校の下令、下士官の号令のもと整列し、行進用の隊形を作り上げていく―――
同じころ。
国王官邸の裏庭では、夫婦揃って陸軍礼装姿となった国王グスタフと王妃ディネルースとが、黒く艶やかに輝く紋付無蓋四輪馬車に乗り込み、国王警護隊長と隊付曹長が同乗し、出発しようとしていた。
前後をアンファウグリア騎兵の騎列に挟まれ出発した馬車の左右扉の紋には、国王グスタフのモットーがしっかりと刻まれている。平時には国内何処へだろうと赴く、戦時には自らをも戦場に置くことを辞さないという、あのモットーが。
―――「どこにいようと、そこがオルクセンだ」
(続)