外伝特別掲載01 コボルトたちの夜
原作3巻第一章もしくはコミック版5巻読了後推奨
コボルトたちの夜
―――晩秋の空は、地上の真冬ほどに極寒だ。
想像すら及ばなかったほどである。
そのためコボルト族ダックスフント種の牝、メルヘンナー・バーンスタイン教授はたいへんな手間をかけて準備を整えねばならなかった。
ウールの肌着。ワイシャツ。分厚いセーター。足にはソックスとズボン、その裾をハイソックスで覆い、長靴を履く。そして何よりも、毛皮を裏打ちした冬季用の飛行服と飛行帽。やはり毛皮の襟付き革製外套。上空ではゴーグルを帯び、口元はマフラーで保温する。
飛行服の襟元につけられた新装備―――温熱式刻印魔術金属板がありがたかった。
「では参りましょうか、メルヘンナー」
「ええ、ラインダース」
ちょっと夜空の散歩を楽しみに行く―――大鷲軍団長ヴェルナー・ラインダース少将の口調には、そんな気遣いの色がある。
実際のところは、散歩どころの騒ぎではない。
これから昇ろうとしている「空」とは既に述べた通りの環境であるし、翼長六・五メートルを誇る世界最大の知的飛翔生物である大鷲の頼もしい見た目とは裏腹に、彼らは基本的に夜目が効かない。
ましてや、今夜飛ぶのは紛れもない「敵地」上空なのだ。
だからこそ、メルヘンナーのような選び抜かれたコボルト族の助けが必要だった。コボルト族は夜目が効く。メルヘンナーの場合、魔術力でも彼を補ってやれる。
それでもなおラインダースが気遣いを欠かさないのは、メルヘンナーが正規の軍人ではなく、軍属扱いの民間人であるからに他ならない。牝でもある。
そしてヴェルナー・ラインダースとは、生来からしてそのような騎士道的精神の持ち主なのだ。
「少しばかり・・・そう、少しばかり、手荒い飛行になると思います」
夜の空を飛ぶだけでも危険な行為だ。おまけにその場所は、大鷲族が使う「山立て」の通じにくい海上であり、万が一落ちれば水温も下がりきった季節である。
暗にではあるが、そのように付け加えることも忘れなかった彼の節度を、むしろ真摯な姿勢だとメルヘンナーは好感を持った。
―――まるで伝説の騎士のよう。
彼はいつもそう。
「きっと大丈夫でしょう。私たちなら大空を越えて、星にさえなれます」
「教授はいつも詩的ですな」
くっくとラインダースは喉を鳴らす。
いささか不吉にも思える言葉を口にしてしまったかもしれない。いつもならもっと上手く言葉を紡げるのだけれど。私なりに緊張しているのかも―――そんな自責の念に駆られかかったメルヘンナーであったが、最後に不安を吹き飛ばしてくれたのはラインダースの喉の音だった。
飛行そのものも、無事に済んだ。
彼女たちは、ひとつの国の海軍が事実上壊滅する瞬間―――つまりは母国の開戦奇襲が成功する様を、ありありと目撃することになった。
閃光、爆発、轟音。
闇夜のエルフィンド海軍本距地は、近代兵器の織り成す暴虐と破壊と阿鼻叫喚の坩堝と化した。
正直なところ、怖気も振るう光景だった。
冷えた夜空は、本来、澄んだ空気の匂いがする。
その匂いが、遥か上空でさえ焦げ臭いものに変じたように錯覚を覚えたほどだ。
「牙、牙、牙」
オルクセン海軍主力艦隊が発した「奇襲成功」を意味する魔術通信波を、メルヘンナーは直接受信した。
ラインダースとメルヘンナーの役割は、この報を総軍司令部へと持ち帰ることだ。
総軍司令部は、メルトメア州アーンバンド市に在る。より正確には、その中央駅と周辺施設を接収して設けられていた。
中心になっているのは、意外なことに駅舎そのものではなく、その第一プラットフォームに停車した国王専用列車センチュリースター号だ。総軍司令部とは、これ即ち親征した国王グスタフの大本営であったから、当然のことと言えた。
メルヘンナーを乗せたラインダースは、駅舎前広場に直接降下した。魔術通信波を発しても良かったが、各地から続々と戦況が伝えられる総軍司令部通信部は混乱気味で、そのような対応を取ることは事前に予測済みだった。
奇襲成功の報に、総軍司令部が沸き返ったのは言うまでもない。
駅舎の休憩室に用意されていたストーブで体を温めていると、
「教授殿、こちらをどうぞ」
従卒の兵が、銀盆に熱いコーヒーと、グロワール風にバターをたっぷり挟んだ白パンを供してくれた。
生き返る思いがした。とくにコーヒーがありがたい。
コボルト族用の小さなカップに注がれたそれを、押し頂くように啜る。僅かに酒精が含まれていることにはすぐに気づいた。コボルト族のよく効く鼻に、ウィスキーのよい香りがしたのだ。
石炭ストーブの赤い焔とともに、体の芯までが温まる。
「これはこれは。バーンスタイン教授ですな? お噂はかねがね」
見上げると、休憩室に巨躯のオーク族が入室してきて、彼女に挨拶した。
「これは・・・」
陸軍の将官服姿のその正体に、すぐに気づく。肖像画や新聞の石版画、街売りのカルトヴィジットなどで国民にはお馴染みの、国王グスタフ・ファルケンハインだ。
拝謁を賜るのは初めてだったメルヘンナーは、いささか慌てた。まさか着膨れた飛行服姿で、コーヒーを片手に。パンを咀嚼し終えたところだったのは幸いだったのだろうか。
「ああ、どうかそのまま。休息中のところを申し訳ない」
王は気軽だった。謁見などと肩肘を張らず、総軍司令官として接してほしいと態度で示していた。それでもたいへんな場には違いないのだが。
「教授の日頃からのご尽力に、心より感謝しております―――」
そうして王は、ラインダースはいい牡です、何卒これからも彼を助けてやってくださいと微笑んで告げた。
「ええ、もちろんです」
メルヘンナーも、そればかりは迷わず答えることが出来た。
この夜、大鷲族とともに空に上がったコボルト族は、メルヘンナー・バーンスタインを含めて九名。
オルクセン軍開戦奇襲成功の影に、その存在が大きかったことは言うまでもない。




