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随想録30 海道③

 シルヴァン運河建設計画が正式のものとなったのは、星暦八七九年九月のことである。

 閣議決定により、約二三〇〇万ラングの予算がついた。

 計画全体の概算は、約一億五三〇〇万ラング。まずはその第一期、政府予算負担分の支出ということになる。

 オルクセン政府は、運河経営に諸外国の勢力が入り込むことを嫌い、運河協会の株式全てを買い上げ、そうやって運転資金を注ぎ込んだわけだ。

 所管も臨時特別会計から、官業費部分に移った。

 ただし、この執行は翌年度のものとなるし、工事の本格的着工予定も雪解けを待ってからだ。

 無論、運河協会本部が着工まで遊んでいていいというわけではなかった。

 調査及び測量の継続。

 用地の買収。

 設計の詳細検討と、合計八つに分かれる工区ごとの施工会社選定。

 そして、運河建設に向けた社会機運の醸成―――

 シルヴァン運河協会は、まず首都ヴィルトシュヴァインに置かれた協会本部に、オルクセン国内の主要建設会社五社を集めた。

 これほどの大工事なのだ。施工できる企業も数が限られている。

 事実上、オルクセンにおける総合建設会社の全てが集まった。


 第一工区、運河西部及び閘門。

 第二工区、運河中央分水嶺迂回路。

 第三工区、運河東部及び閘門。

 第四工区、グロスシュタットトンネル。

 第五工区、フヴェルゲルミアダム本体工事及びグロスシュタットトンネル迎え掘り

 第六工区、コンクリート用骨材生産。

 第七工区、東部作業用鉄道敷設。

 第八工区、西部作業用鉄道敷設。


 このうち、第六工区は運河協会の直轄事業であり、第七及び第八工区はオルクセン国有鉄道の施工班が担当する。残る五つの工区が、建設会社たちの受け持ちということだ。

「積算数値は、協会算出のものをご使用いただきます。予算は厳守。工期も必ず守ってください。そして何より、本計画は国内のみならず諸外国からも注視されるものです。前時代的な土木工事におけるが如き労務者の犠牲は、決して出さないよう、これは徹底して安全管理をお願い致します」

 冒頭、協会会長オットー・ベンシェ教授の挨拶に、建設会社側は困惑した。

 彼らには、それぞれ得意としてきた分野があり、契約は事実上の指名であって、「うち以外にはやれまい」という自負もあった。

 その彼らをして、シルヴァン運河計画は大変な難工事であるように思えた。

 なかでも、トンネル工事を請け負うことになったヴェルクニッツ建設と、ダム本体工事担当となったアデナウアー社の当惑は深かった。

 ―――ツェーンジーク山脈の、奥深い部分の地質が分からない。

 硬いのか、柔らかいのか。

 極論から言えば、最終的には「掘ってみなければ分からない」というのだ。

 これは無理からぬところであり、既にボーリング式における調査技術も生まれてはいたが、どれほどの大口径ボーリングを使用したとしても、山脈の表面から地中深くに達することなど当時の技術では不可能だった。

 花崗岩はあるだろう。これは試料も採集されているから間違いない。

 片麻岩や輝緑岩層は存在しているらしい。

 ではその厚さは? 

 その先には何があるのだろう?

 掘ってみて、問題が出てくればその都度計画を修正し、事に当たっていこうというのが「シルヴァン方式」であった。

 それでいて、予算と工期は順守しろという。

 これもまた計画統括者側としては、釘を刺さずにはいられない事情がある。

 ここまでのところ、エッセウス運河に代表される各国の大規模土木計画は、当初見積もった予算を大幅に超過するケースが殆どだった。

 疫病や予期せぬ難事への遭遇。これに伴う工期の遅延。出資者の破産を招いた場合も珍しくない。

 だから予算や工期を守れという運河協会側の主張は、理解できないでもなかった。

 しかし―――

 やってみなければ、掘ってみなければ分からないというのであれば、建設会社側としても保証はやりかねる事もまた、確かである。

 資本金規模に比し、例え一時負担にせよ相当高額な資金が必要ともなった。

 例えば、だが。

 ヴェルクニッツ建設の資本金は、一五〇万ラングだ。これに対し、受け持ち工区の予算は約二六〇〇万ラングである。

 この工事費は、着工時、中間時、竣工時と三分割して支払われることになっていた。

 仮に難工事となり、工期が大幅に遅れるような事態ともなれば、社としても死活問題となる―――

「どうですかな? ヴェルクニッツさん」

「ううむ・・・まあ・・・」

 自然、返答は濁った。

 周囲の他社―――比較的、算出の容易な工事を受け持つ他社も、

「これは大変な仕事ですな、アデナウアーさん」

 半ば同情的な様子である。

 それでも最終的には、これは我らにしかやれまい、実績もある、国家の要望でもあると、彼らは受注契約を結んだ。

 国家規模の大事業である以上、ダヴェンハイム投資銀行のような大銀行からの融資も受けやすいだろう。また、口では強がってはいるが、施工能力がある社が限られていることは運河協会も把握している。例え予算超過となっても見捨てられはしまい、という読みがあったことも否定できない。



 運河建設の機運を盛り立てる役目のうち、大きな部分はアドルフ・ルーディング教授が担った。

 あの精力的なコボルト族ダックスフント種の牡は、自身の担当するダム及びトンネル工事の詳細設計を煮詰めつつ、首都や地方都市を遊説して回ったのだ。

「皆さん。我ら知的生物がこの世に存在するのは何のためか。大自然を克服する使命を果たすためです!」

 教授はそれを「地図を作り替えるほどの事業」と呼び、得意の「工学と機械、知識の飛躍的進捗」という言葉で締めくくった。

 各地のホール、音楽堂、会所などは何処も盛況となり、運河計画の概略を記して配布されたパンフレットはあっという間に第一期印刷分の在庫が払底している。

 これら印刷広告物の配布も、シルヴァン運河計画の特色のひとつであったと言えた。

 パンフレット、ポスター、新聞広告・・・

 新聞記事でも、運河計画について見ない日は無くなった。

「夢の大運河建設始まる」

 というような扱いだった。

 中でも強い関心を寄せたのが、国内外の投機筋である。

 首都ヴィルトシュヴァインに、まだ若い、テオドール・リーヴェンという敏腕銀行家がいた。たいへんな伊達者で、特別に仕立てさせたオルゴール付きの懐中時計を常にチョッキに吊り、顧客はおろかライヴァルの銀行家を含む誰からも好まれ、とくに牝たちからは熱い視線を送られている牡だ。

 彼は、己や顧客のために、「シルヴァン運河開通による経済効果」なるものを試算した。

 その試算結果曰く、ベレリアント半島に大運河が出来上がれば、オルクセンの貿易業界は僅か数年で「元を取る」ことが出来るという。

 航海日数は短縮され、安全も―――分けても冬季における安全も高まり、保険料は下がり、つまり乗員数も少なくて済む。船舶のみならず積荷に掛けられる保険も安上がりとなり、往来も増すであろう。

 オルクセンの貿易業界が節約出来るようになるこのような経費は、試算によれば年間約七二〇〇万ラングに及ぶ。周辺海運国全体となれば、九六〇〇万ラングになるはずだ。

 つまり、計画総予算一億五三〇〇万ラングを、僅か二年で回収できる計算となる。

 元より、オルクセンにおける海上貿易量は年々増えていた。

 南隣のアスカニアやオスタリッチにおける輸出入は、いままで地裂海を経由することが多かったが、鉄道の発達と水運利用の増加により、ネーベンシュトラントやドラヘクノッヘンで積み替えをやり、キャメロットなどに運んでも充分に採算が取れるようになってきていたのだ。

 運河の開通は、このような動きも加速させるであろう―――

 投機筋は、シルヴァン運河協会公債の発行を、渇望した。

 熱望したと言ってもいい。

 ヴィルトシュヴァイン中央証券取引所及び、ログレス証券取引市場で第一回公募が行われたのは、一〇月一日のことだった。

「世界の金融市場」たるログレスでは、それまでもオルクセン鉄道公社債などを引き受けていたログレス・アルビニッシュ銀行ら三行が契約に応じた。

 キャメロット外債市場での募集総額は五〇〇万クィドで、これはオルクセン通貨にして五〇〇〇万ラングに相当する。額面一〇〇クィドのところを忽ち高騰を示し、年利三・五パーセント、返済期限一五年、抵当無しという条件で瞬く間に完売してしまった。

「第二回公債、あるいは協会株そのものの発行を熱望する空気もあり」

 とは、現地報道の伝えるところである。

 概ね、星欧列商諸国の公的外債は年利四パーセントから五パーセント、返済期限一〇年というのが相場だ。道洋諸国のような財源裏付けの弱い国家で六パーセント、抵当権ありという条件も珍しくない。

 つまりシルヴァン運河公債は、金融商品としてはまるで「美味しい」ものではなかった。

 キャメロットはこの前年末以来、外地における第二次パシュトゥニスタン戦争やトランスヴァール戦争を抱えており、決して景況感も良くなかった。

 このような条件下、運河公債は発行と同時に即完売してしまったのだから、ベレリアント戦争後のオルクセンに対する信用度がどれほど高かったかを示している。

 そしてこれは同時に、シルヴァン運河計画そのものに対する期待の強さでもあり、また更には星欧列商における「もはや知的生物は大自然を克服できる」という、科学や技術といった存在への熱狂を示すものでもあった。



 ―――知的生物は、大自然を克服できる。

 この言葉は、熱狂であり、もはや抑えることのできない感情であると認めつつも、傲慢でもあるのではないかと見る者もいた。

 陸軍測地測量部のヴィルヘルム・フォルクナー少佐だ。

 フォルクナーは、シルヴァン川北岸にいた。運河計画が正式のものとなると、事前準備計画の測量班担当という肩書から、協会本部の監督部に移ることになった。

 どうやら、第五工区―――フヴェルゲルミアダム本体工事及びグロスシュタットトンネル迎え掘りにおける現場事務所の、協会側所長ということになりそうであった。

 トンネル本体工事である第四工区と並んで、困難が予想される現場だ。

「困難」を改めて痛感させる出来事に遭遇してもいた。

 九月という時期は、シルヴァン川にとって渇水期である。と言っても、文字通りの意味で流水が尽きたりはしない大河だが、ともかくも前季の積雪が完全に溶け、次季の降雨降雪期に至る一〇月ごろまで水量は減る。

 この渇水期を利用して、施工予定地周辺の谷底を測ろう、試料を採集しようという話になった。

 シルヴァン川を挟んで、オルクセン及び旧エルフィンドの両側の尾根から、調査隊が降りて行った。

 ―――シルヴァン運河計画における、最初の犠牲者が生じたのは、このときだ。

 オルクセン側から降りて行った隊が、施工予定地であるスペジュルの岩周辺を調べた。例の、断崖絶壁に巨大な一枚岩のようになった地形部分。トンネルの迎え掘りをやる予定の場所である。

 測量班の若い技師が、僅かに存在した棚状の場所へ降りて行って、面積を計測しようとした。

 トンネル掘削には、削岩機が必要だ。この削岩機に必要となる蒸気式の発動機、そして圧搾空気を送り込むコンプレッサーを置くには、棚状地が相応しい。

 スペジュルの岩の、中央やや上部に一個所だけ、どうにかその適地であると見込まれた部分が存在したのだ。巨大な断崖全体から見れば、まるでコボルトの額ほどの広さしかない場所である。

 若い技師は、ロープや登山斧を用いつつ、尾根の頂部から下降をやり―――

 そして滑落、坩堝の如き谷底へと消えていったのである。

 周囲の、とくに対岸側にいた調査隊の見守るなかでの、一瞬の出来事だった。

 遺骸の回収にも難儀した。

 それでも谷底へ何名かの隊員が降りていって、帆布で包み、皆でロープを使って引き揚げた。

「・・・・・・」

 フォルクナーは、言葉も無かった。

 若い技師とは、知己があった―――それどころか、元部下だったのだ。

 測量のイロハを、標尺の持ち方から教え、首都の歓楽街を連れ回し、酒や、煙草や、ときには公娼施設で牝まで覚えさせてやったような相手だったのである。

 ―――大自然は、傲慢になった知的生物に対し、牙を剥く。 

 改めて思い知らされた。

 フォルクナーが、彼一個の感情の心底からとしても運河計画を成功に導いてやろうと決意したのは、あるいは、このときであったのかもしれない。

 彼は、それまで以上に寡黙に、淡々と、だが揺るぎない熱意を以て調査にあたった。

 計画が正式のものとなった八七九年九月には、あのダークエルフ族の集落クヴィンデア村に築かれた仮設事務所に滞在している。

 村に幾件かあった、住民が不在となった石造りの一屋―――八七六年一一月以来不在になっている理由は、想像もしたくないものだ―――を協会本部で借り上げ、浸透沈下式のトイレなども作り、交替で畑も耕して新鮮な野菜を補填することともし、半ば自給自足するような格好で、合計八名が常駐する測量及び地質の調査事務所が出来たのだ。

 山岳地においては、そろそろ冬季の気配が濃厚となり始めた一〇月には、麓の街との間に電信線も架設された。これで、計画初期にはダークエルフ族やコボルト族たちの魔術通信に頼っていた連絡も、随分と楽になった。

 事務所の増改築と電信線の設置には副次的な効果もあり、将来的にはこれを引き払わずに残し、村の簡易郵便局とすることも決まった。

 そのような存在のひとつである、村で最初のアーク電燈が広場に灯されたとき、まだランプしか知らなかった村の者たちの一部は、目を丸くした。

「眩しい、眩しい」

「目が潰れてしまう」

 そのような調子であった。

 事務所には、ときおり、あのウルフェン・マレグディスに代表される元アンファウグリア兵が、狩猟での得物、搾りたての山羊のミルク、チーズといった食糧を差し入れてくれた。近在の者に、毎日ライ麦パンを焼いて貰えることにもなった。

 協会本部からの食糧その他補給は継続していたが、保存の効く缶詰などが中心であり、やはり新鮮な食材は有難い。

 フォルクナーたちは、礼として調査隊支給のウイスキーなどを贈っている。

 これには酒に目のないダークエルフ族たちは頬を綻ばせて歓び、

「これは、これは」

 くすくすと、牝っ気無しで山に籠る牡としては少しばかり堪える響きで、朗らかに笑った。

 このような環境のなか―――

 調査班がとくに励んだのは、地質試料の採集と分析、分類である。

 花崗岩、片麻岩、珪岩。雲母片岩、塩基性火山岩、緑輝岩。

 各地から採集された岩石が、ごろごろと調査事務所の一室に満ち、やがて居住区にまで溢れかえるほどに集められた。

 ただ集めるだけではない。採石の採集地点を記録し、ハンマーで砕き、ルーペで覗き込み、クリノメーターで傾斜測定をした。

 石そのものに、ペンキと筆を使って採集日や場所を書き込み、統一された書式のノートへ記録も残す。

 ツェーンジーク山脈の地中深くをボーリング出来ない以上、これら試料採集と研究、分析は貴重な判断材料を齎してくれるはずである。

 だが―――

 事情を知らぬ者にとっては、このような作業を、シルヴァン川を渡った先のベレリアント半島側で実施して、何か意味があるのかとも思えるに違いない。

 これに関して言えば、調査隊に地質調査について指導をやった地質学者たちが、面白い見解を述べている。

「ヘレイム山脈とツェーンジーク山脈は双子―――いや、元は一つの山脈だったと我々は見ています」

 ベレリアント半島は、戦前からのエルフ族学者やキャメロット人学者の、数は少ないが幾例かの地質調査を見る限り、南へ行くほど地質が古い。

 そもそも学者たちに言わせるなら、世に多用されている「世界創世」という言葉は、現在の文明が誕生した降星を指すものであり、非常に誤解を招きやすいものだ。

 大地は―――この惑星は、当然ながらもっと遥か悠久の時代から存在していて、どうやら原初期のそれは、どろどろに溶けた溶岩のようなものであったらしい。これが徐々に冷え固まり、海や川が出来、やがて大地となった。

 この古い、非常に古い大地の形成活動の過程で、作り上げられた山脈の一つが「原ヘレイム」とも呼ぶべき存在で、この巨大な山脈は、氷河によってごっそりとその中央部を東西に渡って削り取られてしまったに違いない。

 そうして二つに分かれた格好になったのが、現在のヘレイム山脈とツェーンジーク山脈である。シルヴァン川はその谷底だ。地質学的には、たいへん古い時代のものである片麻岩の存在がその証拠だ―――という。

 フォルクナーには、まだまだ発展途上にあるといっていい地質学という存在における、そのような見解が正しいのか間違っているのかまでは分からない。

 彼に出来ることは、また遂行するべきだと思っているのは、ただただ淡々と、寡黙に、朴訥と、試料の採集に努めることである。

 ひとによっては、過酷さを覚える作業だ。

 僻地における地質調査とは、何処か孤独である。夜、粗末な小屋の質素な部屋で、揺れるランプのもと、試料を分析し、また次の試料へ―――という作業を繰り返していると、まるでこの世にたったひとり、ぽつねんと取り残されたような、そんな錯覚さえ感じる。

 記録を取り、疲れを覚えると腕を回し肩を労って呻き、ダークエルフ族が差し入れてくれた火酒を啜って眠りにつく。

 そのような村での純朴な生活は、少なくともフォルクナーにとっては苦にならなかった。

 ―――ウィルヘルム・フォルクナーは、オルクセン南部山岳地帯の出身である。

 生家は、牧羊家だった。

 緯度も経度も異なるが、この村は何処か故郷の山村に似ていた。

 そろそろ、故郷の老父母に手紙を書いてやらなきゃいかんな―――そんなことを思った。

「とっとと戻って来て、嫁さんを貰って、先祖伝来の土地を引き継いでくれ」

 母は、よくそんなことを書いて寄越す。

 デュートネ戦争に従軍した経験を持つ父は、陸軍に入った息子を自慢に思ってくれているようで、そのような母の愚痴を宥める役だ。

「軍隊は、ハイカラなところだからな。兵隊だった俺なぞは越えて、立派な士官になれ」

 かつて、フォルクナーが麓の街に降りて幼年学校に入りたいと言ったとき、ただそれだけを述べて許してくれた。

 オルクセンの制度では、まるで金のかからぬ幼年学校で教育を受け、地元の山岳猟兵師団で将校としての道を歩み始めた。

 やがて測量を覚え、軍隊に入ってまで山に登るようになったのは、幼少期から山岳に親しんだ天性のなせるものであったと言える。

 夢と呼べるような存在は、ひとつだけあった。

 この世界の南、遥か南の果てには、まだ中心部までは誰も到達していない氷の大陸がある。

 文字通り人跡未踏の、山脈が存在することも、もう各国の学者たちにも分かっていた。

 いつの日にか、その氷の大陸に赴き、中心点を制し、無垢な、処女の山岳にも登ってみたい―――そんな夢である。

 他者に話せば笑われると思っており、まだ誰にも語ったことは無かった。

「隊長さん。随分と石を集めているようだから―――」

 ある日のことだ。

 あのダークエルフ族の狩人、ウルフェン・マレグディスが、自身の宝物だという鉱石を持参してきて見せてくれた。

 最初の冬季調査以来の知己である彼女とは、フォルクナーはすっかり打ち解けていた。

 彼は寡黙で、ウルフェンも素気ない性格だったから、傍目からは仲がいいのか無愛想なのかまるで分からなかったが。

 この年に生まれた、ダークエルフ族の赤子まで見せて貰っている。

 それは今季において村でたったひとりの赤子だったが、例え種族の差があろうとも、フォルクナーにも可愛らしい存在だった。

「これは、これは」

 そのようなウルフェンが見せたくれたのは、六角柱状をした、掌に余るほどの、石英の自形結晶だった。

挿絵(By みてみん)

「いったい、何処で?」

「もう何年になるかな・・・ シルヴァンの谷底にあった」

「ふむ―――」

 山脈の何処かに、石英層が存在する可能性が高いということだ。露出でもしているのか、シルヴァン川の流れに洗い出されたものと見える。

 地質学には同系統の存在となる珪岩なども見つかっていたから、不思議ではない。

 かなり高い分類の、硬度を持っている存在だ。

 問題は、それがトンネル計画やダム計画にどのような影響を与えるかという点だが―――

「役に立てそうかい?」

「ありがとう。うん、きっと役に立つ」



 シルヴァン運河は、星暦八八〇年五月に着工を迎えた。

 ただしこれは本体工事計画部分であり、工事に要する狭軌鉄道の敷設などは、もうこの年の頭ごろから始まっている。

 用地の買収、各施工会社や直轄事業団の前進基地となる飯場事務所の設置、工事用道路の開設とラザフォード式舗装の施工、必要資材及び器材の事前集積といった準備工も同様である。

 国王グスタフ・ファルケンハインが、王妃ディネルースを伴い、この工事用鉄道に乗って、グロスシュタット近郊で行われた着工式に出席したのは、五月一日。

 国王自ら、ベンシェ教授やルーディング教授といった関係者たちとともに並んで十字鋤(ツルハシ)を振るい、また、高さ二メートルの自然岩を利用した記念基礎碑の序幕式に臨んだ。

 出席者は三〇〇名を超え、まさに国家の威信をかけた大事業に相応しい、たいへんな規模の式典だった。

 ただし―――

 この着工式から遠く離れた、第五工区迎え掘りトンネルの着手は、実に慎ましかった。

 何しろ、場所が場所である。

 この日までに、オルクセン側ツェーンジーク山脈の一部尾根を越える格好で、全長一六・六キロの、まるで岩壁を削り取っただけの、オーク族がひとり立てばもう幅一杯だというような工事用歩道が作られ、作業労務者たち自身が登山隊となったかのように荷を背負って、集結。

 あの滑落事故のあった棚状地を徐々に広げた、本当に狭い作業現場を足場とし、約三〇名の牡たちが、アデナウアー社の現場監督から訓示を受け取った。

 オーク族としてはやや小柄な、だが威勢は誰よりもある監督は、手ごろな岩石のひとつの上に立ち、

「我がアデナウアー社は、メーヴェダム、エルデダム、ゾルダダムと、このオルクセンにおける主要ダムの全てを手掛けてきた!」

 一席、ぶち上げ始めた。

「そしていよいよ、世界最大のものとなる本工事を担う名誉を授かったのである! だが、まことに景気の悪いことに、こんな場所だ。どうにかして、まずはトンネルを作らなきゃならん!」

 現場監督は、そこでニヤリとし、少しばかり不安げな表情を浮かべる労務者たちを見渡した。

「大変な難工事になることは否定しない! だがな、うちより事情のいいはずのヴェルクニッツ建設の連中は、やれ地質が悪いだの、僻地だのと、四の五の上品なことを喚いているらしい。ここはひとつ、奴らのケツを引っぱたくために、こちらからどしどしと迎え掘りをやってやろうじゃないか!」

 労務者たちは、どっと沸いた。

「各自、班長から火酒を受け取れ! 清めの一杯をやったら、かかるぞ!」

「おおお!」

 蒸気式発動機の蒸気圧が、高められる低い機械音が頼もしく響いた。

 この日までに、スペジュルの岩に設けられた着工地点へと、三〇名からのオーク族の牡たちの手によって空気圧搾式削岩機が持ち込まれる。

 かのアルバス山脈鉄道トンネル工事の後半戦において、エトルリアの連中の作業効率を大幅に高めた、「新兵器」だ。オルクセンでももうすっかり普及していて、トンネル工事のみならず、炭鉱や岩塩鉱などといった鉱山でも使用されている。

 ガリガリと盛大な音を立て、慎重な測量の上でトンネル切り口だと定められた場所の中心付近に、直径三センチから四センチ、深さ一メートルほどのドリル掘削が施された。

 そうして、火薬を詰める。

 導火線が伸ばされ、手動発電式発破器に接続された。

「退避! 退避! 全員いるな? よし、おるな、おるおる!」

 監督は、労務者たちの退避を確認した。

 そうして、歴史に残る言葉を、まるで普段通りの、街角のどうといったことのない掘削でも取り掛かるかのような調子で、叫んだ。

「点火!」

 ―――星暦八八〇年五月一日。

 V字型を描く大渓谷に、ずしんと響くような発破音が満ち。

 シルヴァン運河の大工事が始まった。



(続)

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挿絵(By みてみん)

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