第二章(3)
第二章(3)
避難命令が出され、学校の近くには人の気配がなかった。
陽はすでに沈み、停電であたりは真っ暗だ。さっきまで月が見えていたけれど、今は雲で隠れてしまっている。
赤黒い空を背に、校舎は不気味に黙り込んだままそこにいた。
建物自体は壊れていないようだったけれど、振動によるものか、ガラスはほとんど割れてしまっている。
校庭にも何本かの亀裂が走っていて、飛び越えるのに苦労した。
非常灯すら消えてしまった校舎の廊下は、遠くの火事で赤く照らされている。割れたガラスをじゃりじゃりと踏みながら、ナオは屋上に向かった。階段は校舎の奥まったところにあり、驚くほど静かだった。こつ、こつ、と足音だけが響く。校舎の外では、あちこちで起きている火事の影響で強い風が吹いているはずだけれど、ナオの耳にはそれは微かに聞こえるだけだった。
強い風に押さえられている屋上へのドアを、体全体で押すように開けた。
フェンスにしがみつくように校庭を見下ろし、校門の向こうの地割れを見る。
――地割れは、こちらから見て、左から右にできた。だから…、
ナオは、左の方に目を移し、息をのんだ。
すっと雲が薄れ、青白い月の光が赤い炎の光を押しのける。
倒れたビル、崩れた家々、それらはすべて色を失い、
青白い光に飲み込まれている。
ただ静かに、街は、その屍を、
横たえていた。
――すべて、
ナオの目から、涙があふれた。
――すべて、死んでしまう。だから、
「これで、終わりにする」
ナオは、涙を指でぬぐい取ると、
遠くにそびえるタワーを睨みつけた。
◆
「遅かったね、ナオ」
まよりタワーの真っ暗なロビーで突然呼びかけられて、ナオは凍り付いた。
声のするほうを見ると、蒼馬がチケット売り場のカウンターにもたれかかっていた。カウンターの内側にはシィがいて、肘をついてわざとらしくあくびをする。
「なっ、なっ、お前、」
蒼馬たちを指すナオの指が、滑稽なほどに震えている。
「お前たち、なんで、ここに?」
蒼馬は、よろりと立ち上がった。あちこち怪我をしていて、辛そうだ。けれど、蒼馬は場違いにおどけて見せた。
「なぁに、簡単なことだよ」
ムッとするナオを横目で見て、蒼馬は続けた。
「ラジオで街の被害状況を収集し、地図上に印を付ける。そうしたら、その中心にこのまよりタワーがあったというわけさ。実に簡単なことだよ。一つだけ苦労があったとすれば、」
蒼馬は大げさに間をおき、ナオが怒りに震えているのを確認してから、とどめを刺した。
「一つだけ苦労があったとすれば、この暗い中でずーっとナオを待ち続けなければならなかったことだねぇ。はっはっは」
「お前っ!」
ナオは蒼馬につかみかかった。
「お前、何を考えている? 遊びじゃないんだ、死ぬかも知れないんだ! お前、だって、もうこんなに…、あちこち擦りむいて…」
ナオの手が震えている理由がさっきまでとは違うことに、蒼馬は気づいた。
「…ナオの役に立ちたいんだよ」
「役に立たん」
「手伝いたいんだよ」
「足手まといだ」
鋭く切り返すナオに、蒼馬は口を閉ざした。ナオは、ゆっくりと繰り返した。
「あ・し・で・ま・と・い・だ」
沈黙の中、遠くから地響きが聞こえる。こんな押し問答をしている場合じゃない。シィはカウンターをひらりと飛び越えて、蒼馬とナオの間に割って入った。
「おいナオモドキ、この時代はね、情報をどうやって集めるか、それが重要なのよ。蒼馬は確かにだらしなくて情けなくて臆病で小心者で優柔不断でビビリでへっぽこで」
「あの、シィさん、…もうそれくらいで」
調子に乗ってきたところを邪魔されて、シィは不満そうに口を尖らせた。
「まあ…、蒼馬が足手まといなのは違いないね。でもね、情報を効率よく集めてあんたより早くここに来たことは認めるわよね? それがこの時代のやり方ってこと、あんたにはそれができないってこと」
聞いているのかいないのか、ナオは黙って横を向いている。
「それにね、この男、あんたにあんな酷いことを言われたのに、それでも手伝うって言ってるのよ? 少しくらい、その気持ちに応えてやってもいいんじゃないの? だいいち、」
ひと呼吸置くことで、シィはナオの視線を自分に向けさせた。
「タワーに登りたいんでしょ? どうやって登るのか知ってるの?」
「ふん、エレベーターくらい知ってる」
ナオはエレベーターの前に立ち、ボタンを押した。当然だけれど、停電しているので何の反応もない。ナオは、シィがニヤニヤしているだろうと思いつつ、ゆっくり振り返った。
シィは、
ニヤニヤしていた。
「停電してるからね、エレベーターは動かないわよ」
「…階段はあるのか」
「さあねー」
むぅ、とナオがむくれた瞬間、
ドン、と突き上げるような衝撃。タワーから街の方へ、大きな地割れができた。
「ふざけてる場合じゃないな…。蒼馬!」
シィが鍵の束を投げ渡す。
「事務室の裏口から出て非常階段を登ると、時計の管理室がある。そこを抜けて管理室の反対側から出れば、展望室まではすぐだ。がんばれよ」
ぐっ、と親指を立てるシィに、けれど蒼馬は、
「…あれ?」
と、間の抜けた返事をした。
「シィさんは、行かないの?」
「行かない」
「だって、シィさんだって、ナオを見張りたいんでしょ?」
「うん。だから、後は頼んだぞ」
「頼んだぞ、って…」
「よろしく」
「でも、」
「がんばれ」
「あの、」
「いってらっしゃい」
「いや、」
「うるさいな! あたしは高いとこダメなんだよ! 展望室は地上百メートルだぞ? エレベーターで登るならまだいいけど、むき出しの非常階段なんて、ああもうああもう、登れるかっ、ばかっ!」
ぜいぜいと肩で息をするシィを数秒間眺めた後、
蒼馬は意外そうに、ナオはからかうように、それぞれ「へぇ〜」と感想を漏らした。
「と…とにかく早く行け。非常階段の入口の柵は開けてあるから」
蒼馬は、シィが指さす方にある事務室の入口に向かって走り出した。ナオは一瞬出遅れたことに舌打ちしてから蒼馬の後を追う。が、開けっ放しの事務所のドアの手前で、蒼馬は急に立ち止まった。
「ぎゅむ」
蒼馬の背中に思い切り鼻をぶつけたナオは、声にならない悲鳴を上げてうずくまってしまった。
「〜〜〜っ、急に止まるなっ! メガネが壊れたらどうする!」
「ゴ…ゴメン。ところであの、シィさん、」
「ん?」
「なんで鍵のこととか事務室のこととか詳しいの?」
「あー…、去年ここでバイトしてたんだ」
「ウチの学校、バイト禁止だよね?」
「まあ、その、まあ、」
「禁止だよね?」
「ああもう、うるさいな、過ぎたことをぐだぐだと」
事務所の入り口を塞いでいた蒼馬はまだ何か言いたそうだったけれど、ナオに背中を蹴飛ばされて走り出した。
非常階段は鉄骨で組まれたタワーの中心を貫いていて、金網で囲われてはいるけれど、シィの言うとおりほぼむき出しだ。
二人はずるずると這うように、息を切らせて登っていた。
「おま、え、鍵、を、置い、て、下りろ!」
「はあ、はへ、ひはひ、はほ」
少し遅れて登ってくる蒼馬の返事は、声にならなかった。
ナオは踊り場で振り返った。肩で息をしている。
――筋肉にはまだまだ余裕があるが…、心肺がついてこないな。少し体を休ませなければ。
ナオは、禍物を追い始めてから、ここまで体を酷使したことがなかった。
――やはり華奢な体は使いにくい。…あと、方向音痴も。
やっと蒼馬が一つ下の踊り場にたどり着いた。
ナオは、蒼馬の姿が見えたことにホッとしたけれど、
「今からでも、下りろ」
「やだ」
やだ、ってまるで子供じゃないか。ナオはあきれて、困って、少しおかしくて、
街を見下ろし、溜息をついた。
すでに陽は落ちていて、薄いけれど雲が空を覆っている。街を照らすものといえば、あちこちで起きている火災だけで、雲の底までが赤黒く染まっている。
蒼馬はそんな光景に息をのむ余裕もなく、階段を這う。
「どうしても手伝いたいんだよ」
「わたしはわたしだ、鈴木奈緒じゃない! いい加減にしろ!」
ナオは、蒼馬が追いつかないうちにと、階段を登り始めた。
「あっ、ナオ、リボンが」
「リボン?」
頭の後ろに手をやると、赤いリボンがほどけかかっているようだった。
実際に髪を留めているのはリボンの下のゴムだから、リボンがほどけても何も問題はない。けれど、
お母さんが言っていた。これは、「大切なリボン」。
なんとなくだけれど、そう、これは大切なもの。
だから、
面倒だけれど、
結び直さないと。
「痛っ…」
右手の親指は、人混みで踏まれて、まだ腫れていた。リボンを結ぼうとすると、とても痛い。なるべく親指を使わないようにしたけれど、なかなかうまく結べなかった。
「――っ、もうっ、いいっ!」
ナオはリボンを放った。
「だめだよっ!」
はらりと落ちるリボンに、蒼馬は飛びついた。
このリボンは、これは、鈴木さんの、
大切な、大切な。
「捨てちゃだめだよ、このリボンは、」
「言うなっ!」
蒼馬が差し出したリボンを、ナオがむしり取る。
そうだ、わかっている。
このリボンは、大切な、大切な、お父さんの、
けれど、知りたくない。
そうだ、お父さんが、私に、
違う、知りたくない。
亡くなる前の日に、私に、
知ってはいけない。
奈緒、思い出すな。思い出さなくていい。
けれど、
そうだ。
亡くなる前の日に、私にくれたもの。
それからずっと、
ずっと、ずっと、ずっと、
心の奥の方にしまっておいた大切な想いが、
今、しみ出して、
ナオの心に溶け込み、
そうだ、
わたしは、
わたしも、
父を愛していたのだと思う。
だから、
突き放された悲しみを、憎しみに置き換えて。
二度と会えない悲しみを、憎しみに置き換えて。
そうして今まで戦い続けて。
「お父さん…」
蒼馬は、ぼろぼろと泣き出したナオにとまどい、
だまってナオの髪にリボンを結んだ。