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終章

   終章



 目覚ましのアラームが鳴り始めた。

 ピピピピピ、と安っぽい音が響く。懸賞で当たったアニメグッズの目覚ましだから、機能的には以前使っていた時計よりも数段劣る。

 目覚ましをまさぐる手が、やっと裏の小さなスイッチにたどり着き、アラームを止めた。

「ん…」

 少女は自分の胸に手を当て、記憶の中から拾い上げた自らの名を、慈しむように、詫びるように、つぶやいた。

「鈴木、奈緒…。んん?」

 起きあがり、部屋を見回す。

 視界がぼやけて、よく見えない。けれど、見覚えのある部屋。

 ナオはベッドから下りると、机の上にあった眼鏡を着けた。

 部屋の隅の雑誌の山は、さらに高くなっている。壁のポスターは何枚か貼り替えられているようだ。カレンダーは、“昨日から一年ほど後”を示していた。

「ありえない…わけではないが」

 そうつぶやくと、明かりを求めてカーテンの前に立った。

 どく、とナオの心臓が縮む。この薄布の向こうに広がっている光景は、おそらく、

 壊滅的な打撃を受け、人々の挫折と苦悩の上に高く積み上げられた、がれきの山。

 ナオは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。そして、一気に、

 カーテンを開けた。

「っな」

 ここは真寄市のほぼ中心に立つ高層マンションの一室だ。かなり上の階にあり、この部屋からも真寄市全体を見渡せる。ナオは、そこからの都市の眺めに圧倒され、今、間違いなく、

 約一年の眠りから、覚醒した。

「なんじゃこりゃあ!?」

 一年前に街が大きく破壊されたというのに、すでにほとんど元通りになっている。もちろん、さらにビルが増えていたり、ところどころ空き地があったりするけれど、とても大災害に見舞われた街とは思えなかった。ただ、

 この街の下には、多くの犠牲が眠っている。見知らぬ大勢の人々と、

 ――先生が。

 ナオはもう、自分の罪から逃げようとは思わなかった。

 人々が街を再興し生きようとする限り、わたしはわたしの罪をすすぐために、世を守り続ける。

「奈緒っ! いつまで寝てるの!」

「はいっ!」

 ナオの体は、その意志とは関係なく一瞬飛び跳ね、着地と同時に部屋を飛び出し、食卓に向かってダッシュした。

 体とは正反対に、ナオの心は冷静に分析する。

 ――母親か。元気そうでなによりだ。

 食卓まで、二秒半。この体にもずいぶん慣れて、昨日よりだいぶ動きやすい。

 食卓には、ナオと母親のぶんの朝食が用意されていた。マーガリンを添えたトーストと、ミルク。白い皿に映える青リンゴと、細く刻まれたハムを載せたサラダ。

 ――またバターが値上がりしたのか。わたしはマーガリンの方が好きだからいいけど。

 ナオは頬を緩ませた。ただし、それは鈴木奈緒本人の嗜好だ。

 ナオは、ちらりちらりと母親を見ながらトーストをかじった。去年の今ごろ、禍物が現れて大きな騒ぎになった。鈴木奈緒は禍物と対峙していて避難所には向かわなかったのだから、きっと母親は心配しただろう。そう言えばあの日は朝から様子がおかしかった、と思われていないだろうか? だとしたら、

 また今日もおかしい、と思われるかもしれない。

 しゃく、とリンゴを囓る。薄い皮がぷちんと弾け、みずみずしい果肉から甘い果汁が溢れだす。同時に刺激的な酸味が頬をつつき、目覚めたての味覚がいっせいに咲き踊る。それは果肉を噛み砕くたびに、衰えることのない波となって押し寄せた。

「ほむぅ…」

 ――そう、あの日もこの子は嬉しそうにリンゴを食べていたっけ。

「…グズグズしてると遅刻するわよ」

「あ、はい」


「行ってきます」

 家を出ようとする奈緒を、母が引き留めた。

「奈緒…、ちゃん?」

「な…なに? お母さん」

「ううん。――気を付けてね。あまり遅くならないように」

 ナオは母の目を見た。


 ずくん。


 ナオの胸が痛む。

 わたしはこの人を騙している。二度も、騙そうとしている。

 ――この体は、無事に返す。…必ず。

「…行ってきます」

 ナオは、もう一度そう言うと、家を出た。


 ずくん。


 蒼馬の心臓が、ぎゅっと握りしめられる。

 ――いつもそうだ、

 鈴木さんを出迎える朝、苦しみの瞬間。

 いつものように無視され、いつものように煙たがられ、

 幼なじみだというだけで、それ以上何も望めず。


 ずくん。


「痛っ…」

「シィ? どうしたの?」

「うん、ちょっと、指がね…。ときどき痛むのよ」

 ――去年、禍物ハナルシに噛まれた指先。

 甘噛みだったけれど、こうして時々鈍く痛む。

 見たところ何ともないし、すぐに収まるからあまり気にはならないけれど。


 ずくん。


 杖にすがるように、やっと立ち上がる。

「ほら、まだ無理なんじゃ…」

「わかってるでしょ? 今日はどうしても行かなきゃ」

「それはそうだが…。じゃあせめて車で送ろう」

 思うように動かない右足を引きずりながら。

「いいの。杖をつけば歩けるんだから」

「でもなあ…」

「パパ? そろそろ…、」

 振り返りざまに見せる笑顔には、曇りも濁りもなく。

「そろそろ、子離れしてもいいんじゃないかなぁ?」


 ずくん。


「痛いよ…」

 街のどこかで。


 ずくん。


「苦しいよ…」

 小さな体をよじって。 


 ずくん。


「誰か…」

 陽の射す方に、手を伸ばし。


 ずくん。



 待ち伏せ…もとい偶然ばったりと鈴木奈緒に出会った蒼馬は、鈴木奈緒が現れてほっとするのと同時に、胸の痛みを隠して笑顔を見せる。

「あっ、す、鈴木さん、おはおはおは、おはよう」

 ナオは溜息をついた。

 ――期待してはいなかったが、やはり何も進展はナシか。

 けれどそれは、とても蒼馬らしい。少しも変わっていないことが、嬉しかった。

「――おはよう、蒼馬クン」

 ナオは、とびきりの笑顔を蒼馬に向けた。


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