第三章(4)
第三章(4)
ナオは護符をすべて失い、封印するすべもない。ただ逃げるだけだ。その視界の端に、横たわる先生の姿を捉える。
――すまない…。
不用意に財布を投げた、わたしの責任だ。
その前に、先生のレシートを使おうなどと考えた、わたしの責任だ。
それよりも前に、先生がここに入ってくるのを止めなかった、わたしの責任だ。
それよりも、それよりも前に…。
ナオの目の前を衝撃波が走る。ナオは半ば無意識でそれを飛び越え、逃げる。
今まで、多くの人が犠牲になるのを見てきた。けれど、それは自分とは関わりのない人々で、
そうだ、先生は、
共に、闘っていた。なんの力も持たない先生が、わたしと、共に。
ナオの視界がゆがむ。
そんな場合じゃない、今は禍物を封じて、それが終わったら泣けばいい。けれど、
視界の端に焼き付いた、横たわる先生の姿は、
鈴木奈緒の心を残酷に貫く。涙が止まらない。ナオは立ちこめる埃に紛れて、カウンターの裏に転がり込んだ。
ナオを待っていたように、そこには先生の財布があった。明るいピンク色のそれは、けれど傷つき、引き裂かれ、痛々しい。ナオは財布を拾いあげて胸に抱いた。
「ひっく、うっ…、ひっく」
涙を止めることはできなかった。
――精神の制御は難しい。浅いところにいるわたしを、深いところにいる奈緒が拒絶する。
けれど、わたしが奈緒本人だったとして、
泣きやむことができるだろうか?
先生、先生、先生、
わたしのせいで。
どうしてこんなことになった?
わたしが自己を過信し、
わたしが禍物を放って。
わたしが護符を使い切り、
わたしが先生の財布を借り、
わたしが先生の財布を投げて、
すべて、
すべて、わたしの、せい。
「ああ、もう…」
ナオの心を支配するその感情を、ナオは自然に受け入れることができた。
壁にもたれかかり、ずるずると這うように立ち上がる。
「ツヌイ…、ツヌイ…!」
思い切り息を吸い込み、すべての力を使い切ってもいい、それくらいのつもりで叫ぶ。
「ツヌイっ! わたしはここだ!!」
ナオを見失っていたツヌイが、ナオに迫る。飛び上がって大きく右腕を振り上げ、
ただ棒のように立って見上げるナオに、
その腕を、
振り下ろす。
――終わった。
すべてを諦めて焦点の合っていなかったナオの目は、けれどその視界を遮った者の姿を捉えた。
それは、
蒼馬。
「ぐぅっ!」
蒼馬の体を通して、ずしん、と床に衝撃が突き抜ける。ツヌイを受け止めた両腕の先にあるものは、
――レシートの、護符?
「んぅうううぅっ、」
レシートの護符は、砕けることなく耐えている。
「信じろ、信じろ、信じろ!」
徐々に押し込まれる蒼馬だったけれど、
「はあっ!」
蒼馬の気合いと共にツヌイは弾き飛ばされた。
それを見届けるように、レシートの護符が、シャン、と砕ける。
「蒼馬、お前…、そんな弱い護符で」
言い切る前に、蒼馬はナオの頬を叩いた。思い切り。ナオが頬を押さえると、蒼馬の血がべっとりとついていた。
「ナオ…、今、死のうとしてたでしょ?」
「蒼馬、…でも」
「ふざけんなっ!」
蒼馬の勢いに、ナオは、びく、と体を硬直させる。
「こうなったのは誰のせいだよ! ナオのせいだろ!? 街が壊されて、大勢の人が死んで、先生もあんな酷い目にあって、」
突き刺さる、真実だけれど、あまりに厳しい言葉。
「奈緒ちゃんの体は無事に返すって言っただろ!? なのに勝手に死のうなんて、」
震える声、
「ふざけんなっ! 最後まで責任取れよっ!」
こぼれる涙。
――ああ、蒼馬、わたしに、
言葉は鋭いけれど、
生きろ、
と言ってくれる、
蒼馬。
ナオは蒼馬と頬を合わせる。
――やっぱりだ。
「ナ…ナオ? 僕は、その、怒ってるんだよ?」
――やっぱり、男の涙は熱い。そして、とても、
とても、
やさしい。
「わかってる。すまない…。そうだな、これはわたしの、」
封印の護符を手に、立ち上がる。今度は、自分の両足でその体を支えて。
「わたしの、罪滅ぼしだ」
「ナオ、見える…?」
「いや。ツヌイ…どこに隠れた?」
「禍玉は?」
「さっき引っかけて切れてしまった。どっちにしろあれは感度が鈍くて役に立たない」
柱の影から、ナオと蒼馬はあたりを伺う。動くものはない。
二人の手にはそれぞれ、護符が二枚ずつ握られていた。先生の財布から取りだしたレシートの護符と封印の護符が一枚ずつ。もちろん、「封」の字は直してある。パステルカラーの護符は頼りなさげだけれど、レシートに比べればだいぶましだ。蒼馬の血が付いてしまい、若干だけれど、凄みを増した…気がしないでもない。
蒼馬は、護符をじっと見つめて言った。
「ナオ、僕が囮になる」
「バカ、やめとけ」
「…僕はそのためにここに来たんだ。そう言ったよね?」
ぐ、とナオは返事に困る。それはそうだし、それを少し期待していたのも確かだ。
「それに、先生の近くで暴れてほしくない。だから、このあたりにツヌイを引きつけるよ」
「先生の…。そうか、しかし、おい待て!」
蒼馬は聞かずに飛び出した。
「ツヌイ! どこだよ、ツヌイ!」
「グアッ!」
「うわあっ! 危なっ!」
一撃をかわされると、じり、じり、とツヌイが近寄る。
蒼馬は侮るべき存在ではないと、ツヌイは知った。最大限に警戒しつつ、蒼馬を壁際に追いつめる。もちろん、
もう一匹の人間への警戒は、怠らない。隙は、ない。
放たれた衝撃波に、蒼馬がレシートの護符で応じる。
「ぐっ…、ナオ! 今だ!」
蒼馬はナオが隠れていたあたりに向かって叫んだ。けれど、
「あれっ? ナオ?」
どう、と衝撃波が護符を破る。蒼馬はぎりぎりのところで転がり、かわす。
けれど目の前に立ちはだかるツヌイに気おされ、身動きが取れなくなる。
「ナ…ナオ〜? どこ〜?」
返事はない。けれど蒼馬は、ごほん、と咳払いをすると不敵な笑みを浮かべた。
「ふ…、ツヌイよ。まさか僕が封印の護符を持っているとは…思わなかっただろう?」
声が震えてしまって、あまり迫力はない。それでも、封印の護符を見せられてツヌイは一瞬だけ怯んだ。蒼馬は、その一瞬を逃さなかった。ツヌイの体に、護符を叩きつける。
「ツヌイっ、封印っ!」
「グアァァァァァ……ア?」
ほんのひととき見つめ合う、蒼馬とツヌイ。
ぱちぱち、と二度ほどまばたきをした後、蒼馬は首を傾げた。
「あれっ?」
蒼馬自身は力を持たないから、必然的に封印は護符の力のみに頼ることになる。封印専用の護符であれば、あるいはなんとかなったかもしれないけれど、
汎用の護符を封印用に改造しただけではツヌイには効かず、護符は切なげな響きを残して消えた。
二度目の命拾いに、ツヌイの腕は振り抜かれる。その指先は蒼馬の肩をかすめただけのはずなのに、蒼馬ははじき飛ばされた。
「いたた…っ。あ」
顔を上げると、そこにいたのはツヌイ。蒼馬の手には、もう護符は一枚も、レシートの護符でさえ一枚もない。
乗っ取られた男の表情は動かないけれど、蒼馬には伝わった。たぶんツヌイは、追いつめた獲物を嬉しそうに睨んでいる。すべての望みを絶たれた小さな人間の顔を、とても嬉しそうに、睨みつけている。
「あ、あ、あ…」
ツヌイが目の前の獲物に気を取られたその瞬間、物陰に潜んだナオがニヤリと笑う。
同時に、
ツヌイの背中に向かって走り出す。靴を脱いでソックスだけになった鈴木奈緒の足は、
――音を立てずに走れるとは…、鈴木奈緒、まるで猫だな。
つま先と足首と膝の関節が、絶妙に衝撃を和らげ、足音を消す。厳しく育ててくれた母親に、感謝だ。
ナオが走りながら封印の護符を構える。風を切る護符の音にツヌイが反応し、振り返りざま、腕を横に払う。それはナオの顔面に直撃し、けれど封印の護符は、
ツヌイの胸の中心に、強く貼り付けられていた。
ナオの左手は、顔のすぐ横にレシートの護符を掲げ、ツヌイの腕を止めている。
レシートの護符が散ると同時に、ツヌイに憑かれていた男は崩れ落ち、口からガラス玉が転げ出た。
「はあ、はあ、はあ…、封印、完了だ」
「ナオ、やったね…。でも、どこ行ってたんだよ」
「ん? 隠れて見てた。お前が囮になると言ったんだろう」
「そりゃそうだけど…」
「作戦立てる前に飛び出したお前が悪…っ」
ナオが、がく、と膝をつく。
「ど、どうしたの? 怪我?」
「いや…、眠い…」
蒼馬が、がく、とずっこける。
「心配させないでよ…、ってひょっとしてナオ」
「ああ、お別れだ。わたしはまた眠りにつき、…数百年後に禍物と共に目覚める」
ナオの笑顔が、とても寂しそうな笑顔が、蒼馬の心をきつく握りしめる。
蒼馬は、ためらいがちにナオの体を抱き支える。血で服を汚してしまうけれど、仕方がない。
「ナオ、もう…、会えないの?」
「ああ、わたしはただの通りすがりだ。もう二度と…。それよりも、先生には済まないことをした。謝っても謝っても、謝りきれない」
「…ナオはこの世界を護ったんだ。そんなに謝ることはないよ。僕こそ…、さっきは怒鳴ってゴメン。ナオが苦しんでることを知っててわざわざ怒鳴るなんて」
蒼馬は少しだけ顔を赤らめる。ふだん怒鳴る事なんてないから、思い出すとなんとなく恥ずかしい。
くす、とナオは弱く笑う。
まただ。また最後の最後になって、許し、許されようとする。
ただし、
わたしは決して許されることはないのだけれど。
それにしても、
ああ、
眠りに落ちる瞬間の心地よさは、
わたしの心に刺さったいくつもの棘を、
やさしく、やさしく、抜き取ってくれる。
わたしにたった一つだけ救いがあるとすれば、
今この時、
蒼馬がわたしを抱いていてくれること。
「また次も…、お前のような奴に会えるといいな、蒼…」
こと、とナオは眠りについた。ほんの少しの間を置いて、そのまぶたが再び開く。
「んん…、あれ? 私…」
「ナ…奈緒…ちゃん?」
「えっ、なっ、何やってんのよ、放して、放してよっ!」
けれど蒼馬は、決して奈緒を放そうとはしなかった。
「奈緒ちゃん…、よかった、奈緒ちゃん…」
周囲の異状から、何かとんでもないことが起こったことはわかる。けれど、
体のあちこちが痛いし、蒼馬くんは血まみれで私に抱きついて泣いてるし、すぐそこに知らない男の人が倒れてるし、向こうに横たわっているのは…、たしか、保健の先生?
「蒼馬くん…、何が、あったの…?」