第三章(3)
第三章(3)
「蒼馬、護符はあと何枚ある」
「ええと、三枚」
「ここから動くなよ。その護符で先生を守れ」
「…わかった」
ナオはゆっくりとツヌイに近づく。
――さっき、先生がしたように。
ぎりぎりまで近づいて、封印の護符を貼れば…。
けれど、
ツヌイはナオを目で追う。それは先生の時とは違って、警戒しているようだった。
ひと飛びで懐に飛び込めるくらいに近づくと、
ツヌイが弾けるように飛び退く。両手を鞭のように振るい、衝撃波がナオを襲う。
「くぅっ!」
なんとかかわしたけれど封印の護符は砕けてしまった。致命傷に近い傷を防いでくれた。
「しまった、封印の護符が」
たて続けに衝撃波が見舞われる。ナオは飛びのき、転がり、なんとか逃げる。
「なんか、さっきより激しくなってないかっ!?」
「ハナルシを封印しちゃったから、本能のままに暴れてる…ってとこかなぁ?」
「よけいタチ悪いじゃないかっ、うわっ!」
ナオが身を寄せていたジュースの自販機がはじけ飛ぶ。破裂したペットボトルから、ジュースが床に広がる。
「ナオっ! 護符はまだある?」
「護符は、うわっ」
床のジュースで足を滑らせたナオに、ツヌイが襲いかかる。ナオの腹めがけて突き出された拳はなんとか護符で受け止めたけれど、勢いで体ごと弾き飛ばされ、壁にたたきつけられた。
「ごふっ!」
「ナオ、ダジャレ言ってる場合じゃないよ!」
「うるっさい、ばか!」
続けざまに放たれる衝撃波を、ナオは飛び退いてかわす。
「護符は…あと…一枚か、蒼馬、紙くれ紙! 護符を作る!」
「紙なんて…先生、何かない?」
「レシートならあるけど…」
「それでいい、くれ! あと書くもの!」
「ナオの後ろ、売店があるよ! ボールペンくらい、あるんじゃないかな」
振り返ると、少し離れたところに土産ものの売店がある。
「ナオっ、援護するからその隙に走って! おい禍物! ええと、タ…タ…、チ…」
「ツヌイ」
「ツヌイ、こっちだ!」
あちこち衝撃波で壊されているから、投げるものはいくらでもある。蒼馬は手近な塊をツヌイに投げつけた。
「グアッ!」
小虫を払いのけるような動作で、ツヌイが衝撃を放つ。
「ぎゃんっ!」
「うあっ!」
先生と蒼馬の間を衝撃波が走り抜ける。
「蒼馬君っ、ツヌイの気をそらすだけで良かったんじゃないかなぁっ!?」
「蒼馬、紙っ!」
「はいよっ!」
蒼馬が先生の財布をむしり取って投げる。
「ぎゃぁんっ、あたしのおサイフ! リオンさまぁ〜っ!」
「ご…ごめん先生、つい…。リオン様?」
ピンク色のかわいい財布が、荒れた床面に無惨に叩きつけられる。
ツヌイの放った衝撃波が跡を追い、財布をかすめる。床のタイルと一緒にはじき飛ばされ、先生の財布はナオの足元に落ちた。
「ええとレシートレシート…、あった」
「リ、リオン様は無事!?」
「あー…、いや、その…、だ…大丈夫、大丈夫だ」
「! うわあん、リオンさまぁ〜」
先生は蒼馬の胸に顔を埋め、ばかばかばか、と叩く。
蒼馬は、
――なんか…、こういうのって…、いいなぁ…。
と、どさくさにまぎれて先生を抱きしめてみたりした。
「うっわ、四百円か、高いなー」
「どしたの? ナオ」
「いや、ボールペン、一番安いので税込み四百円もするんだよ」
「非常時なんだからお金は払わなくても…」
「ばかっ、いいか、そういうのを火事場泥棒と言ってだな、もっとも卑怯な、んぎゃっ!」
「ナオっ!」
もうもうと立ちこめるホコリで、一瞬ナオの姿が見えなくなる。
「ケホ、とにかくそんなのはダメだ!」
「試し書きだと思えば…」
「買うつもりもないのに試し書きなんてできるかっ! 先生、四百円借りるぞ」
「うぅ…、ナオちゃん、返すつもりないくせに…」
「あ、細かいのがないな…。しょうがない、二千円で五本買おう」
取り出したのは、とっておきの弐千円札。
「いやぁぁぁぁ! あたしの弐千円札ぅっ! だめ、それだけはだめっ!」
「じゃあ一万円札でボールペン二十五本買うか?」
「ぎにゃぁぁぁぁぁぁん! そんなに使いきれないよう…。ごっ、五本でいいです…。あたしの弐千円札…」
「先生、よく弐千円札なんて持ってたね…。僕、本物見たことないよ」
「ひっく、ぐしゅ…。今年のお年玉に、おじいちゃんがくれたの…」
「…まだもらってたんだ」
ナオは財布から取り出したレシートの裏に呪文を書き込んで、数枚の護符を作った。掲げると、コンビニのマークが透けて見える。
大丈夫、大丈夫、大事なのは念だ、と自分に言い聞かせながら二枚を手に残し、あとは財布に挟んだ。
「…よし。おいっ、ツヌイ!」
飛び出したナオに、衝撃波が向かう。床のタイルを切り裂きながらまっすぐナオに突き進む。
ナオは、レシートの護符を一枚、目の前に放った。宙で一瞬静止したそれを、突きだした両手で支えるように構える。
どどう、と衝撃波が護符を直撃した。ナオの両腕に、凄まじい圧力がかかる。
「くぅっ!」
――耐えられるか?
けれど、
レシートの護符に、ぴしりとひびが入った。
「!」
ナオは護符を残したまま、横に飛んだ。直後、衝撃波は轟音と共に護符を打ち破り、その先のガラスを吹き飛ばした。風の通りが良くなり、舞い上がった埃はすぐに外に流れていった。
「やっぱりダメだったか。…まあ、」
そう言うと、顔をぶるんと振って降りかかった破片を落とす。
「当たり前といえば、当たり前だな」
ナオは走る。
「蒼馬! これで残りの護符をすべて封印の護符にしておけ! やっぱりレシートじゃだめだ!」
そう叫んで、ボールペンと財布を投げた。
「了解っ!」と蒼馬。
「うあああん! リオンさまぁ!」と先生。
ナオの後を、立て続けに三つの衝撃波が追いかける。蒼馬が封印の護符を書き上げるまでの時間稼ぎに、ナオは走る。
――うん? 今まで気づかなかったが…、
ずいぶん足の運びが柔らかい。鈴木奈緒の体に染みついたこの走り方。
ひょっとして。
「ナオ! 書けたよ!」
「よし、投げてよこせ!」
「投げるったって、風が強くて…」
「財布に入れて投げろ!」
「先生、あの…」
先生は黙って財布を差し出した。震えている。
ぎゅっと胸の前で握られた手には、なにか写真のようなものが収まっているようだ。
――あれが、…リオン様、かな?
まあ、それは後で。
蒼馬は護符を一枚だけ手元に残し、二枚を財布に挟んで投げた。
「いくよ、ほらっ!」
「よし!」
走りながら、今度は空中で受け止めるナオ。
財布から封印の護符を一枚取り出す。
蒼馬が書いてくれた封印の護符。それはパステルカラーではあるけれど、
――レシートに比べればだいぶマシだ。
必ず、これで、
仕留める。
ナオは鉄骨の柱に跳び蹴りを食らわすようにして体を反転し、まっすぐツヌイに向かって走り出す。一瞬、突然の反撃にツヌイが怯む。けれど彼の本能はそれよりも早く腕を振り抜く。一筋の衝撃波が床を割きながらナオに向かう。
「ナオっ!」
衝撃波にはじき飛ばされる、その瞬間。
ナオはレシートの護符を前方に放ると、軽く飛んでその護符の上につま先で乗った。衝撃波が護符を弾く。その勢いでナオは垂直に跳ね上げられる。ツヌイはナオを見失う。護符が砕けて透明に散る。ツヌイの頭上から、
音もなく、
ナオが舞い降りる。
「ツヌイっ! これで終わりだ!」
とっさに見上げたツヌイは、しかし為す術もなく、
蒼馬が書き上げた、ナオの封印の護符をその身に受けた。
「ナオ、やった!」
一瞬の静寂、すべてが静止した展望室。
それは、風圧でめくれたスカートがはらりとしぼむくらいの、短い時間だった。けれど、
とても長く感じる、一瞬。
その静寂を破ったのは、ガラスが砕けるような、透明な音。
シャン。
「え?」
「ん?」
ツヌイを封印するはずの護符は、砕けて消えた。
慌てて飛び退くナオに、命拾いしたツヌイが襲いかかる。
「なっ、なぜだ? 蒼馬、ちゃんと書いたのか!?」
「書いた…と…思う…けど」
ナオは逃げながら、財布に残った護符を取り出した。
「おまえっ、ばか! ばか蒼馬! 土をふたつ縦に並べるんだよ! 横に並べてどうすんだ! その下に寸って…、こんな字はないだろ、ばかっ!」
「あー、なんか変だと思った、あははー」
「あははじゃないっ、書き直せ!」
また先生の財布が宙を舞う。
けれどその中にはもうリオン様も弐千円札もない。先生はすべて吹っ切れたような笑顔で、
「あのおサイフも、結構高かったのよね…」
と、宙を舞う財布につられ、ふらふらと前に出た。
「先生、危ないっ!」
「…え?」
衝撃波が、先生の体に直撃した。
ばりばりと床が裂け、砕け、弾け、先生の体もろとも高く跳ね上がる。宙に浮いた先生の小さな体に、とどめを刺そうとツヌイが襲いかかる。
「ツヌイッ! 止まれ、お前の相手はわたしだ!」
けれど、
振り抜いたツヌイの腕が、先生の腹にめり込む。体はくの字に曲がり、そのまま強化ガラスの窓に叩きつけられた。展望室の外に大きく張り出すように角度がつけられているガラスは、先生の体を受け止め、たわんで全体にひびが入った。
「先生ーっ!」
蒼馬が飛び出す。同時にツヌイが蒼馬に向けて衝撃を放つ。ぎりぎりのところでナオが滑り込み、最後の護符で蒼馬を守った。
歪んだ強化ガラスはめりめりと音を立てている。簡単に割れないはずのそれは、しかし次第に歪みを増し、とうとう砕け落ちた。大きく開いた穴から、先生の体が窓の外にずるりと滑る。
「ぐぅっ!」
蒼馬はぎりぎりで先生の右腕を掴むことができた。白衣がばさばさと不吉な音を立てて羽ばたき、悪魔の呼び声のような風切り音が二人を包む。
「せんせぇ…っ!」
意識を失った体は、信じられないほど重く感じる。先生の体が小さいとはいえ、それを一人で引き上げるのは難しい。けれど、
「うぉおおおおおおっ!」
何とか引き上げることができた。その瞬間、砕けたガラスで足を滑らせ、
「うわぁっ!」
今度は蒼馬が窓枠にぶら下がった。
窓枠にはガラスの破片が残っている。蒼馬の手は血まみれになり、それが腕を伝ってくる。
それでも蒼馬は、何よりも先に、先生が上に残っていることに安心した。
「ここから落ちたら…、助からないよね…」
蒼馬は懸垂が三回しかできない。さっき先生を引き上げるのにかなり力を使ったから、
「チャンスは一回っ! ふぬうううううっ!」
腕が悲鳴を上げる。指にガラスが食い込んで、けれど不思議と痛みは感じない。
右足を床に上げ、なんとか這い上がったと思った瞬間、
目の前を衝撃波が通り抜けた。
「ぐっ!」
思わず顔を背けた蒼馬の体は、再び窓枠にぶら下がった。
「あー…」
蒼馬は場違いな苦笑いを浮かべる。
自分の手から落ちた血の滴が顔に落ちる。
「もう、ダメかも〜。あはは」
笑いながら、けれど、目に涙が浮かぶ。
先生は、生きてるかどうかもわからない。
ナオは、もう一枚も護符を持っていない。
僕は、だから、もう、落ちるしか、ないのかな。
でも、
「蒼馬ぁっ! 生きてるか蒼馬ぁっ!」
僕は、
「這い上がれ! 這い上がれ! 這い上がれっ!」
ナオを、奈緒ちゃんを、
「わたしを守るんじゃなかったのかっ!」
守ると、
「約束したんだろーっ!」
約束したんだ。
「くぅぅぅぅっ、ぬがぁっ!」
蒼馬は一気に自分の体を引き上げ、展望台の中に転がり込んだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、先生っ」
蒼馬の呼びかけにも、先生は応じない。開いたままの目と口が、絶望という言葉を呼び起こさせる。
「蒼馬、無事だったか!」
「無事じゃないけど…、とにかく先生を安全な場所に移すまで、タ…タ…そいつを引きつけてて!」
「わ…わかった」
どんな怪我をしているかわからない先生を下手に動かしたらまずい。蒼馬は床に落ちていたテーブルクロスのような布に先生を乗せ、ずるずると引きずって売店の奥に移動した。
「先生、死んじゃだめだ!」
蒼馬は先生の胸に手を置き、心臓マッサージを始めた。――“あの事故”のことを知ったあと、何度か講習を受けて、やり方はよく覚えていた。