第二章(4)
第二章(4)
「…おかしいか」
ようやく泣きやんだナオは、袖で涙を拭きながら言った。
「心は体よりも制御が難しい。鈴木奈緒の持っている感情が、うまく制御できなかった」
「鈴木さんは、」
蒼馬は、ナオの言葉を聞いたか聞かないか、独り言のようにつぶやいた。
「鈴木さんは知っているのかな。お父さんの事故の理由を」
ナオには、蒼馬の言葉の意味がわからなかった。
「浅い記憶にはないな。知らないのか、知っていても思い出したくないのか…、それはわからん」
「そう…」
うつむく蒼馬に、ナオは感じ取った。
蒼馬が、わたしにまとわりつく理由。
それは鈴木奈緒に対する好意だけでなく、何か他の。
けれど、ナオが答えを出す前に、蒼馬はぼそりとつぶやいた。
「僕の、罪滅ぼしなんだ」
ナオは、蒼馬から目をそらした。
「鈴木さんのお母さんとの、約束なんだ。僕は、鈴木さんを守らなきゃならない。つきまとって嫌われても、構わない。それが僕の、罪滅ぼしなんだ」
罪滅ぼし。
わたしの言えなかった言葉を、蒼馬は口にした。
理由はわからないけれど、蒼馬は、
蒼馬も、
自分の罪と戦っていた。
わたしは、けれど、
自分の罪から逃げようとばかりして、
決してそれを口にせず、
ああ、
わたしは、卑怯だ。
何万もの人の命を奪い、
ああ、
わたしは、
その罪から逃げて、
ただ禍物を倒すことが使命だと、うそをついて。
わたしは、
卑怯だ。
蒼馬は、呆然としゃがみ込んだナオを追い越し、階段を上りだした。
「だから、ゴメン。ナオにもつきまとうことになるけど、それでも僕はナオと一緒に行くよ」
「待てっ!」
「待たないっ!」
ナオは立ち上がって蒼馬に追いつき、蒼馬の腕を引いた。
「放してよ!」
ナオは、蒼馬の腕を掴んだまま、数枚の護符を渡した。
「自分の身を守るためだけに使え。それから…、無茶はするな」
ふたりは、再び階段を上り始めた。
「や…やっと管理室まで来たな」
まよりタワーには、展望室の十メートルくらい下に大きなデジタル時計がある。その調整をしたり、予備の電球を保管しておくための部屋が管理室だ。
鍵を開けて中に入ると、そこはあまり広くなく、通路のように細長い部屋だった。時計の操作盤があって、隅のほうには電球の箱が数個置いてある。奥には入口と同じようなドアがあり、両側にはアルミサッシの窓ガラスがはめられていて、少し鉄骨や時計の電球が邪魔だけれど展望室に負けないくらい眺めがいい。
「ここの時計はね、」
窓から街を見下ろしながら、蒼馬が話し始めた。
独りごとではないけれど、かといって特にナオに聞いてもらおうというつもりもない。話したいから話す、という程度の話し方だった。
「あてにならないって、みんな言ってる。一週間で三分くらい進むんだ。たいてい月曜日の朝に直されるみたいだけど、ひどいときは十分くらい進んだままだった」
ナオは黙っていた。蒼馬は特に相づちを求めていないようだったし、なにより、蒼馬の寂しそうな目つきが、話しかけられることを拒んでいるようだったから。
ナオが感じたとおり、蒼馬はナオが口を挟むのを待たなかった。
「こういう時計って、普通は下の事務室から操作できるじゃない? でもここのは、この管理室まで来ないと調整できないんだ。だから、」
ここで初めて、蒼馬はナオのほうを向いた。ただし、目を合わせることはしなかった。
「だから、なかなか直さないんだね。…簡単に直せるんなら、毎日でも直すんだろうけど」
ナオには、なぜ蒼馬がそんなことを話すのか、わからなかった。何か意味があるのかもしれないし、他に話題が見つからなかっただけかもしれない。
だからナオは、「そうだな」と返しただけだった。
そのまま黙り込んだ二人は、ただ街を見下ろしていた。ズシンという地響きが伝わってくると、街に新たな地割れができた。小さな爆発が地割れに沿っていくつも起きる。
「ナオ、そろそろ行こうか」
管理室を出ようとする蒼馬を、けれどナオは腕を引いて引き留めた。
「蒼馬、お前と鈴木奈緒の間に何があった? お前がさっき言った事故って何だ?」
蒼馬は何かを言おうとしたけれど飲み込んで無理に笑顔を作ると、
「…まあ、いろいろとね」
とだけ言うと、管理室から出ていった。
「でもさ、」
蒼馬は、手すりにすがりつくように階段を上りながら、少し後を登ってくるナオに声をかけた。
「自分の街がさ、禍物に荒らされたんだ。その禍物を、退治してくれる人がいる。だから手伝いたいっていう気持ちも、本当だよ」
「退治じゃない。…眠らせるだけだ」
「なんで? なんかこう、魔法とかないの? 変身すると強くなるとか、オフダの精を出して戦わせるとか」
「お前はアニメの見過ぎだ」
「…鈴木さんに言われたくないよ」
再び地響きが階段を伝う。
「わたしにあるのは、父上から授けられた、この護符と禍玉だけだ」
「お父さんから?」
「父上は、最大のマジナイ師として、クニを治めていた。…もう、数千年前の話だ。わたしは、その跡を継ぐべく、父上について修行をしていた。しかし…」
ナオは、
自分の“罪”を、
語り出した。
◆
「大丈夫、わたし一人でも、できる」
父は夕方まで帰らない。少女は、集落の外れから延びている山道を一人で歩いていた。
山の奥の方へと続いている道は、いつ何が、たとえば山賊のような輩が飛び出してきても不思議ではない。けれど、父が治めているこのクニは平和そのもので、周囲のクニとも争いが起こることはめったにない。したがって人々は暮らしに満足していて、だからわざわざ安定した暮らしを捨てて山賊になろうという者もいなかった。
それは、人々に信頼されるに足る父の力と努力によるものだ。
「それは認めるが…、いずれわたしがその跡を継ぐとなると、いささか気が重い」
けれど、何も問題がなければ、王のような存在が信頼されることはない。危険があって、それを回避し、それで初めて王は尊敬され、崇められる。
危険。
それは、時折現れる禍物による災いと、時折気まぐれを起こす神による災い。
――禍物は、封ずればいいからまだましだ。厄介なのは神様だ。大雨を降らされては手も足も出ない。…いっそ神様も一度封印して、痛い目に遭ってもらってはどうだろう。
こんな事を口にしたら叱られるだけでは済まないけれど、少女は少しだけ神様に対して不敬な空想をして、クスクスと笑いながら山の奥に向かった。
やがて少女は、気を付けていないと見落としそうな小さな目印を見つけ、小道に逸れた。
その道は両側から草が覆い被さるように茂っていて、よほど慣れた者でないとそこが道だということすらわからない。つまり、ほとんど人が通ることのない道だった。
「大丈夫、わたし一人でも、できる」
少女は、木に刻まれた目印で道が間違っていないことを確かめるたびに、そうつぶやいた。
「だいたい父上は、わたしをいつまで子供扱いしているつもりだ」
今朝家を出る父は、
くどくどと、
ああもう、思い出すのもうんざりするくらいくどくどと、
まるで幼子に対してそうするように、何度も何度も繰り返して留守中の注意を並べ立てた。
なかでも頭に来たのは、「一人で川に遊びに行ってはいかんぞ」という一言だ。
わたしはもう川遊びをするような年ではないし、行ったとしても流されるようなことはない。まったく、父上はわたしを子供扱いしすぎる。
けれど、
低くまろやかな父の声は、聞いていると深い海の底でゆったりと眠っているような、そんな安らいだ気分になる。父の声は、声に限って言えば、嫌いではない。いや、
――そうだ、父の声に限って言えば、好きだ、とても。
少女は少し赤くなった頬に冷たい手の平を当てて冷ました。
草木はますます深くなり、陽も射し込まなくなってくる。がさがさという草を蹴分ける音だけが響いていて、立ち止まってみると一転、何も聞こえなくなる。
この付近には動物や、小鳥すらもいない。それは、彼らにはわかるから。ここがただの森ではない、と。
普通の人間は、鳥の鳴き声がしないことで初めて、ここの空気が少しよそとは違うことを知る。もっとも、ここに来るまでに何重にも張られた結界を抜けることができれば、の話だ。
――ここだ。
両側から道を閉ざすように茂っている木を押しのけると、一気に光が射し込む。目の前に大きな崖がそびえ、その周囲だけが嘘のように草木も生えず広場になっている。崖には、人がかがんでやっと入れるくらいの穴が開いていた。どこまで続いているのか、真っ暗な穴の奥の方からは、微かに冷たい空気が流れてくる。
入口の中央に、握りこぶし大の禍玉がひとつ置いてある以外は、ただの穴。けれど、
この場所を知っているのは、父上と、わたしだけ。
この付近に立ち入れるのも、父上と、わたしだけ。
その他の者には、結界を破ることはもちろん、その存在に気づくこともできないように隠されている。それは、
――ここが、危険な場所だから。
王でありマジナイ師である父が、数々の禍物を討し封じた洞窟。
――わたしはまだ、一人で禍物を討したことはない。それでも、
毎日の厳しい修行で、父に支えられながらではあるけれど、禍物を倒すだけの力はあるはずだ。
「大丈夫、わたし一人でも、できる」
少女はもう一度つぶやき、穴の入り口に置かれた禍玉をつかんだ。
禍物が現れるのはせいぜい年に数回。それを待っていては、訓練にならない。一瞬だけ結界を消し、一体だけ禍物を誘い出し、
倒し、
封じる。
ここにいるのは、一度倒されて弱っている禍物ばかり。訓練用としてはちょうどいいだろう。
禍物を放ったことは咎められるかもしれないけれど、
それ以上に、一日でも早く一人前として認めてもらいたい、その気持ちが、
少女を、突き動かしていた。
少女はつかんだ禍玉を慎重に持ち上げた。
禍玉が地面から離れた瞬間、結界は消滅する。同時に、洞窟の奥から数体の禍物が出口に殺到した。
「っ!」
予想以上の勢いに少女はひるみ、慌てて禍玉を置いて結界を戻した。けれど先頭の数体だけは凄まじい勢いで、ごう、と少女をかすめるように洞窟から飛び出した。一瞬の間を置いて、少女の身代わりとなった護符が数枚、シャンシャンシャン、と砕けて消える。護符が守りきれなかった頬と右足の皮膚は鋭く切り裂かれ、血が飛び散る。
放たれた禍物は、すぐに上空高く登って見えなくなった。少女はよろめきながらも首にかけた禍玉を手に取る。けれど、
空を見上げた少女の顔が、
青ざめる。
真っ黒い雲が、空を覆いはじめている。
あり得ないほどの勢いで雲が涌き、空を埋め尽くす。
地は人のもの、天は神のもの、それが理。その天を操る禍物が持つ力は、
神のように、強大だ。
――こんな、こんな大きな禍物が、どうしてここに?
この禍物は、
わたしには、
大きすぎる。
呆然と、それでも禍玉を構える少女に、
雷となった禍物は、
牙を、突き刺した。
「…馬鹿者が」
目を覚ました少女に、重くのしかかる言葉。
いつもはすべてを委ねられる父の低い声が、今日は、
体中の傷をさらに引き裂く。
少女は涙を拭こうとしたけれど、右腕が動かなかった。それが失われていることには、気づかなかった。
「焦ることはなかったのだ。焦りは時に、…すべてを失う」
父は、血と混じった少女の涙を軽く拭いながら、傍らの医師を伺った。医師とはいっても、この時代ではせいぜい薬草の知識を持っている程度で、
死の傷を負った少女を癒すことはできない。医師はうつむき、うなずいた。すべてを失う、という言葉の持つ意味に対して。
父は少女の体を抱え、祭壇へと運んだ。真っ赤な血が、ぼたぼたと床を染める。
「お前はこのクニの王の娘だ。お前が放った禍物から、後の世を守る義務がある」
「父…上」
「禍物は、時の流れに身を隠した。追わなければ、すぐに世は滅びるだろう」
「しかし…、わたしには」
「行くのだ」
禍玉のひと振りで、少女は眠りについた。
最後に父の唇が動いたけれど、何を言ったのかはわからなかった。
少女の記憶にあるのは、そこまでだ。
「…間に合いましたか」
「わからぬ。あとは、数百年後に目覚めてくれることを祈るばかりだ。いかに私とて、時の先を見ることはできぬ」
抜け殻になった娘の体を見下ろす父に、医師は慰めの言葉を見つけることができなかった。
「これから、お嬢様には辛い毎日が待っていることでしょうな」
「うむ。しかし、それでも、」
父の声は、震えていた。
「それでも、少しでも長く、生きていてほしいのだ。…父親の、我が侭かもしれぬが」
少女が目を覚ましたのは、薄暗く、凍えるほど寒い部屋の中だった。
薄いぼろ切れのような布団の中で、少女は震えながら両手をこすり合わせた。
がさがさの手のひらが、乾いた音を立てる。少女は、それが自分の体ではないことに気づいた。
農民の娘らしい荒れた肌、栄養が足りないために細い、けれど実用的な筋肉がついた手足。少女は、手探りで自分のものになった体を確かめ、
現実を知った。
少女は、よろりと起きあがり、小屋のような家を出た。
夜明けには遙かに遠く、動くものは何もない。
月明かりが凍った空気を音もなく切り裂き、
少女の影を乾いた地面に焼き付ける。
時おり吹く風が、
着物の裾から容赦なく吹き込み、
少女の体を責める。
わたしは、もう、戻れない。
決して許されない罪を背負ったわたしは、
父の術によって放り出され、
永遠に、禍物を追う使命をも負ってしまった。
遠くから聞こえてくる地響きに、
少女は、自分の使命と運命を知り、
両手で顔を覆って泣いた。