524 ギルドマスターは所在と安否を確認します
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クロエが教えてくれたヘアトリートメントが、もうね、しっとりなのにサラサラで、しかも艶々。
おかげで朝から凄くいい気分で出勤出来ました。
ええ、会社に着くまでは……ううん、会社最寄り駅に電車が到着するまではね。
さすがにわたしだって社会人二年目で、通勤電車だって毎朝乗り続けて二年目。
今さら満員電車ごときで機嫌を悪くすることはありません。
しかもあと数ヶ月もすれば三年目に入り、会社には新入社員が入ってくるんだもの。
そこは先輩らしく、もっとしっかりしなきゃね……と気合いを入れられたのも、会社最寄り駅で電車を降りるまで。
改札を出たところで、このラッシュの中で足を止める勇気のあるOLを見つけた……と思ったら見覚えのある顔。
名前は知らないけれど、何年か上の……確か国分先輩より上の人よね。
以前は総務にいたけれど異動して、今の部署は知らないけれど同じ会社の人であることは間違いない。
まさかすでに退社しているってことはないわよね、朝から会社近くで見掛けるんだもの。
たぶんこれから会社に向かうところだと思うんだけれど、なぜか彼女は足を止めてこちらを見ていた。
はて……?
これはひょっとして、ヤバいやつ?
わたしの顔に何か付いているとか、あるいは逆に何か足りないとか?
例えば眉を描き忘れたとか、その手の感じのうっかりミス?
でも口紅はマスクをしているから大丈夫。
呼吸器系の持病があるわたしは冬の朝が特に苦手で、出勤時はマスク着用が習慣になっている。
だから口紅は忘れても平気! ……いえ、まぁ会社に着いたらすぐに引かなきゃまずいけれど、とりあえずここでは大丈夫のはず。
じゃあやっぱり眉の描き忘れ? ……とか思ったら、うっかり手で前髪を押さえていた。
うぅぅぅ……
もう朝っぱらからなにやってるのよ、わたしったら。
ここは気付かない振りをして、会社まで早足で辿り着くべきところ。
そして何食わぬ顔をしてトイレに駆け込んで眉を描くべし。
それも描き忘れました……じゃなくて、化粧直しの振りをしてさりげなくね。
トイレにだって他の人がいるんだから、気づかれないようにさりげなく。
よし、これで行こう! ……と作戦を決めたわたしが、心の中で気合いを入れたところで不意に呼ぶ声がする。
「藍月」
「か、ちょ……代理っ」
振り返ってみれば、都実課長代理がすぐそこに立っていた。
まさかいるとは思わなくて、心の準備が出来ておりませんでした。
軽く咳払いをして喉のつかえを取ってから、慌てて挨拶をする。
「お早うございます」
「お早う。
風邪か?」
「いえ、ちょっと驚いて……」
「そうか?
歩きながら話そう」
この人混みで立ち止まるのは、他の人の迷惑になること以上に危険だから。
課長代理に背を押されるように歩き出そうとしたわたしは、さっきの彼女のことを思い出すけれど、とっくに会社に向かってしまったらしい。
さっき見掛けた場所にはもういなかった。
つまり彼女はわたしを見ていたのではなく、こちらに向かってくる都実課長代理を見ていたってことだと思う。
よくよく考えてみれば、身長158㎝のわたしがこの人混みの中で目立つはずがない。
それこそ探したって見つけるのは大変だと思う。
比べて課長代理は身長192㎝と、腹が立つくらい背が高いからこの人混みでも十分に目立つ。
探すまでもなく
つまりそういうことよね。
じゃあ眉はちゃんと描かれている……と思いたいけれど、自覚があるくらいわたしは小心者だから、鏡で確かめるまで安心出来ない。
それでついうっかり片手で前髪を押さえていたら……もちろん眉が見えないようにね。
それこそちょっと前髪が気になります……と、前髪のせいにして額を隠していたら、課長代理に尋ねられる。
「やっぱり熱でもあるのか?」
「いえ、大丈夫です。
その、ちょっと前髪が気になって……」
「顔が見えない」
…………は?
えーっと上司様、今なんとおっしゃいましたか?
おまけにわたしの気のせいでなければ、なんだか不機嫌な気もするのですが?
それこそ上司様のほうが体調不良とか?
「俺が?」
「大丈夫そうですね」
だったらその不満そうな顔はなんですか? ……と強気には訊けない。
訊いても大丈夫だとは思う。
だってほら、仮想現実では結構いいたい放題じゃない。
言葉の使い方や言い回しにさえ気をつけておけば、不機嫌の理由くらい訊いても大丈夫だと思う。
思うんだけれど訊けないのは、会社が近づくにつれ、こう……その、見られているような気がして、そっちの方が気になってきたから。
訊けないというより、訊く余裕がないというか。
そりゃ駅を出た時より、会社に近づくにつれ周囲にいる人の中に同じ会社の人が増えてくるのはわかるんだけれど、この刺すような、あるいは探るような視線は何?
普通に見ているというより……いえ、普通に見られても十分気になるけれど、チラ見してるくせに見てませんみたいな態度で、会社に向かって早足に歩いて行く。
そもそもそのチラ見は何っ?
見るなら堂々と見ろ! ……と強気に言えないのはわたしの性格で、見られても困るしかないのもわたしの性格なんだけれど、朝から居心地が悪いというか、落ち着かないというか。
会社に着くまでこのままというのもキツいけれど、かといって行き先が同じとわかっていて、ここで課長代理と別れて別々に出社というのもおかしな話。
おまけにおでこを押さえることの何が気に入らないのか、「顔が見えない」 とか文句をつけてくる我が儘大魔王上司様が、そんな意味の無い申し入れを聞き入れるとは到底思えない。
絶対無理
……ということはこのまま一緒に出社するしかないというわけで、このままチラチラ見られ続けるしかないということらしい。
お陰様をもちまして、朝から神経を削られ、無駄に体力を消耗しました。
会社に着いた時は本当にホッとした……けれど、社内のほうがもっとキツかった。
それまでのチラ見が全然マシだったと思えるほど、みんなジロジロと見てくる。
なにこれ?
どんな状況?
会社の外だと社外の人間が多くいて、それが障壁になっていた。
その障壁がなくなって視界が広がった分、向けられる視線が露骨で。
エレベーターの中なんて、すぐそこでジロジロと見られて本当に居心地が悪かった。
もうね、これ以上はないくらい無遠慮。
それこそ狭い空間だから、50㎝くらいの距離から真っ直ぐに見られるんだもの。
逃げ場もないし、すぐそこに課長代理がいてくれてもしがみつくわけにもいかないし。
でも本心をいえば課長代理の陰に隠れたかった。
それを一心に堪えたおかげで、居心地が悪い上に変な緊張感があって、ちょっと脇汗が滲む。
やっぱり真冬でも汗ふきシートを持ち歩いたほうがいいのかもしれない。
背中とか、ちょっとしっとりしてきた気がする。
部署があるフロアまで、それこそ一、二分の乗車時間だったはずなのに、課長代理に続いてエレベーターを降りた瞬間、周囲の目も気にせず溜息を吐いてしまった。
「どうした?」
「いえ、ちょっと……」
注目されることに慣れているのか、元々気にならない性格なのか、全然平気そうな課長代理。
クロエもたいがいだけれど、課長代理の心臓も鋼鉄製だと改めて思った。
それこそ鋼鉄製の心臓に、クロエに負けないくらい太くて頑丈な剛毛をフッサフサに生やしてると思う。
とりあえずわたしとしては、まずおトイレに行って眉毛の所在と安否を確認しなければ安心出来ず、課長代理とはここで一度お別れしようと思います。
「あの、課長代理、わたし……」
「呼び方」
はい?
おトイレに寄ってから部署に行きますと言おうとしたら、笑顔で遮られました。
朝から眼福……と、その稀少な笑顔に癒されたらよかったんだけれど、そうしたら少しは気力も回復したと思うんだけれど、そのいい声で紡がれた言葉の意味がわからず脳がフリーズ。
全然回復しないどころか、凍った脳みそを瞬時に解凍してフル回転させることになった。
でも全然わからなかったんだけどね。
脳みその回転に全集中したおかげで表情が固まっちゃって、ファンデーションのよれが気になる。
眉毛の所在と安否確認ついでに、ファンデーションも直しておかないと。
「課長代理? あの、呼び方って、なんのお話でしょうか?」
「その呼び方。
考えておくと言っていただろう」
えーっとですね、本当になんのお話でしょう?
しかもわたしたちはエレベーターの前で立ち話をしているものだから、通りかかる社員がやっぱりジロジロ見ながら通り過ぎる。
その視線が痛かったり面映ゆかったりで居心地が悪い。
だから急いでこの場を離れたくて、思い切って尋ねてみる。
「本当になんのことかわからないので教えてください」
「教えない」
………………まさかそう返されるとは思いませんでした。
しかも拗ねたような顔をするとか、ずるくないですかっ?!
これ、なんの話かわからないわたしが悪いんですかっ?
想定外の返事に対応出来ず狼狽えてしまったら、課長代理はいつもの顔に戻って……ううん、ちょっとだけ意地悪そうに笑ってる。
「とりあえず前髪を直してくるんだろう?
行きなさい。
話はあとだ」
自分の腕時計を見ながらそう言った課長代理は、軽くわたしの背を押した……と思ったら今、絶対髪に触った。
本当に一瞬だけれど……あぁぁぁ……どうしてよりによってこのタイミングなのぉ?
だって満員電車でぐちゃぐちゃにされて、駅から会社までのあいだ寒風にさらされてばさばさなのよ。
どうせだったら綺麗にしてから触ってよ!
そんな我が儘なことを考えながら急ぎ足でトイレに入ると、鏡を前にして化粧ポーチを取り出したところでなぜか金曜日の記憶が蘇る。
人間の記憶って関係ないタイミングで、それこそ 「どうしてこのタイミングっ?!」 と思うようなところで蘇ることがしばしばあると思う。
少なくとも20年も生きていれば、一回くらいはそんな経験をしているはず。
で、その蘇った記憶によりますと……
「会社じゃないんだ、その呼び方はよせ」
……そんなことを課長代理に言われたような気がする。
いえ、これは蘇った記憶だから 「気がする」 んじゃなくて 「言われた」 のよ。
うん、間違いなくそう言われました。
それでどう呼べばいいのか、課長代理の要求を訊いたら返事がこれ。
「どう呼んでくれるか、楽しみにしてる」
………………えっと、我ながら突っ込みどころが幾つかあるんですが、それこそさっきのタイミングで思い出していれば 「ここは会社です」 という反論も出来たのに。
いえ、まぁ会社じゃなくても考えてなかったから呼べないんだけどね。
だってすっかり忘れてたんだもの。
だから会社じゃないと困るんだけどね。
会社だから助かったんだけどね。
そもそもさっきのタイミングで思い出していれば……なんて、すっかり忘れていた立場でなにを言ってるんだ? ってレベルよね。
そんなことを考えて落ち込みそうになったついでに、引き直した口紅がはみ出そうになった。
ヤバい!
とりあえず眉毛の所在と無事生存を確認。
ついでにファンデーションも直して髪も入念にブラッシング。
それからようやくのことで部署に到着してみれば、課長代理は水嶋さんと話していた。
あの遅刻魔が珍しい。
遅刻じゃない日でも、いつもギリギリ出勤なのに。
「お? お早う、安積」
「お早うございます」
隣の席の国分先輩は、いつものようにタイムラインを巡回中。
始業までに定期巡回を終わらせるのに忙しいらしく、挨拶を交わしつつもわたしを見もしないけれど、それはいつものこと。
その 「いつものこと」 が今朝はおかしいくらい安心出来た。
さて、お仕事お仕事。
気持ちを切り替えて、そのついでにせっかく思い出したことをまた忘れてしまったっていうね。
いや、まぁ忙しかったのよ、今日も。
月曜日だし。
確認事項なんかもいつもより多いし。
課長代理はわたしに幾つか新たな指示を出すと、今日は午前中一杯外出。
昼過ぎには戻ってくる予定だったけれど、急遽、進行中の担当現場に取引先のお偉いさんが視察に来るという連絡があり、制作部の責任者と一緒に担当営業としてご挨拶をすべく、午前中の打ち合わせを終えたその足で現場に向かうことに。
結局帰社は夕方の予定になり、ほぼ一日不在となった。
こう言ってはなんですが、お陰様でお仕事に集中出来ました。
とっても捗りまして、「手の空いた時でいい」 と言われて保留にしていたお仕事も幾つか片付いたし、終業時間間際には清々しいくらいの気分でした。
なんていうの?
心地よい疲労感
そんな心境でした。
でもだからといって、一日をお仕事一色で過ごせたわけじゃないけどね。
わたしの仕事はデスクワークで、仕事中はずっと部署にいる。
しかもうちの部署は、営業たちの出入りはあっても、他部署の人がウロウロするところじゃないからよかったけれど、社員食堂は、文字通り社員用の食堂だから全社員が自由に出入り出来る。
お昼休みをその社員食堂で過ごすわたしは、朝のように周囲の視線を感じて居心地悪く、ついでに消化にも悪い状況でパスタをフォークに巻き付けていたら、不意に頭の上から聞き慣れた声が聞こえた。
「安積ちゃん!」
いつものように軽い調子で現われたのは、同期で、総務部にいる仙川さん。
わたしとテーブルを挟んで向かいに座る国分先輩に、相席の許可をもらったと思ったらすぐさまわたしの隣にすわってしゃべり出す。
「ねぇねぇ安積ちゃん、都実さんと付き合いだしたって本当っ?」
ここで静かににっこりと笑って冷静な対応が出来たらよかった。
よかったんだけど、出来るわけがないのよ。
だって喪女だもの。
恋愛経験値0だもの。
だから誰か教えて!
こういう時、なんて答えたらいいのっ?!
無事にヴァレンタインイベントも終了しまして、その後日談です。
イベントも色々と残るものがありましたが現実でも残るものがありまして、いつものようにうっかりしていた藍月は都実になんと答えるのか?
まずは対仙川戦からです(笑




