こいねがう
ずっと見ているだけだった。
壊れて棚にかけられた玩具のように、そっと見つめているだけだった。
これまでも、そしてこれからもずっとあの人を見ているだけなのだろう。
暗い、とても暗い感情だ。願わくば、あの人に見つからないようにと――。
そろそろ夏になるからだろうか。
じっとりとした空気の中、とある少女がそっと視線を落とした。
髪は濡れ羽色で、長く腰まで届かんばかりに伸ばしている。前髪も目を覆い隠すように頬の下まで伸び、少女の表情までも隠してしまっていた。
少女が見下ろした先――、そこから見えるのは少し崩れた石段、そして輪の雰囲気を内包している店が目につく通りがあった。
近くには緑が多くある神代公園や、都心へ行くための線路も通っている。
深大寺、そう呼ばれるこの場所で少女――日長恋歌は、とあるものを見つめていた。
楽しそうに友達らしき人物たちと喋るどこかの学校の制服を着た集団、ではなくその横を歩いていた青年だった。
嬉しそうに笑いながら、しかしどこも面白くなさそうに周囲の様子を見て回っている青年がそこに居た。
そんな様子をじっと恋歌は見つめていた。
青年が携帯を取り出したのを確認してから、恋歌は手元の携帯へと視線を落とした。
そこにはSNS――、ソーシャルネットワーキングサービスと呼ばれる携帯端末でできる近況連絡のようなもの――、が映っていた。
日付と時刻が付いた誰かの書き込みがあり、恋歌もその文字を目で追う。
そこには恋歌の立っている場所が写真付きで書き込まれていた。
もう一度彼のほうへと視線を向け、携帯を彼のほうへと向ける。
景色がぼやけてしまっても構わない。それだけを鮮明に切り取るために写真を撮った。
ちゃんと写っているかを確認してから恋歌は携帯をぎゅっと胸元で抱きしめる。
「ああ、ようやく……。ようやく見つけた」
それは青年の写真だった。
きっかけは些細なことだった。
とても嫌なことがあった。
それは酔ったお客のセクハラだった時もあったし、純粋に調子が悪い時もあった。
恋歌は我慢強い子だ。そんな周りの言葉通りに育った恋歌はちょっとしたことで他人に心配をかけてしまうのが酷く不安だった。
だからどんな時でも、友人にもネットの知り合いにも、いつもと同じように接するのが彼女だった。実際に彼女は巧妙に隠せていた。
それでも、あの人にだけは見抜かれて心配されてしまったのだ。
空気が読めないわけではないはずだった。
それなのにこの人は気が付いてくれたのだ。たった……、たったそれだけでも、彼女にとって革命だった。
それは彼女が彼を目で追うには十分で……。
初めて外を意識した。
広がっていく世界で彼を見つけた。それが、何よりも愛おしくて……。
気が付いたら、彼女はこの場所――深大寺にまでついてしまった。
そんなことを考えていた恋歌がハッとする。
今ここにいたら鉢合せをしてしまうかもしれないからだ。
恋歌が慌てて階段を降りようとして――、
「あっ!」
あまりに急いでしまっていたせいか。
走り出そうとした足は石段を踏み外し、視界が大きく斜めに傾いていた。
このままでは倒れてしまう。ゆっくりと傾いていく景色の中で恋歌がそう思った時、
ふわりと、恋歌の体が別の誰かに支えられていた。
「っと、えと大丈夫?」
いつの間に恋歌のそばまで来ていたのだろうか。倒れそうになってしまっていた恋歌の肩を青年が正面から支えてくれていた。
「あっ……、りがとう、ございます」
そう言葉にするのがやっとだった。そんな風に恋歌がお礼を口にする。
「よかった、それじゃあ」
何の感慨もなく、そして当然のように青年は立ち去ろうとする。
当然のはずの行為。それでも恋歌の心には一つの思いがあった。
行かせたくない。もっと、もっと傍に――。
青年の体が少しだけ意表をつかれたかのように仰け反る。
恋歌が彼の服の裾を引いて止めていた。
「あ、あの……!」
先の言葉が続かない。うつむいてしまって言葉が出ない。
ほとんど異性と接してこなかった自分でさえも、今自分がどれだけ怖いことをしようとしているのかも理解していた。
自分を奮い立たせるかのようにきゅっと、もう片方の手で自分の服の裾を掴む。
「わ、私この場所初めてで、知り合いもいなくて……。その、案内を――」
青年が困ったように笑う。
そうだ、あの人であるのならば頼まれた言葉はきっと断ることはできない。
彼はどれだけ辛い状況でも答えてしまう。
それに気が付いたのか、それとも気が付かなかったのか。
「えっと、じゃあ、自分でもいいのなら」
彼の答えは肯定だった。
彼に連れられて、恋歌は深大寺を回った。
迷っていた青年に対して恋歌は深大寺の有名な所を教えてほしいと言った。
彼は困ったように笑って、
「ありがとう」
そう答えた。
それからは、とても楽しかった。
植物園に来るのが少し遅かったこと。その時の写真を見せてくれた。ここの蕎麦屋はとにかく種類が多くてどこに入るのかも迷ってしまうこと。
聞かれたこと、全てを恋歌に答えた。
移動する際は黙ってしまうが、恋歌にとってそんな無言でさえも心地が良かった。
彼の横について歩きながら恋歌は思う。
今がとても楽しい、友人と来ただけではこんなに感じることもなかっただろう、と。
まるで世界に枝が伸びてくようだ。
嗚呼、我がままだろうとなんでもいい。
この時間がいつまでも続けばいいのに……。
それは、恋歌の心からの願い。今まで信じたこともない誰かへの祈り。手にしたものが続けばいいという、誰もが一度は思う願い。
同時にとても切ない願いだった。
そして、恋歌自身がよく知っていることだ。
「この辺りは蕎麦ものが多いのですね」
深大寺前に戻って来た恋歌がそう口にした。
「そうだね、普通の蕎麦――、はもう時間がないけど、そば団子は食べたことはある?」
恋歌が否定をすると、青年がちょっと待っててと言ってどこかへ行ってしまった。
ちょうど近くに座る場所があったので休憩をしていると、青年が何かを持って走ってくるのが見えた。それがさっき言ったそば団子だと分かり、財布を出そうとして、
「いいよ、少しだけその……、相談料みたいなものだから」
そう言って恋歌を押しとどめた。我が儘を言ってきた自分が何かを言うわけにはいかず、恋歌は良心の呵責に駆られながらも財布を鞄の中へと戻した。
「相談、っていうよりはちょっと聞いてほしいことがあってさ……」
「聞いて欲しいこと、ですか?」
好機だった。
これを機に彼に近づいてしまえばいい。
そうすれば優しい彼が私を傷つけても彼が自分を責めてしまうこともないはずだ。
そう思って携帯を出し――、
「あはは、好きな人が居るんだけど、いまいちその人と話す勇気がなくて、ね」
「そう、ですか……」
恋歌が彼に見えないように携帯をそっと鞄の中へと戻す。自分が恥ずかしくなる。もしかしたら、彼と仲良くなれるのかもしれないなんて考えてしまっていたのだと気が付いて。
そして、
「大丈夫です、私が保証しますよ」
そう答えた。
そのまま時間がないから、と彼に伝えてその場を去る。青年には引き留められていたが、その場所に居るのが辛かったのだろう。
少し離れた場所、ちょうどバスが付いたバス停の前。
恋歌がバスに乗り込みながらそっと、誰ともなくに口を開いた。
「さようなら、大好きな人」
そのまま立ち去ろうとして――、
誰かに、腕を掴まれた。
「――っ!」
恐怖で叫びそうになり、振り返ったその場所で相手を見て動きを止めた。
「よかった、見つけることができた」
青年がそう言って笑っていたのだから。
「僕も、僕も君を探してたんだ。ずっと、ずっと前から――」
ああ、やっぱり、この人は私を見てくれた。
この時ばかり、私は強く願ったことはないだろう。彼の言葉を、思いを聞きたい。
だから――、
時よ進めと、希う。